組織の発展は
人材の総合力で決まる。
いかなる立場であれ
主体者の決意で立て!
常に挑戦の心を!
聖人御難事 P1190
『日蓮末法に出でずば仏は大妄語の人多宝十方の諸仏は大虚妄の証明なり、仏滅後二千二百三十余年が間一閻浮提の内に仏の御言を助けたる人但日蓮一人なり』
◇今週のことば
我ら創価の座談は
地域の心のオアシスだ。
新来の友や未来の宝に
生きる力と喜びを!
そこから勝利の劇が!
2013年10月14日
◇希望の明日へ
仏法は、平等と慈悲が根本である。権力をもちながら、しかもその権力をふるわない−−これが、本当の人間主義であり、人道主義の道である。また、仏法のいき方とも軌を一にする。
平2・10・4
☆女性に贈ることば 十月十四日
働くこと、子を育てること、妻であること。また娘であること、地域の一員であること、学ぶこと−−それらが互いにぶつかりあい、悩みながらも、なおすべてを自分の成長の糧にしようと心が定まった時、初めて、女性は一個の太陽になれる。
☆今日のことば 十月十四日
私には、菊つくりの経験はない。しかし丹精こめて、見事な大輪を咲かせる心境は理解できるような気がする。
私にとって最大の楽しみは、手塩にかけた青年たちが、立派に成長していくのを見守ることだ。
☆生命の光母の歌 第1章 出会いの曲、ウィーンの調べ
池田SGI会長 サイフェルト博士は「女性の世紀」の颯爽たる旗手です。
高名なソプラノ歌手であると同時に、オーストリアの文部次官を務められ、長さにわたって文化行政のスペシャリストとして活躍してこられました。
お父さまが音楽家であられた影響はもちろんのこと、社会の安穏と人々の幸福に尽くす生き方は、多分にご家庭で身につけ、ご両親から受け継がれた部分が大きいと拝察します。
「人に尽くす」ことを、ある時は言葉で、またある時は無言のうちに、その姿で伝えゆくようなご家庭であったのではないでしょうか。
サイフェルト博士 私にとって芸術は、人生そのものです。父はクラシックの音楽家で、私たちは実際に、家ではクラシック作品ばかりを演奏していました。父が声楽の教授だったので、本当にたくさんの楽曲を一緒に楽しみました。
守られた少女時代でしたが、普通とは違うものでした。私は両親が全盲という状況の中で生まれました。二人は本当に一生懸命、私を育ててくれました。
私たちは一心同体でした。それはまるで馬車を引く馬のようであり、目の見える先頭の馬に、2頭の盲目の馬が引っ張られながら、お互いのためにできることをしたのです。家族が一体となって、あらゆる出来事に当たっていたわけです。
池田 ご苦労は察するに余りあります。幼い頃からご両親の"目"となり"杖"ともなられ、お二人の手を引いて街を歩かれたサイフェルト博士に、お父さまとお母さまは深く感謝しておられたに違いありません。
サイフェルト ありがとうございます。
でも当時は、そんなことを考えもしなかったのです。
私は孤独な子どもたったといえます。というのも、同年代の子どもだちとはあまり接点がなく、あったとしても私のことを理解できなかったと思います。
それでも、父から音楽を学ぶことができ、非常に恵まれた幼少期であったといえますし、それが当時の私の人生の全てであったわけです。
もちろん、音楽に生涯を捧げた父の人生も困難なものでした。父はオルガニスト(オルガンの演奏家)として、墓地で葬送の演奏をしていました。
そこで私が亡くなった人を最初に見たのは、5歳の時でした。それ以来、「なぜ人は死ぬのか」「死後は何かあるのか」などと、死について考えをめぐらすようになったのです。
池田会長の幼少期には、何かそうしたことがありましたか。
池田 そうですね。小学生の頃、学校の帰り道、トラックに積んだ鉄材が崩れ、職人さんが挟まれてしまった大きな事故を目の当たりにしたことがあります。その痛ましい場面は、脳裏に刻みつけられています。
また、私自身、幼少より体が弱かったことから、小学校時代、寝汗をびっしょりかいてうなされながら、「人間は死んだらどうなるんだろう」と考えていたことを覚えています。この病気との闘い、生死の問題への探究は青春時代も続いていきました。
ところで、博士は、大学では音楽ではなく哲学を専攻されていますね。