仏法の真髄は
人の振る舞いにある。
地域や職場の発展を祈り
誠実一路で行動する中に
信頼と勝利の実証が!
持妙法華問答抄 P465
『されば持たるる法だに第一ならば持つ人随つて第一なるべし、然らば則ち其の人を毀るは其の法を毀るなり其の子を賎しむるは即ち其の親を賎しむなり』
【通解】
それゆえ持たれる法さえ第一ならば、持つ人もまた第一なのである。そうであれば、その人を毀るのはその法を毀ることである。その子を賎しむのは即ちその親を賎しむことである。
名字の言 武田信玄の人材登用 2020年11月26日
人材登用に長じた戦国武将といえば、武田信玄はその一人だろう。信玄は、その人の能力や個性をどう見抜いたのか。その手法の一つが、いわゆる"雑談"だった▼屋敷の炉端を囲み、若い衆と雑談する中で、信玄が深遠な教訓を口にする。それを聞く態度で逸材を抜てきしたという。下克上の世とはいえ、「上下の関係」が厳格な時代に、立場を超えて、そのような"雑談"が可能だったこと自体が、信玄自身の「人間的魅力」の表れと思える▼ある壮年リーダーが、活動に消極的な壮年部員の家を訪ねた。1回目、「いないよ」と小学生の子どもに言われた。2回目、「疲れてもう休んでしまいました」と夫人に謝られた。3回目、ようやく会えた▼壮年と語らう中で知った。実は1、2回目とも居留守を使っていた。だが、玄関先でわが子の学校での頑張りを褒めたたえ、妻に感謝を述べる言葉を聞き、"この人に会ってみたい"と思ったという。壮年リーダーの人柄が、会いたくないと思っていた心を変えたのだ▼先日、その壮年部員が座談会に参加し、語った。「こういう場って、いいですね。皆の目線が同じ高さだから」。相手を尊敬すること。立場や肩書を脇に置いて、一人の人間として語り合うこと——そこから人間の連帯は生まれる。(城)
寸鉄 2020年11月26日
若くして信心するのは、生涯幸福になる為—恩師君よ不動の自己を鍛えよ
山口女性の日。賢く朗らかな太陽の連帯!蘇生の力送る希望の対話を拡大
我らの戦いは御書根本。日々、一節でも一行でも。峻厳な蓮祖の精神を命に
CO2濃度は依然、上昇傾向が続くと。持続可能な社会へ弛みなく取組を
電動自転車での高齢者の転倒事故多し。急発進・加速等で。急がず油断せず
☆いのちの賛歌 心に刻む一節 生死と向き合う 2020年11月17日
新たな生命への旅立ち
◇御文
『大地はささばはづるるとも虚空をつなぐ者はありとも・潮のみちひぬ事はありとも日は西より出づるとも・法華経の行者の祈りのかなはぬ事はあるべからず』(祈祷抄、1351ページ)
◇通解
大地をさして外れることがあっても、大空をつなぐ者があっても、潮の満ち干がなくなっても、日が西から出ることがあっても、法華経の行者の祈りのかなわないことは絶対にない。
◇次男の骨肉腫が判明
寺窪正広さん(57)=東京・八王子総区長=と妻・利美さん=区副婦人部長=の次男・賢治さんは、2009年8月、18歳で人生の幕を閉じた。葬儀の日、予報されていた台風の進路がそれ、八王子の空は夕日で茜色に染まった。まるでドラマのワンシーンのようだったという。寺窪さん夫妻は穏やかな表情で、闘病の日々を語ってくれた。
◇
中学1年で花形の背番号10を背負うほどの"サッカー少年"だった賢治さん。異変が起きたのは、05年の暮れ、中学2年の時だった。「左膝が痛い」と訴え、病院へ。精密検査を受けた結果、「骨肉腫」と判明した。
寺窪さんは振り返る。
「"まさか"という気持ちでした。それ以上に、悲嘆する次男の姿を見るのが本当につらかった。私自身、不安や恐れが頭をよぎりました」
その心を変えてくれたのは、学会の先輩の励ましだった。「今が宿命転換の時。毛筋ほども御本尊を疑ってはいけないよ」——確信あふれる言葉に、一念が定まった。
この時、寺窪さんが拝した御書の一節が、「法華経の行者の祈りのかなはぬ事はあるべからず」(1352ページ)だったという。
「祈りがかなう、かなわないじゃない。断じてかなえてみせる。絶対に乗り越えてみせる。そう、覚悟を決めたんです」
抗がん剤治療が始まった。高熱や嘔吐など、重い副作用が賢治さんを苦しめた。髪の毛も全て抜け落ちた。「それでも、賢治は決して弱音を吐きませんでした」
賢治さんが入院中、毎晩、家族全員で時間を合わせて唱題し、病と対峙した。やがて、抗がん剤や手術で膝の腫瘍は消え、07年1月に退院。3月には中学を卒業できた。教職員や同級生たちも喜んでくれた。
ところが翌月、高校入学直後に再発が分かる。
再び入院し、治療と再発を繰り返す中、腫瘍は肺に転移していった。再発から1年後の08年3月、医師は「いつ逝ってもおかしくありません」と告げた。
「そんな状態でも、賢治は『題目で絶対に治す!』と引きませんでした。私たち家族にも、迷いは全くなかったです。ここからが本当の勝負だな、と」
治療は過酷だった。病魔の勢いに押されないよう、一段と決意を込めて、家族で猛然と御本尊に祈った。
「賢治君 頑張れ! 戦い続ける君に 勝利あれ!」——思いがけず届いた池田先生からの伝言に、家族の心は奮い立った。高校3年となった09年4月には、一時退院して家族旅行にも行けた。
「主治医が『ここまで抗がん剤治療に挑戦した子は記憶にない』と驚くほどでした。闘病中、笑顔を絶やさない賢治の姿に、家族や周囲がどれだけ救われたことか。見舞いに訪れた同級生を明るく迎え、学会活動に走る私や妻には、『俺は大丈夫だから、気を付けて行ってきて』とメールをくれて」
しかし、徐々に弱ってきているのは分かっていた。
同年8月25日の深夜、病院で次男に付き添っていた妻から電話があり、寺窪さんは、長男・正昭さん(32)=男子部部長=を車に乗せて、急いで病院へ走った。
病室に駆け込むと、賢治さんはすでに息を引き取っていた。
穏やかな表情だった。寺窪さんは、泣きながら強く抱き締めた。
「賢治、よく頑張ったな……」
体に残っていたぬくもりが、まるで「お父さん、待っていたよ」と言っているようだった。
「聞けば、賢治は病院で、同じ病気と闘う子たちを、いつも励ましていたそうです。医師や看護師の方々にも、気遣いの言葉を掛けていました。自分が一番つらかったはずなのに、賢治は常に前を向き、一度たりとも病魔に負けませんでした。
『18年間』に命を凝縮させ、精いっぱい自分の使命を果たし抜いて、堂々と新しい生命へ旅立ったんです。私たち家族は、信心で乗り越えることができました」
賢治さんが母親に最期に告げた言葉は、「ありがとう」だった。利美さんは、「賢治の人生最期の心は"感謝"だったんです」と唇をかみ締める。
離れて暮らす正昭さんにも、後日、話を聞いた。「苦難に負けない両親と弟の姿から、信心の偉大さを学びました」
家族の中に、賢治さんの人生は確かに刻まれていた。
寺窪さんは、「限りある命を、どう生きたか。それこそが何より大切であると、私は賢治から教わりました」と話す。「息子を失うという経験をしたことで、心から人を励ませるようになりました。これからも力の限り、一人でも多くの方々を励まし続けます」
目頭をぬぐいながら話す口ぶりは、自らに言い聞かせるようだった。
池田先生は語っている。
「宿命をも使命と変えていく強き一念は、現実の世界を大きく転換していくのです。その一念の変革によって、いかなる苦難も自身の生命を鍛え、作り上げていく悦びの源泉と変わっていく。悲哀をも創造の源泉としゆくところに、仏法者の生き方があるのです」
「いかなる難があっても微動だにせぬ正法への信を貫いてこそ、三世永遠に幸福の軌道に乗ることができる。一生成仏とは、まさに、その軌道を今世の自分自身の人生のなかで確立することにほかなりません。『戦い続ける正法の実践者』こそが、大聖人が法華経を通して教えられている究極の人間像と拝したい」(「指導選集」第2部上巻)
告別式の日、学校長や、学年の教職員・生徒全員が参列した。治療に携わった医師や看護師までもが訪れたという。
賢治さんの命日には、毎年、同級生たちが八王子の自宅を訪れてくれる。家族と一緒に、思い出話に花を咲かせる。皆の心の中で、賢治さんは今も変わらず、明るく笑っている。
[教学コンパス]
子を亡くした親の会「ちいさな風の会」で30年以上、世話人を務めてきた若林一美氏は、"死別の悲しみは、単純に時間の経過の中で変わっていくものではない"と結論する。周囲は"悲しみを持っている人が「言えないこと」に対して、敬意を払いながら向き合っていく"ことが大切であるとした上で、"たとえ体験がなくても、本当に相手を思った言葉は、必ず伝わる"と語っている(「講演会 遺族の悲嘆とグリーフケア」)。
日蓮大聖人は「言と云うは心の思いを響かして声を顕すを云うなり」(御書563ページ)と教えられた。
悲嘆の淵に沈む友を前に、ただ立ち尽くすしかない時がある。黙って一緒に涙を流す時もあるだろう。そうして向き合う時間を静かに重ねる中で、相手の心の琴線に触れるような言葉を、自然と響かせていけるのかもしれない。
友の再起と幸福を心から祈り、信じて、どこまでも待つ。私たち学会員が日々、実践する「寄り添う」「励ます」ということの意味を、改めてかみ締めたい。(優)