陰で奮闘する友を
見つけ出して称えよう!
「よくぞ、ここまで」と
思われるほど光を当て
勇気を送るのが仏法者!
諸法実相抄 P1360
『此くの如く思ひつづけて候へば流人なれども喜悦はかりなしうれしきにもなみだつらきにもなみだなり涙は善悪に通ずるものなり』
【通解】
このように思い続けていると、流人ではあるが喜悦は測り難いものである。うれしいことにも涙を落とし、辛いことにも涙をおとすものである。涙は善悪に通じているものである。
名字の言 「航海」と「漂流」の違い 2020年12月10日
人生を「航海」に例えた名言は多い。松下幸之助氏もこんな言葉を残している。「風が吹けば波が立ち、波が激しければしぶきを受ける。波を受け、しぶきをかぶっても、舵取りさえ確かなら目的の港に入ることができる」(『松翁論語』PHP研究所)▼ある壮年部員の話。彼を襲ったのは烈風と言ってもいいだろう。コロナ禍により業績が悪化した勤務先で、200人の希望退職者を募る発表があった。59歳の彼は該当者にされた。"40年間、真面目に働いた結果がこれか"と落胆した▼だが彼は、どうなろうとも最後まで「信心根本に職場で実証を示しきる」との自身の信念を貫くと決意した。後日、工場長に呼ばれた。「あなたには、いてもらわないと困る」。嵐の中でも、人生のかじを手放さなかった彼は、波浪を乗り越えた▼池田先生は「航海」と「漂流」の違いとして"明確な航路があるかないか""出発点に帰ってくるか否か"を挙げる。学会という"生命の母港"から船出し、時代と社会の荒波が猛る大海原を、師匠という羅針盤を抱いて進み、母港に帰る。これが希望・勝利の航海である▼満足な装備もない、いにしえの大航海時代。船乗りたちを未知の海に挑ませたのは、何より、彼らの「勇気」だったという。(代)
寸鉄 2020年12月10日
人一倍、後輩を育てよ—恩師。広布へ人材の流れ強く。共に動き、共に成長
「世界人権デー」。大仏法の智慧は差異超え人間の尊厳照らす。学び語ろう
人々の孤立防ぐ学会員の声掛けは益々重要—識者我らの手で共生の時代を
マスク着用で飛沫吸入が3分の1に—計算。手洗い・換気含め基本を徹底
途上国への供給枠組みに日本が参加、公明の功績大—教授。国際協調更に
☆「わが愛する青年に贈る」に学ぶ 第3回 負けじ魂〈上〉 何度でも立ち上がる勝者たれ! 林女子学生部長
◇池田先生の指導
私は青年を信じます。
たとえどんなことがあっても、
必ず、立ち上がってくれることを、
私は祈り、待ち続けます。
1 他人と比べなくてもいい
新型コロナウイルスとの闘いが続く中、大学では授業をはじめ、さまざまな活動もオンラインを活用して取り組まれています。
現在は感染症対策をしながら、対面授業を少しずつ再開しているところもありますが、大学生活の大きな変化のなかで、将来への不安や焦りを感じている学生も少なくありません。
しかし、こうした中でも、私たち女子学生部は、一人一人が自ら希望をつくりだしながら、懸命に前進しています。その姿には、「負けじ魂」の心が輝いています。
今回は、この「負けじ魂」の要諦について学んでいきます。
■ 池田先生の講義
日蓮大聖人は、偉大な師子王であられた。この「師子王の心」を受け継いだのが、わが創価学会です。ゆえに、創価後継の男女青年部は、御本仏直系の「師子王の集い」です。
(中略)
師子は何ものにも負けない。断じて勝つ。師子とは「不敗」の異名です。「負けじ魂」とは、この王者の大境涯を端的に示した言葉とも言えましょう。
(中略)
「負けじ魂」を貫く上での第一の要諦は「自分自身を信じ抜く」ことです。自身の本有の仏性を、何があっても疑わず信じ抜くこと。これが「負けじ魂」を持つ信仰者の根本条件です。
—◆—
「自分自身を信じ抜く」——。
今の青年世代にとって、とても大切なテーマだと思います。
現代は、デジタル化が進み、さまざまな情報が溢れている時代です。この「情報社会」の中で、SNSなどによって、簡単に情報発信ができる半面、さまざまな人の生活などが見えやすくなる分、常に他人と自分を比べてしまう環境におかれる傾向があるといえます。
ともすれば、「あの人はいいな」とうらやましく思い、「自分なんて」と卑下してしまうこともあります。
このような環境だからこそ、自身の中に無限の可能性があることを説く「太陽の仏法」が、いやまして重要であると感じられてなりません。
生き方の芯を築く大切な青年部の時代に、信心の実践を通し、何があっても負けない心を磨いていきたいと思います。
2 幸福は自分自身の中に
池田先生は、「一生成仏抄」の一節を通して、自身の可能性を確信して祈っていく大切さを次のように指導してくださいました。
【御文】
『妙法蓮華経と唱へ持つと云うとも若し己心の外に法ありと思はば全く妙法にあらず糞法なり』(一生成仏抄、御書383ページ6行目〜7行目)
【現代語訳】
妙法蓮華経と唱え持っているといっても、もし、自身の生命の外に法があると思ったならば、それはまったく妙法ではなく、糞法(不完全な法)である。
■ 池田先生の講義
大聖人の仏法は、"自分の中に偉大なる仏の生命がある"と、自覚するところから出発します。
ゆえに、私たちの祈りとは、何かに助けてもらうというような、"おすがり信仰"ではありません。どこまでも自分自身の可能性を信じ抜く戦いです。自らの生命に具わる仏界の生命を涌現していくのです。その「月月・日日」(御書1190ページ)の勝負なのです。
大聖人は、「己心の外」に法を求めるならば、どんなに題目を唱えていても成仏は叶わず、むしろ無量の苦行になってしまうとまで仰せです。
「己心の外」に法を求めるとは、自分の外に、幸・不幸の原因と結果を求めることです。"あの人が悪い""条件が悪かった"といった、責任転嫁もそうでしょう。
—◆—
とりわけ学生時代は、未来に向かって大きく羽ばたいていくための土台を築く時だといえます。だからこそ、悩みも多様です。
勉強のこと、友人や家族のこと、恋愛のこと、将来の進路や夢……。
こうした悩みに直面した時、その悩みをどう捉え、乗り越えていくか——。
"「己心の外」に法を求める"とは、私たちで言えば、悩みと向き合うことを避けたり、"自分には無理だ"とあきらめたり、"なぜ自分がこんなふうに悩まなければいけないのか"と嘆いたりすることと言えます。
このように思った経験は、誰しもあるのではないでしょうか。
しかし、幸・不幸の原因を自分の外に求めていては、苦難を乗り越えることはできません。
悩みと真正面から向き合い、御本尊に向かって題目を唱えていくなかで、自分自身の無限の可能性を引き出し、未来を大きく開いていくことができるのです。
私たちは、日々の勤行・唱題のなかで「この悩みを絶対に乗り越えてみせる!」「必ずこの信心で幸福をつかむ!」と確信の祈りを重ね、勝利の青春を歩んでいきたいと思います。
3 師匠はあなたを信じている
ひとたび確信をもって挑戦しても、思い通りにいかない苦境に直面することもあります。そんな時、大切なことはなんでしょうか。先生はこう語られています。
■ 池田先生の講義
たとえ、人生の途上で、自身の思い願った通りにならなくとも、「負けじ魂」の人に決して悲観はありません。
戸田先生は、女子部の友に語られました。
「もったいなくも、御本仏と同じ生命を持っている自分自身に誇りをもちなさい。気高い心で、人生を勝ちぬくことです。自分自身を卑しめていくことは、絶対にあってはならない」
"自分なんてだめだ""自分には無理だ"など、さまざまな人生の落胆や感傷に流されず、悠々と乗り越えていけるのが日蓮仏法です。
本来、尊極な自身の生命を矮小化させようとする「元品の無明」を決然と打ち破るのが、妙法の功力なのです。
いわば、唱題とは自分自身が仏であることを覆い隠す、胸中の無明との闘争です。ゆえに真剣勝負です。唱題で不信をねじ伏せ、小さな自分の殻を打ち破ることです。題目こそ、悲哀さえも創造の源泉に変えゆく根源の力なのです。
大聖人は、「妙法と唱へ蓮華と読まん時は我が一念を指して妙法蓮華経と名くるぞと深く信心を発すべきなり」(御書383ページ)と仰せです。深く信心を起こし、一念を定めて祈ることで、本来の自分に立ち戻り、元初の生命を奮い起こす戦いこそが唱題行という仏道修行なのです。
—◆—
私が「負けじ魂」の生き方を学んだのは、学生時代に、友人への折伏に挑戦した時です。
女子部の先輩に「折伏は人間革命への一番の近道だよ」と励ましていただき、挑戦を決意。それでも当初は「何のために折伏するのか」とばかり考え、難しく捉えていました。しかし、小説『新・人間革命』を学ぶ中、池田先生の一人を徹底して大切にされる真心に触れ、「目の前の一人の幸福のための折伏なんだ」と心から納得し、挑戦を開始しました。
ところが、語っても語っても対話は実らず、「私には折伏はできないのでは」と自身の使命を信じられなくなる時もありました。そんな時、必死に祈る中で思い起こしたのは、自分の使命と勝利を、自分以上に信じてくださる師匠の存在でした。
「自分を信じることは難しいけれど、師匠が信じてくださっている自分なんだ」——。そう思うと無限の勇気が湧き、友人へ粘り強く対話を重ねるなか、折伏を実らせることができました。
この体験を通し、師匠を心に思い浮かべ、題目を唱え抜いていくなかで、自身の小さな殻を打ち破り、悩みを悠々と見下ろしていける自分に成長できるのだと心に刻みました。
4 "創価家族"の輪の中で成長
今の女子学生部メンバーの多くは、生まれた時から信心が身近な環境で育ってきています。そんな私たちへの期待を先生はこうつづられています。
■ 池田先生の講義
"自分自身が妙法の当体なり"と心定めた人生に恐れるものはありません。
忘れ得ぬ1982年(昭和57年)1月の「雪の秋田指導」の折、青年部総会にも出席し、誉れの父母たちに続く若き後継の弟子たちに私の思いをそのまま語りました。
「自分が思うと思わざるとにかかわらず、諸君をわが門下生と信頼しています!」
今も、この思いは、いささかも変わることはありません。誰がなんと言おうと、誰もが、偉大な広布の使命を担った、かけがえのない宝の一人です。その人にしか広げることのできない仏縁を持った、貴き宝友です。
—◆—
日々、女子学生部のメンバーと語り合う中で「信心の体験がない」「お題目の確信がまだつかめていない」といった声を聞くことがあります。
そうした悩み自体が、本当に素晴らしく尊いことであると励ましながら、私はよく「当たり前に感じる日常の中で、お題目の体験をつかんでいくことが大切だよ」と伝えています。
私自身も、"学会3世"として創価の庭で育つなか、どんな小さな願いや悩みも祈りに変えて、信心の体験をつかむ大切さを学びました。
そのきっかけは、両親をはじめ、創価家族の「信心の確信」に触れたことです。
未来部時代、うれしい時も、悩んでいる時も、「全部叶うんだから、まず祈ることだよ。祈りで開いていくんだよ」と励まされ、幼いながらに「そんなにすごい力があるなら祈ってみよう」と御本尊の前に座り始めました。
「明日晴れるように」「友達と仲直りができるように」など、日常の中で叶えたいことを一つ一つ書き起こし、祈りが叶うたびに、線を引き、お題目の力を実感。その一つ一つの積み重ねが、今の自分自身の信心の確信になっています。
女子学生部時代は、福智を磨き、幸福の土台を築く大切な時。私たちは、師匠のご期待を胸に、信心を根本に負けない青春を歩んでいきます。
■ 池田先生の講義
私は青年を信じます。たとえどんなことがあっても、必ず、立ち上がってくれることを、私は祈り、待ち続けます。
人の毀誉褒貶に振り回される必要などない。自分らしく、学会っ子らしく、創価の若人らしく、桜梅桃李の使命の道を朗らかに、堂々と歩んでいけばいいのです。