創価の青年たちよ!
嵐の中にあって
希望の光源たれ!
後継のバトンを君に。
土篭御書 P1213
『法華経を余人のよみ候は口ばかりことばばかりはよめども心はよまず心はよめども身によまず、色心二法共にあそばされたるこそ貴く候へ』
◇希望の明日へ
広布の組織の第一線で活躍し、弘教に励んでおられる方々は、壮年・婦人であれ、女子部であれ、男子部、学生部であれ、全員が信心の英雄である。そこには少しの差別もあってはならない。組織という側面から見た場合、役職などの責任の別があるのは当然だが、法戦にあっては全員が広布の勇者であり、妙法の英雄である。
☆名字の言より
「生きる」とは「闘う」こと。闘う相手は弱い自分だ。その勇気をくれるのは、励ましであり"勝った人"の体験。まさに創価学会の世界そのものである。
人材育成のポイントは相手を褒めること、といわれる。誰にでも、伸ばせば光る長所がある。求められるのは、励ます側の慧眼だろう。その眼力は、相手の可能性を信じ、見いだし、育む情熱によって養われることを忘れまい。
☆各部合同協議会でのスピーチ(2008.01.29)
戸田先生が逝去されたのは昭和33年4月2日。その直前の3月16日の式典で、先生は、私たち青年に広宣流布の一切を託された。
本年は、この3・16「広宣流布記念の日」の50周年にあたる。
ここで、昭和32年の終わりごろから「3・16」までの師弟の闘争を、私の日記などをもとに、振り返っておきたい。
かいつまんでの紹介ではあるが、少々長くなるかもしれない。
しかし私は、特に青年の皆さんに、本当の師弟の姿を知っておいてもらいたいのだ。
「必ず成し遂げます!」
昭和32年11月20日──。
戸田先生は、予定されていた広島行きを中止された。先生のお体を考え、私がお止めしたのである。先生は足に力が入らず、歩行すら困難な状況であった。
医師の診断では、肝硬変症とのことであった。
過度の疲労が重なり、黄疸と腹水を併発。全身衰弱が著しく、重篤な状況であった。
そのため絶対安静とされ、先生は、ご自宅で闘病に専念されることになったのである。
11月23日、私の妻が先生のご自宅へお見舞いにうかがった。その二日後、私は先生から「留守をしっかり守れ」との連絡をいただいた。
30日、私は品川での本部幹部会の後、先生のご自宅へお見舞いにうかがった。少し元気になられたお姿を拝見し、安心したことを覚えている。
12月10日、私は再び先生のご自宅へお見舞いにうかがった。病状が好転されていることを聞き、本当にうれしかった。
先生に、一日でも長生きしていただきたい。広宣流布の指揮を執っていただきたい──それが弟子としての私の願いであり、祈りであった。
16日の午後には、戸田先生から電話でご指導をいただく。
あの人間には注意せよ! あの人間には厳重に指導せよ!──先生は、病床にあっても、未来のことを案じて厳しく語っておられた。
翌日の朝、私は先生のご自宅を訪れ、1時間にわたって指導を受けた。
この時、75万世帯を達成した後の目標についておうかがいした。
先生は、命を振り絞るようにして言われた。
「大作、あと7年で、200万世帯まで戦いたい。できるか!」
私は即座に、お答えした。
「やります! 必ず成し遂げます! 勇気百倍、断固、戦います!」
2ヶ月後、先生はさらに「7年で300万世帯」の目標を示してくださった。この大目標も、私は4年後に達成した。
師匠が言われたことは絶対に成し遂げる。それが真実の弟子であるからだ。
年末の29日にも戸田先生のご自宅へ、あいさつにうかがった。先生は学会の将来について、こまごまと注意、指導をしてくださった。
年が明けて、昭和33年1月。先生は病気を克服しつつあった。
しかし、2年間の獄中生活をはじめ、長年にわたって酷使を重ねてきた肉体の衰弱は、いかんともしがたいものがあった。
先生は、ご自身に残された時間をご存じであったのであろう。
「もし私が死ぬようなことがあったら──」と言われ、連日のように、大切な指導をしてくださった。
17日には、学会本部で先生から、人事などについて注意をいただいた。
その翌日、私は3月の総登山の運営に関して、首脳が現実を掌握せず、現場の青年たちが苦しんでいることを、先生にご報告した。
先生は、厳然と言われた。
「やりづらくとも、君たちが、学会を支えてゆくのだ」と。
"青年の手で新しい学会をつくれ! 君たちが次の時代を開くのだ!"との深きお心であった。
2月13日の夜、私は先生のご自宅へうかがった。
先生より、
1.学会青年部の未来性への指示
2.学会幹部の指導原理
3.仏法と社会への指向
4.学会の究極の使命について、
種々、お話をいただく。
2月19日にも、先生のご自宅へ。私が3月から学会本部の職員となることについて、先生は「君の本部入りは天の時だ」と語られた。
また、「10年間、苦難の道を歩みゆけ」と厳愛のご指導をいただいた。
さらに2月22日、先生は師子吼された。
「阿諛諂佞(あゆてんねい)の輩(口先巧みにへつらう、邪な心の人間)は全部切る!」
「組織を乱しゆく者、信心利用の者も、また同じである」と。
未来を見すえての、遺言のごとき、烈々たる叫びであった。
そして3月。
私は、20万人総登山の運営の全責任を担った。
1日、戸田先生とともに、学会が建立した大講堂の落成の式典に出席。終了後、エレベーターの中で、先生は私をじっと見つめて言われた。
「これで、私の仕事は終わった。私はいつ死んでもいいと思っている。大作、あとはお前だ。頼むぞ!」
電撃が私の五体を貫いた。
5日。大阪事件の裁判で関西に向かうため、私は戸田先生にごあいさつ申し上げた。
先生は言われた。
「君は罪を一身に背負おうとした。本当に人の良い男だな。でも、だからこそ安心だな、学会も」
「最後は勝つ!」
「真実は、必ず明らかになる。堂々と、堂々と男らしく戦え!」
先生は、私の苦衷をすべてわかってくださっていた。本当にありがたい師匠であった。
どんなことがあっても、必ず裁判に勝利して、先生にご報告をするのだ──私はそう固く心に誓った。
このころ、戸田先生に対して、ある青年都幹部が「これからの学会は、何を敵として進んでいけばよいのでしょうか」と質問をした。
先生は、厳しく言われた。
「敵は内部だよ」
この質問をした幹部は、後に名聞名利に信心を食い破られて退転し、学会に反逆した。先生は、その本質を鋭く見破っておられたのである。
そして3月16日──。
広宣流布の模擬試験となる儀式が、晴れやかに行われた。
式典には、時の首相が参加する予定であったが、残念ながら出席できなくなった。代理として首相の夫人と娘婿らが参加してくださった。
式典の司会を務めたのは私であった。
戸田先生のお体は、すでにかなり衰弱しておられた。しかし、全生命を振り絞るようにして、男女青年部を前に話をされた。
そして、「創価学会は、宗教界の王者である!」と高らかに宣言されたのである。
3・16の儀式については、これまでもさまざまな形で語ってきた。
この日、戸田先生は、私を中心とした青年たちに、広宣流布の一切を託してくださった。
それから50年。今、私は、だれよりも信頼する青年部の諸君に、広宣流布の「炎のバトン」を託したい。
若き君たちに、雄々しき師子となって、次の50年の勝利を開いていってもらいたいのだ。