悩みや意見や要望に
耳を傾けることだ。
相手を知ってこそ
的確な激励ができる。
最蓮房御返事 P1341
『悪象の為に殺されては三趣に至らず、悪友の為に殺さるれば必ず三趣に至らん』
◇希望の明日へ
信心は格好ではない。大聖人は繰り返し『心こそ大切なれ』(P292)と教えてくださっている。うわべのみ繕って、戦っているつもりになっているだけなのか。法のため正義のために身命を捨てて広布に進んでいるのか。奥底の一念の違いは、必ず結果になって表れる。
☆正木理事長が衝撃を受けた「東北栄光総会でのスピーチ」の要旨(平成6年3月21日)
きょうはまず、私が心に刻む「開目抄」の一節を拝したい。
『我並びに我が弟子・諸難ありとも疑う心なくば自然に仏界にいたるべし、天の加護なき事を疑はざれ現世の安穏ならざる事をなげかざれ、我が弟子に朝夕教えしかども・疑いを・をこして皆すてけんつたなき者のならひは約束せし事を・まことの時はわするるなるべし』(P234)
−−われならびにわが弟子は、諸難があっても疑う心がなければ、必ず自然に仏界にいたるであろう。諸天の加護がないからといって、(法華経の大利益を)疑ってはならない。現世が安穏でないことを嘆いてはならない。わが弟子に朝に夕に、この事を教えてきたけれども、疑いを起こして皆(信心を)捨ててしまったのであろう。信心のつたない者の習いは、約束した事をまことの時(諸難が起こった時)に忘れるのである−。
「まことの時」−−その時にこそ立ち上がり、敢然と戦っていく。その人は「自然に仏界にいたるべし」と大聖人は仰せである。
諸難を乗り越え、戦い続ける人こそが「仏」になる。ここに重大なポイントがある。
「仏」とは何か。また釈尊は、なぜ仏になれたのか。
仏となっても、悩みもあれば苦しみもある。病気もする。魔の誘惑があることにも変わりはなかった。
「だからブッダたることは、誘惑を斥けるという行為それ自体のうちに求められねばならぬ。不断の精進がそのまま仏行なのである。さとりを開いて『仏』という別のものになるのではない」と。
誘惑とはすなわち「魔」「悪知識」。仏道修行を妨げる力、不幸へと導く力、和合僧を破壊する力、退転へと誘う力である。
この魔と不断に戦い続ける。人々を救うために、行動また行動を続ける。その「人間」が「仏」なのである。
仏といっても特別な存在ではない。戦い続ける心が「仏」、行動し続ける姿が「仏」である。魔と戦いきる人が「仏」なのである。
総じては、仏道修行に励み、広宣流布へ真正面から戦っていく−−その人の信心にこそ「仏」は現れてくる。
今、皆さまは、多くの人の悩みをわが悩みとして、戦っておられる。まことに尊い仏の振る舞いであられる。
広宣流布をする以上、大難は必ず起こる。大難があってこそ、自身の信心を固め、仏界を固められるのである。
「ピンチこそチャンス」である。どこに行っても、その場が「寂光土」である。
愚痴を言っても何も変わらない。嘆いていても、何も生まれない。その時、その場で
・何かをつかもう
・勉強しょう
・健康になろう
・豊かな人生を生きよう
−−そう決めれば勇気がわく。希望がわく。知恵がわく。
いわんや、妙法をたもった人は、必ず一切を変毒為薬できる。
何があっても、
「戦っていること自体が幸福」
「戦っていること自体が勝利」
「戦っていること自体が栄光」
−−こう決めて、頑張っていただきたい。「冬は必ず春となる」に決まっているのだから。