2020年9月26日土曜日

2020.09.26 わが友に贈る

栄光の決勝点へ
友に希望を送りゆく
「もう一歩」の挑戦を!
自分自身に勝つことだ。
執念の劇をつづろう!

聖人知三世事 P974
『我が弟子等之を存知せよ日蓮は是れ法華経の行者なり不軽の跡を紹継するの故に軽毀する人は頭七分に破信ずる者は福を安明に積まん』

【通解】
また我が弟子達もこのことをよく知って欲しい。日蓮こそまさしくこの末法にあって法華経の行者なのである。不軽菩薩の跡を承継する法華経の行者であるゆえに、軽しめたり毀ったりする人は頭が七分に破れ、信ずる者は福徳を須弥山のように積むのである。

名字の言 卓球の日本代表・水谷隼選手の復活劇 2020年9月26日
東京五輪の卓球団体などの日本代表に選出されている水谷隼選手。前回のリオ五輪でのメダルの獲得は、どん底からの復活劇だった。ルールや道具が変更になったことで、卓球の「高速化」が進み、その変化に対応できずにいた▼"水谷は終わった"ともいわれた。しかし、彼は周囲の否定的な意見に負けなかった。自らの卓球スタイルの変更を決断し、男子選手では異例の個人コーチと契約を結んだ。ロシアリーグにも参戦。あえて環境を変化させて、自身の技術を磨いた。その執念が、五輪の復活劇へとつながった▼水谷選手は述べている。「同じことをやっていけばいいと思った時点で、それは退化していることと同じ」「長くトップを維持するということは、時代の変化に適応していくということ」(『卓球王 水谷隼 終わりなき戦略』卓球王国)▼周囲の評価や環境の変化を理由に、"自分はもうダメだ"と諦めるのは簡単だ。だが、成長はそこで止まる。どんな時も自身の可能性を信じて挑戦を貫けば、必ず新しい自分が見つかる▼コロナ禍が社会を変化させつつある中で、それに適応するには大変な労力を要する。しかし、だからこそ、自分らしく、粘り強く前進を続けたい。不断の努力の人に、"人生の金メダル"は輝く。(巍)

寸鉄 2020年9月26日
学会は永遠に人材の城でいこう—戸田先生。青年の成長こそ日本の未来と
一つの種も「植えぬれば多くとなり」御書。勇気、誠実で眼前の一人に語れ
他人を援助する事で自分自身が益す—詩人。自他共の幸福へ、励まし拡大
核兵器の全面的廃絶のための国際デー。恩師の遺訓を後継の若人が世界へ
日没が早まる時季。交通事故は夕暮れに多発と。早めの点灯等、用心固く

☆第3代会長就任60周年記念 広布史アルバム 第2回 昭和55年5月の激励
◇今こそ信心修行の労苦を忘れるな!
一人の胸中に信心の灯をともす。
青年を育て、希望の未来を開く。
いついかなる時も、池田先生の行動は、「励まし」という一点に貫かれている。
会長就任20周年となる1980年(昭和55年)5月もそうだった。
第5次訪中を終えた池田先生は、4月30日に長崎から福岡へ向かい、大阪、愛知、岐阜、静岡、神奈川を駆け巡った。
宗門の悪侶と退転・反逆者らによる、師弟の絆を分断しようとする謀略の嵐が吹き荒れていた。行動を制限されていた中で、それでも先生は一人一人に励ましを送っていった。
ある時は、ピアノを奏で、友の勇気を鼓舞した。電車での移動中、通過する駅のホームに駆け付けた同志へ、窓ごしに懸命に手を振った。行事の役員を務める青年に声を掛け、未来部の子どもたちを温かく包み込んだ。また、功労者宅を訪ね、懇談を重ねた——。
静岡では、会館の大広間で、正義の青年たちと語り合った。先生は当時の思いを、随筆に記している。
 
聖教新聞の記者が、ぜひ写真を掲載したいと言ってきた。当時は、それさえも戦いであった。聖教に載った私の写真が大きすぎる等々、宗門から、幼稚な、陰険な苦情があったからである。
私は、凜々しき青年たちと一緒に写真に納まった。この一枚の写真で、わが同志を元気づけるのだ!
それは、激しき権威の宗門との攻防戦のなかでの知恵であった。
私は、記念撮影に続いて、青年たちと勤行したあと、強く語った。
「今こそ、信心修行の労苦を忘れるな!」
「広宣流布に生き抜く『身軽法重』の精神を忘れるな!」
そして、「社会と職場で勝利者たれ!」と。
二百畳を超える大広間で、五十人ほどの青年との、ごく短時間の、小さな懇談会であった。真剣な語らいのなかから、たった一人でもよい、身命を惜しまず、獅子となって立ち上がる丈夫をつくることを願った。
一人立つ勇者さえあれば、必ず二陣、三陣と続くことは間違いないからだ。
 
あれから40星霜——。苦難の時に結ばれた絆は、今も同志の心の中で、勇気と希望の光彩を放ち続けている。

◇大阪
5・5「創価学会後継者の日」に、未来部と思い出のひとときを刻む(1980年、大阪・関西文化会館で)。7日間にわたった大阪滞在中、7万人以上の友を激励。「何があっても、共に戦おう。何があっても、学会は勝ち抜こう」と固く約し合った

◇岐阜
岐阜・各務原文化会館で約1000人の友を激励。「一人残らず、栄冠の幸せの人生を勝ち取ってもらいたい」と語り、ピアノで「荒城の月」「夕焼け小焼け」「人生の並木路」など5曲を演奏した(1980年〈昭和55年〉5月11日)。名古屋から始まった5日間の中部指導で、110回の記念撮影を行った

◇静岡
「次は、静岡に行こう! 青年に会おう! 静岡から、反転攻勢を開始するんだ」——静岡文化会館(当時)で、男子部のリーダーたちと真剣な語らい(1980年5月12日)。池田先生は翌日、静岡の同志に語った。「信心の目的は、一生成仏にある! 永遠に崩れざる巌窟王のごとき、善の不滅の生命を築くことだ。ゆえに信心は強盛でなくてはならない」

◇四国
横浜港で、愛媛の同志を見送る(1980年5月20日)。この年、四国の友を乗せた客船「さんふらわあ7」号は1月と5月、計3回にわたって池田先生のもとへ。先生は「一番大変な時に、まっ先に私のもとに来てくださったのが四国の方だった」「あの光景を一生涯、忘れることはない」と