2020年12月2日水曜日

2020.12.02 わが友に贈る

未来部の成長こそ
人類の希望なり。
勝利の春を目指す
受験生のいる家庭に
最大の励ましと配慮を!

聖人御難事 P1190
『各各師子王の心を取り出していかに人をどすともをづる事なかれ、師子王は百獣にをぢず師子の子又かくのごとし、彼等は野干のほうるなり日蓮が一門は師子の吼るなり』

【通解】
各々、師子王の心を奮い起こし、いかに人が脅そうとも、決して恐れてはならない。師子王は百獣を恐れない。師子の子もまた同じである。彼らは、野干(狐)が吼えているようなものである。日蓮の一門は、師子が吼えているようなものである。

名字の言 復興支援に携わった青年が気付いたこと 2020年12月2日
この夏、大きな被害をもたらした「令和2年7月豪雨」。復興支援に携わってきた青年が「心に焼き付いて離れない」という場面を語ってくれた▼浸水被害に遭ったお宅で、片付け作業を手伝った時のこと。家主の婦人は、作業中は気さくに振る舞っていた。が、作業を終え、いざ廃材を載せた車が出発する段になると、下を向き、肩を震わせ、泣いていた▼被災地には、思い入れの深かった物品を、家を、仕事をなくした方がいる。身近な人を失った方も。そうした方々と時間を共にする中で、青年は実感した。"苦難のただ中にある人は、いくら気丈に見えても、胸の奥に計り知れない感情をしまい込んでいる""誰だって、心の復興には時間がかかるんだ"と▼人と関わる時、最も大切なのは相手の気持ちを知ることだろう。そのためには、まず「聴く」こと。つらくて話せない人もいるかもしれない。その時は「待つ」こと。掛ける言葉が見つからなくても、「祈る」ことはできる。相手を信じ、静かに見守ることが、何よりの支えになることもある▼行動は迅速に。けれど、悩める友との対話は、じっくり寄り添って。どんな試練さえ幸福の糧にしゆく「蘇生の力」が、誰の生命にも必ずある。それを強く強く確信しよう。(実)

寸鉄 2020年12月2日
『人間革命』起稿の日。歴史変えるのは民衆の力—混迷の今こそ心に刻み
信心の世界に何一つ無駄はない—恩師。悩んだ分、成長の糧に。勇んで挑戦
文芸部の日。一騎当千の闘士よ!ペンの剣で社会を毒するデマを打ち砕け
未来を生き生きと思い描くと脳は活性化—研究。広布の理想胸に100周年へ
子育て中の親7割が孤独を実感と。話せば気持ちは軽く。励まし絶やさず

〈社説〉 2020・12・2 きょう「文芸部の日」
◇創価の民衆叙事詩を世界へ
1964年(昭和39年)の12月2日、池田先生は小説『人間革命』の執筆を開始した。広布史に燦然と輝くこの起稿日が、後に「文芸部の日」と制定された。
小説『新・人間革命』を合わせた54年に及ぶ執筆は、まさに生命を削る大闘争であった。「私は、書いて、書いて、書きまくってきた。目的があったからだ。友に希望を届けるために! 勇気を贈るために! 勝利を開くために!」「自分が感動せずして、人の心を揺り動かせるわけがない。我が身を炎と燃やさずして、文章で人を照らせるはずがない。私は生涯、書き続ける。友のために」——この師の心をわが心として、崇高なる師の言論戦に連なろうとの誓い。それこそが、文芸部の誇りである。
文芸部の友は、小説、詩歌、エッセー、出版・編集、コミック、児童文学、シナリオなど、多彩な分野で「人間主義文芸の旗」を掲げ、健筆を振るう。
茨城のある文芸部員は、4作目となる詩集を発刊した。学生時代から小説や詩歌づくりを続けてきた彼は、33歳で仏法に出あい、正しい人生の道を知ると、風景の全てが美しく見えるようになったという。八十路を前にした今、師への報恩の心で、自身の故郷、鹿児島・奄美群島の徳之島を題材にした詩集を編んだ。題目を唱えながら、澄んだ心で紡ぎ出された、飾り気のない言葉が読む者の心を打つ。「未来を担う若者たちへ"人間の詩"を詠み残したい。文字通り、生命を使い、使命を果たします」と。かつて有吉佐和子氏に師事した夫人も、自身初となる詩集を発刊。未来を見つめて創作に挑む夫妻の姿が地元紙に紹介されるなど、爽やかな話題を呼んでいる。
関西文芸部員の宮本輝氏は、今秋、広布文化賞を受賞した。青年時代、心の病と闘いつつ、太宰治賞や芥川賞などを受賞。芥川賞の選考委員を24年間も務めた、日本を代表する作家である。氏は、「私の『文学の師匠』は、池田先生です」と胸を張る。そして、「作家として、これからも書き続けていく——それが、私の戦いであり、師匠への報恩です」と語る。
コロナ禍という人類史的難局に直面し、英知を結集して克服しようと挑みゆく今、最高峰の生命哲学を携え、新しい人間主義の文芸復興を担い立つ文芸部の使命は大きい。
池田先生はつづっている。「わが文芸部の同志が謳い上げる生命の讃歌は、全てが創価の民衆叙事詩として、世界へ未来へ受け継がれゆくことを、私は確信している」と。
桜梅桃李の花を爛漫と咲き薫らせ、勇気と希望を送りゆく"ペンの勇者"たちの、さらなる活躍を祈る。

☆心に御書を 第91回 心はずませ励ましの劇を
<御文>
『不軽菩薩の人を敬いしは・いかなる事ぞ教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ』(崇峻天皇御書、1174ページ)

<通解>
不軽菩薩が人を敬ったことには、どのような意味があるのだろうか。教主釈尊の出世の本懐は、人の振る舞いを示すことにあったのである。

<池田先生が贈る指針>
「人を敬う」——この法華経の修行の肝心を現代に蘇らせたのが、わが学会である。仏法対話も友好活動も、その人の仏性を信じて、共に生命を高め合う不軽菩薩の実践にほかならない。
不信と憎悪が噴出する世界にあって、信頼と尊敬の創価の連帯こそ、人類の希望なのだ。賢き「人の振舞」で、心はずませ励ましの劇を!

☆ロータスラウンジ 第20回 従地涌出品第十五
あらゆる差異を突き抜け
人間としての根源の力で人々を救うのが地涌の力

■大要
「従地涌出品第十五」では冒頭、会座に集まった菩薩たちが、仏の滅後に娑婆世界で法華経を弘通する許しを請いました。ところが釈尊は、その願いを退けます。すると、大地の底から滅後の弘通を担う無数の「地涌の菩薩」が出現し、会座の人々は驚きとともに疑いを起こします。それでは内容を追ってみましょう。

●シーン1
その時、他の国土から集まっていた八恒河沙(恒河はガンジス川のことで、その砂の数が一恒河沙。その8倍)を超える菩薩が立ち上がり、釈尊に合掌して許しを請います。
「釈尊よ。仏の滅後に、この娑婆世界で法華経を護持し、弘めることを許してくださるならば、私たちは法華経を広く説きます」
釈尊は答えます。
「止めなさい。あなたたちが、法華経を護持し、弘める必要はない。なぜなら、この娑婆世界には、私の滅後に法華経を弘めてくれる六万恒河沙等の菩薩たちがいるからだ」
すると、娑婆世界の全国土が震裂し、そこから無量の菩薩が一斉に出現します。この菩薩を、大地から涌き出でたので「地涌の菩薩」といいます。
その姿は、身は金色に輝き、三十二相(仏が具えるとされる32の優れた身体的特徴)を具え、無量の光明を放っています。さらに、それぞれが六万恒河沙等の眷属(仲間)を率いています。
出現した地涌の菩薩たちは、まず宝塔の中にいる釈尊と多宝如来のもとに詣でます。
続いて、十方世界から集まってきた無数の仏たちのもとへ行って、それぞれの仏を、さまざまな形でたたえます。それには、五十小劫という長い時間がかかったにもかかわらず、釈尊の神通力で、集まっていた人々は半日のように感じました。
次に無数の「地涌の菩薩」の大リーダーとして、上行・無辺行・浄行・安立行の四菩薩が、釈尊に合掌し、呼び掛けます。
「今、救おうとされている者たちは、たやすく導くことができますでしょうか。釈尊を疲れさせてはいないでしょうか」
釈尊は答えます。
「決して疲れてはいない。これらの衆生を導くのは易しいことです。このもろもろの衆生は、過去世以来、私の教えを受けてきたのです。皆、私の教えを聞いて、仏の智慧に入ったのです」
地涌の菩薩は釈尊をたたえます。
「すばらしいことです。偉大な英雄である釈尊よ。私たちも随喜します」

●シーン2
いまだかつて見たことのない、偉大な菩薩の出現に驚く人々の思いを、弥勒菩薩が代表して、釈尊に質問します。
「この無量の菩薩たちは、昔から今まで見たことがありません。釈尊よ、どうかお話しください。彼らはどこから来たのでしょうか。何の因縁によって集まったのでしょうか」
他の国土から来た諸仏に仕える侍者たちも、それぞれの師である仏に、弥勒菩薩と同じ質問をします。
諸仏は侍者たちを諭します。
「しばらく待ちなさい。あの弥勒菩薩は、釈尊に次いで、後に仏になる人です。釈尊は今、その弥勒菩薩の質問に答えられるであろう。よく聞いていなさい」
釈尊は弥勒菩薩をたたえます。
「すばらしい、すばらしい。弥勒よ、あなたは私にそのような大事なことを質問した」
そして、「我は今実語を説く 汝等は一心に信ぜよ 我は久遠従り来 是等の衆を教化せり」(法華経467ページ)と、地涌の菩薩をずっと教え導いてきたことを述べます。
弥勒菩薩は、疑念を深める皆の思いを代表して、再び問います。
「釈尊は、王宮を出て出家され、悟りを開かれてから40余年になったばかりです。
このわずかな期間で、このような無量の大菩薩を教え導いたとは、とても信じられないことです。
例えば、若々しい25歳の青年が、100歳の老人をさして『これは我が子である』というようなものです。
私たちは、仏の言葉を信じています。しかし、後に新たに発心する菩薩たちが、仏の滅後にこの教えを聞いたなら、信じて受け入れることをせずに、法を破る因縁を作ってしまうかもしれません。
お願いです。その人たちのためにも、くわしく説明して、疑いを除いてください」
弥勒菩薩の問い掛けで、この品は終わっています。
この問い掛けに関わる一連の流れを「動執生疑」といいます。言葉の意味は、浅い教えに執着している心を動揺させて、疑いの心を生じさせることで、仏が衆生を真実の教えに導く方法の一つです。
日蓮大聖人は「開目抄」で、この弥勒菩薩の疑念に対して「此の疑・第一の疑なるべし」(御書213ページ)と、最も重要な疑いであると仰せです。それは、この疑いが末法の一切衆生の成仏の道を開く鍵だからです。そして、この疑念に答えるのが、次の「如来寿量品第十六」です。

◇四菩薩は賢王に
「地涌の菩薩」の大リーダーである四菩薩が末法に出現する時、どのように振る舞うのか。
日蓮大聖人は、「観心本尊抄」で「四菩薩折伏を現ずる時は賢王と成って愚王を誡責し摂受を行ずる時は僧と成って正法を弘持す」(御書254ページ)と仰せです。末法で折伏を進める時には賢王、つまり在家の賢明なる指導者となって出現するのです。
池田先生はつづっています。
「現実の社会にあって、日常の人間生活にあって、仏法の生命尊厳の思想を浸透させていく『賢王』という人間主義の振る舞いは、具体的には、文化・教育・平和の次元に現れます。『文化の大地』を耕し、『教育の大光』を広げ、『平和の大道』を開いていくのです。絢爛たる人間革命の文化が創出されます。その中で人類の調和と共生の花を爛漫と咲かせていくのです」(『人間革命の宗教』所収「民衆仏法(下)」)

【『法華経の智慧』から】 生命の底力は偉大なり!
菩薩ということは、完成(仏果)ではなく、未完成(仏因)である。未完成でありながら、完成の境涯を体に漲らせている。否、完成の境涯を法楽しながら、しかもさらに先へ、さらに高みへ、さらに多くの人々の救済へと行動している。未完成の完成です。
地涌の菩薩とは、妙法を根本とした「永遠の行動者」であり「永遠の前進」の生命です。その、はつらつたるエネルギーを、我が生命にわき立たせていくのが、個人における「地涌の出現」です。これまでの小さな自分の殻を叩き破っていくのです。

自分の生命の偉大さに気づかないゆえに、小さな枝葉末節にとらわれてしまう。民族とか人種とか、性別とか社会的地位とか。そうした、あらゆる差異を突き抜け、人間としての根源の力で人々を救うのが地涌の力です。(中略)いわば、地涌の出現とは、「生命の底力は、かくも偉大なり!」という壮大な轟きです。地響きです。これを世界に広げていくのです。(普及版〈中〉「従地涌出品」)

【コラム】 地涌の菩薩——巍巍堂堂として尊高
地涌の菩薩の偉大な姿が、従地涌出品には、次のように記されています。
「志念力は堅固にして 常に智慧を勤求し 種種の妙法を説いて 其の心に畏るる所無し」(法華経466ページ)「善く菩薩の道を学して 世間の法に染まらざること 蓮華の水に在るが如し」(同471ページ)
御書には、「巍巍堂堂として尊高なり、釈迦・多宝・十方の分身を除いては一切衆生の善知識ともたのみ奉りぬべし」(御書211ページ)と仰せです。
偉大な地涌の菩薩も、決して自分たちと関係ない存在ではありません。「日蓮と同意ならば地涌の菩薩たらんか(中略)皆地涌の菩薩の出現に非ずんば唱へがたき題目なり」(同1360ページ)と、大聖人と同意で題目を唱え、広布に邁進する人は、地涌の菩薩であると仰せです。
つまり、私たちは、現実世界の中で、地涌の底力を発揮しながら、地域の、社会の希望と輝いていくことができるのです。