声が心を結び 絆を育む。
「お変わりありませんか」
「何か困っていませんか」
一人一人に思いをはせ
安心と希望を届けよう!
四条金吾殿御返事 P1180
『池の水すくなくなれば魚さわがしく秋風立てば鳥こずえをあらそう様に候事に候へば、いくそばくぞ御内の人人そねみ候らん』
【通解】
池の水が少なくなれば魚がさわがしくなり、秋風が立つと小鳥が梢を争うのと同じである。どんなにか御内の人々があなたをそねんでいることであろう。
名字の言 小学生のきょうだいが、この夏に挑戦した二つのこと 2020年9月4日
東京の緑の丘に立つ団地に住む小学5年の兄と小学4年の妹が、この夏、二つのことに挑戦した▼一つは、おばあちゃんのために祈ること。病気で入院したおばあちゃんの回復を祈り、泣きながら唱題をしていたお母さんの姿を見て、2人は決意した。「題目をあげて、おばあちゃんの病気を絶対に治したい」。共に毎日1時間以上の唱題をやり抜き、おばあちゃんは退院できた▼もう一つは少年少女希望絵画展への挑戦。2人が選んだ題材は、池田先生の顔。「おばあちゃんの大好きな先生を描きました」。2歳の妹を含む3人を女手一つで育てるお母さんも題目根本に挑戦を重ね、新しい仕事を得た。初出勤は先生の入信記念日の8月24日。「先生が見守ってくださっていると感じました」▼苦難の時ほど、人間の根っこは育つ。その根っこは、励ましの大地に育つのだ。2人は今春から地元の少年少女部の合唱団員に。今は自粛中だが、スタッフがメンバーを励まそうと楽しい動画を作成。そこにはスタッフがリモートで少年少女部歌「Be Brave! 獅子の心で」を歌い踊る姿が▼どんなつらい事があっても 勝利を信じて 努力は絶対むだじゃない 自分がきっと輝いている——たくさんのエールに包まれて、負けない心が輝いた。(進)
寸鉄 2020年9月4日
「時機に叶いぬれば必ず得道」御書。自身の体験を生き生きと友に語りゆけ
東京・青梅青年部の日。人材錬磨の誉れの天地。民衆の理想郷を若き力で
我らは進みに進み勝つ為に生まれた—戸田先生。不屈の前進が地涌の使命
強い台風が列島へ。河川増水等、最新情報を注視。無冠の友は安全最優先で
8月の熱中症死が過去最多。9割は冷房不使用と。残暑が続く今、油断なく
☆第3代会長就任60周年記念 師弟凱歌の記憶 特別編「広布の言論戦へ 嵐の船出」
◇「聖教創刊原点の日」70年
8・24「聖教新聞創刊原点の日」満70年を記念し、「師弟凱歌の記憶」特別編として、本紙の創刊と発展を巡る師弟のドラマを追う。
「無冠」1969年(昭和44年)新年号に池田先生が寄せた詩「無冠の友よ」の自筆原稿(冒頭部分)。「おお 誇り高き 無冠の友よ/静寂の朝——/暁天をあおぎ 広布の便りを/携えて走る。今日も、明日も。/君等こそ、如来の使いの姿であり/真実の 民衆の王者だ。」
晴れの日も雨の日も、本紙を配達してくださる「無冠の友」の軽やかな足音とともに朝が明ける。
"希望の便り"を届ける尊き同志への尽きせぬ感謝を、池田先生はこう述べている。
「私も妻も、毎朝、新聞が届けられる時間になると、よく二人で合掌して感謝している。『今ごろ、新聞が届いたかもしれないね。ありがとう』と。また、新聞を手に取るときも、『配達をされる無冠の友の皆さま、ありがとう』と。いつもそういう思いでいる」
師と同志の祈りと努力によって、2万560号の歴史を紡いできた聖教新聞。今や「聖教電子版」を通じて、205カ国・地域で日々、同時に読まれる時代となった。
池田先生はつづる。
「恩師・戸田先生も、『大作、「日本中、世界中の人が読む聖教にしよう」と語り合った通りになったな』と、呵々大笑されているに違いない」
◇嵐の中で恩師が弟子に託した創刊構想
広宣流布のための機関紙を持つ構想は、創価の師弟が大試練の渦中にある時に生まれた。
1950年(昭和25年)8月24日、戸田先生は東京・虎ノ門の喫茶店で、ある新聞記者と向き合っていた。その傍らには、22歳の池田先生がいた。折からの経済不況で、経営する信用組合の破綻が決定的になった。その噂を察知した記者が、スクープを物にしようと近づいてきたのである。
この前日、池田先生は、訪ねてきた記者と会っていた。先生は訴えた。
——もとより、戸田先生は逃げも隠れもしない。だがいい加減なことを書かれてしまえば混乱し、清算事務も危機に陥ってしまう。
理を尽くし、誠実に、長時間にわたって事情を説明した。また、敬愛する師の人間像についても語った。そして、翌24日、戸田先生を交えて会見することを約束したのだ。
戸田先生は、悠然と記者に対した。事態打開の道筋を語り、必ず社会的な責任を果たすことを言明。無用な混乱を招かぬ為に、報道はしばらく控えてほしいと、率直に伝えた。
記者は、困惑しながらも、意を決するように言った。「わかった。よし、待ちましょう……」。社会不安をあおるような記事が出ることはなかった。
その帰り道、戸田先生は、歩きながら池田先生に言った。「これからは"文"の戦いだ」「一つの新聞をもっているということは、実に、すごい力をもつことだ。学会も、いつか、なるべく早い機会に新聞をもたなければならない。大作、よく考えておいてくれ」
この日夜、戸田先生は、事業のことが波及しないよう考慮し、学会の理事長辞任の意向を発表した。
池田先生は、この日で入信満3年。棘の道を進む中で、師の言葉を余さず生命に刻んだ。
この8月24日が、後に「聖教新聞創刊原点の日」として輝く、歴史的な一歩となる。
◇「聖火鶴見に炎上」の陰にあった闘争
いざ事業が危機に陥ると、多くの人々が戸田先生のもとを去っていった。池田先生は、ただ一人になろうとも、活路を開くために戦い抜くと誓っていた。
先生は、その決意を一首の歌に託して、戸田先生に贈った。
「古の
奇しき縁に
仕へしを
人は変れど
われは変らじ」
苦境の時代、池田先生が仕事で毎日のように訪れた地がある。神奈川の横浜市鶴見区だ。
草創の広布を開いた柱の一つ「鶴見支部」の拠点もあった。先生は激務の間隙を縫うように、愛する同志を励ましていった。
病床に伏す壮年の手を取って「苦難が多ければ多いほど、幸せも多いです」と御本尊への確信を語る一方、継ぎはぎだらけの"もんぺ"をまとった女性たちには"この信心で、貴婦人になっていきましょう"と明るく声を掛けた。
誰もが貧しく、皆、生活闘争に真剣だった。
先生自身、冬でもコートがなく、レインコートを着て鶴見に来ていた——ある友は、そんな様子を記録している。恩師の仕事の重責を担いつつ、広布開拓に死力を尽くす闘争が、同志の心に火を付けた。
そんな秋霜烈日の50年(同25年)12月、東京・新橋駅近くの食堂で、戸田先生は再び池田先生に言った。「新聞をつくろう。機関紙をつくろうよ。これからは言論の時代だ」
その2カ月後には、「いよいよ新聞を出そう。私が社長で、君は副社長になれ。勇ましくやろうじゃないか!」と——。
◇「日本一、世界一の大新聞に発展せしむる事を期す」
寒い冬を越えた51年(同26年)3月11日、複雑な手続きなどを全て処理し、戸田先生の信用組合は正式に解散。嵐の中に一筋の光が差し込んだ。
相前後して、恩師のもとに池田先生らが集まり、機関紙発刊への企画会や打ち合わせが何度も開かれる。
紙名を検討した際には、「文化新聞」「創価新聞」「世界新聞」、さらには「宇宙新聞」の案が出され、最終的に「聖教新聞」の名称が決まった。
先生は、日記に記した。
「日本一、世界一の大新聞に発展せしむる事を心に期す。広宣流布への火蓋は遂にきられた。決戦に挑む態勢は準備完了」(3月17日)
同年4月20日、待望の聖教新聞が創刊された。旬刊(10日に一度の発行)2ページ建て。発行部数は5000部だった。
創刊号1面のトップ記事は、「信念とは何ぞや?」と題する戸田先生の論文。下段にもまた、戸田先生の小説『人間革命』が掲載された。
2面には「聖火鶴見に炎上」の見出しが躍り、折伏・弘教をリードする鶴見支部の奮闘が紹介された。その記事に、池田先生の名は出てこない。しかし躍進の陰に、先生の激闘があったことを、支部の誰もが知っていた。
◇広布の伸展と共に
5月3日、戸田先生が学会の第2代会長に就任。同月末、聖教新聞の編集室は新宿・百人町から、市ケ谷駅近くのビルに移転する。
机を二つ並べれば埋まるような狭い部屋。取材のためのカメラは旧式のものが1台あるだけ——そんな小さな一室で生まれた新聞が広布の原動力になった。
戸田先生自ら、「寸鉄」などに筆を振るった。
池田先生も書いた。人物紹介の記事。偉人に学ぶ啓発的な記事……。
2年後には週刊に。さらに4ページ、6ページ、8ページ建てと紙面を増やし、広布の伸展と共に、聖教新聞も発展の一途をたどったのである。
池田先生が第3代会長に就任すると、そのスピードは加速。5000部で始まった聖教新聞は、創刊わずか10年後には100万部を超えている。
「一万号 ついに登れり 聖教山 万歳」——1990年(平成2年)7月19日付で本紙が1万号を迎えた際に池田先生が贈った句。「聖教の皆様 本当に御苦労様です。 合掌」との言葉と共に
聖教新聞は、わが愛する同志への手紙——池田先生はこの思いで、小説『人間革命』などの原稿執筆に当たりつつ、全てのスタッフ、関係者に厳愛の指導、励ましを送り続けてきた。
広告、印刷、輸送、さらには通信員、販売店、無冠の友(配達員)などへの、先生のこまやかな激励が絶えることはなかった。
新聞は「総合力」の結晶である。執筆から印刷、そして配達まで、膨大な作業が日々続く。誰一人として欠けても、読者には届かない。その厳しい事実を先生は熟知していた。
家計を支えるため、小学6年次から3年間、新聞配達をした。
終戦直後、18歳の頃には印刷会社に身を置いた。営業に回って受注を取り、印刷現場では活字を一字一字拾って、刷り上がりの校正作業まで携わったという。
49年(同24年)1月からは戸田先生が経営する日本正学館の一員となり、少年雑誌『冒険少年』『少年日本』の若き編集長として奮闘。作家や挿絵画家のもとに足を運び、締め切りと格闘した。時には、「山本伸一郎」のペンネームで少年少女のために自ら健筆を振るった。
活字メディアで発信する責任の大きさも、目立たぬ陰の辛苦も、先生自身が、ひしひしと体感してきたことである。
◇民衆城を守る"武器"として
聖教新聞は、民衆に勇気と希望を送る「人間の機関紙」である。一方で、民衆を虐げる言動とは断固戦う"武器"とも"弾丸"ともなる。
1981年(昭和56年)12月、先生は大分へ。約300人の友と、竹田市の岡城址で記念撮影を行った。大分は、宗門僧が謀略の限りを尽くした第1次宗門事件の震源地の一つであり、最も苦しんだ地域の一つが竹田だった。
池田先生は撮影後、熊本に向かう車中で提案した。"写真は、できるだけ大きく! 2面から3面にわたって掲載しよう。写真が真ん中で切れてもいい"——その言葉に、紙面のレイアウトを担当する記者は驚いた。
12月14日付の本紙。2ページにまたがる特大の記念写真が紙面に掲載され、感激が広がった。
宗門僧の過酷な非難・中傷に耐え抜き、戦い、勝利した仏子たちを、庶民の英雄たちを、最大に賞讃し、宣揚したかったのだ。先生の熱情が、新聞制作の枠をも飛び越えた。その後、同様の記念撮影は、熊本、神奈川などでも行われ、"民衆の大勝利宣言"となる写真が紙面を飾った。先生は、聖教紙上で共戦の同志を鼓舞しながら、新時代を開くべく、反転攻勢の大波を起こしていったのである。
◇明春の創刊70年へ共戦の師子吼を!
昨年11月に「世界聖教会館」がオープンした。池田先生ご夫妻は先立って9月、10月と2度訪問。勤行・唱題して、聖教新聞の世界的発展と無冠の友の無事故・幸福を祈念した。
同会館の「聖教新聞 師弟凱歌の碑」には、こうある。「広宣流布とは言論戦である。仏法の真実と正義を叫ぶ、雄渾なる言葉の力なくして、創価の前進はない」
不二の師弟が、嵐の渦中で聖教新聞の創刊を構想して70年。明年4月20日には創刊70周年となる。
聖教新聞は、永久に師弟共戦の師子吼を放つ。
世界宗教へと飛翔する創価学会の誇り高き機関紙として、人間主義の論調を世界中に発信しゆく。