2022年1月29日土曜日

2022.01.29 わが友に贈る

不安と危機の時代ゆえに
心と心のつながりを
誰もが強く求めている。
共に悩み共に喜ぶ
友情の絆を一段と!

弥源太殿御返事 P1226
『但し石は玉をふくむ故にくだかれ鹿は皮肉の故に殺され魚はあぢはひある故にとらるすいは羽ある故にやぶらる女人はみめかたちよければ必ずねたまる此の意なるべきか、日蓮は法華経の行者なる故に三種の強敵あつて種種の大難にあへり』

【通解】
石はその中に玉を含むゆえに砕かれる。鹿は皮や肉のゆえに殺される。魚は美味のゆえに捕らえられる。翡翠は美しい羽があるゆえに殺される。女性は容姿が美しければ必ずねたまれる。これらと同じことであろうか。日蓮は法華経の行者であるゆえに、三類の強敵があって種々の大難にあったのである。

名字の言 トンガの復旧・復興を祈る 2022年1月29日
「世界一の船乗り」といわれた英国のキャプテン・クック(クック船長)。彼は18世紀後半、当時の西欧世界で未知の領域だった太平洋を3度にわたって探検・調査した▼第2回の航海で初上陸した島がある。現地の人々の親切なもてなしに感激したクック船長は「フレンドリー・アイランド(友情の島)」と名付け、温かな友情の心をヨーロッパに紹介した▼その島の名はトンガ。彼が訪れたトンガタプをはじめ大小170余の島々からなるトンガ王国は、15日に発生した海底火山の大規模噴火で甚大な被害を受け、現在も懸命な救援活動が続く。一日も早い復旧・復興を祈るばかりだ▼「地球上の平和と進歩を約束するのは友情をおいて他にはない」とは、池田先生と深い友誼で結ばれたトンガ王国の故・トゥポウ4世国王の言葉。今も地球のどこかに苦しんでいる人がいる。その苦しみを想像し、「わがごと」として捉える"友情の心"から平和は築かれていく▼一つの国や地域で起きた問題が他の場所に影響を及ぼし、誰もがその当事者になりうる時代でもある。先生が40回目の「SGIの日」記念提言で訴えた通り、その苦しみに同苦し、"生きる喜び"を分かち合える社会を築くために、一歩を踏み出したい。

寸鉄 2022年1月29日
負けてたまるものかと腹を決めよ—恩師。苦難の時ほど学会魂燃やし挑戦
さあ飛躍の二月闘争へ! 励ましの光彩を目の前の一人に。断固、智慧湧かせ
「仏の種は法華経より外になきなり」御書。電話一本でも希望に!必ず開花(新697・全552)
男子部新任幹部が各地で率先の弘教。青年を先頭にわが地域も勇躍前進!
小中生の約半数、SNSの情報信じると。発信源を必ず確認—親子で徹底

〈社説〉 2022・1・29 若者の言葉に見る世相
◇諦めを打破する希望の対話を
昨年の「新語・流行語大賞」で上位に選ばれた言葉で、気になるものがあった。「親ガチャ」だ。
若者がSNSなどで使っている言葉で、子どもが親や家庭を選べないことを、カプセル玩具の自動販売機「ガチャガチャ」に例えて、親にも"当たり外れ"があることを表している。
「うちは貧乏で大学に行けなかった。親ガチャ失敗」「もっと高身長で生まれたかった。親ガチャハズレ」などと言うようである。
なぜ、このような言葉が広まったのだろう。
昔と違い、今はSNSによって、他者の生活が垣間見える機会が増えた。それによって、人との格差を、より感じやすくなったと言える。
そんなときに、自身の境遇に対する不満や愚痴の言葉として使われるようである。
若者としては親を非難したり、責任をなすりつけたりするつもりはないらしいが、意外と根は深そうだ。
この言葉の背景について社会学者の山田昌弘氏は、こう指摘する。
かつては格差があったとしても自分の努力で未来を変えることができると信じられていた。だが生まれた時から不況や危機に慣れた今の若者にとって、「すべてを生まれという『運』のせいにして、不公平な現実を諦めざるを得ない社会にまで行き着いてしまった」「そんな希望格差社会の究極の記号的意識」(「潮」2月号)と。
若者が直面する格差はコロナ禍によって一段と固定化したと受け取られ、自分では対応しがたい現実に対する「諦め」が広がった。「親ガチャ」はそんな世相を反映しているように感じられる。
こうしたネガティブな言葉を、単に若者の不満のはけ口と片付けてはなるまい。
"どうせ自分はダメだ"と常に言い続けることが、どれほど苦しいか。
世の中にそうした言葉があふれ、諦めや無力感がまん延すれば、人々の活力は奪われ、社会は停滞していく。
日蓮大聖人の立正安国の言論戦も、念仏によってもたらされた諦観思想という「一凶」との戦いだった。
それに連なる創価の励まし運動も、「どうせ現実は変わらない」という決め付けや思い込みとの戦いである。
信仰で培った共感力と確信の言葉で、友の心に希望の灯をともしたい。
「私には無理」ではなく、「私にもできる」と、勇気を送る対話を広げる——それが時代精神を変える一歩になる。

☆ストーリーズ 師弟が紡ぐ広布史 第16回 21世紀は女性の世紀 �折々の励まし
◇一心に戦う友を宣揚したい
「私が約束を果たします」
草創の秋田支部の初代婦人部長だった伊藤哲子さん。ある時、数人のメンバーと一緒に、池田大作先生と散歩する機会があった。
この激励は、戸田先生が伊藤さんを励まし、"神宮の外苑あたりを歩こう"と語ったことが始まりだった。外苑の散歩が実現する前に、恩師は逝去した。
そのことを伊藤さんから聞いた池田先生は、「分かりました。私が必ず約束を果たします」と語り、散歩の時間を持ったのである。
先生は学会歌「威風堂々の歌」を口ずさみながら語った。
「戸田先生が言われた一言一言を、私はすべて実現します」
池田先生の胸中には、いつも、どんな時も戸田先生がいる。小さなことでも、恩師が言われたことは全て実現する——。伊藤さんは「弟子の道を全うされる池田先生のお姿に、感動を禁じ得ませんでした」と述べている。
先生は激務の合間を縫って、東北の地で懸命に広布に走る一女性に師弟の大切さを訴えた。

◇幸福への精進
埼玉の茂木輝美さんは、静岡での池田先生との懇談を今も忘れない。
「この中で、お父さんがいない人?」
先生が問い掛けると、茂木さんはそっと手を挙げた。入会は1954年(昭和29年)。先に信心を始めた父・喜代作さんの勧めで、女子部の集いに参加したことがきっかけだった。その父が56年(同31年)に亡くなった。
先生は「きょうから、私を父と思って、しっかり頑張りなさい」と。師の真心は、茂木さんが学会と共に進むことを誓う原点となった。
先生は父を失った茂木さんを、折あるごとに励ましてきた。
59年(同34年)3月4日、大宮支部会館(当時)で行われた会合の前に、「精進」との文字を染め抜いた袱紗を渡した。61年(同36年)8月22日には、書籍に「常に幸福え乃 精進を」と揮毫して贈った。
「精進」——その言葉の意味を、茂木さんが深く心に刻んだのは、夫・磐さんと結婚してからのことだ。
74年(同49年)、磐さんがくも膜下出血で倒れた。長男の和雄さんは2歳、長女の清美さんは1歳だった。
緊張の糸が張り詰める中、宿命転換を懸けて学会活動に励んだ。78年(同53年)には支部婦人部長の任命を受けた。「母(志んさん)が子育てを手伝ってくれて……。義理の両親の介護もあり、母の支えがなければ、とても乗り越えることはできませんでした」
磐さんは左半身にまひが残ったが、リハビリに励み、やがて車いすで地域を回るように。89年(平成元年)に亡くなるまで、自治会の理事を務めた。この年、先生の提案で埼玉文化会館に「茂木桜」が植樹された。毎年、満開の花を咲かせている。
茂木さんは夫の後を継ぎ、28年間、自治会の理事として地域に貢献。市から表彰を受けた。現在、団地の自治会長として近隣との絆を育む。
——父がいたからこそ、信心に巡り合うことができた。
——師の励ましがあったからこそ、幸福の軌道を進むことができた。
2人の"父"への感謝を胸に、茂木さんは「精進」の歩みを重ね続ける。

◇この船たしか
1978年(昭和53年)6月30日、東京の立川文化会館へ、渡辺光子さんら5人の東久留米の婦人が向かった。この月、渡辺さんが婦人部長を務める支部では、204部の本紙の拡大を成し遂げていた。
会館に到着して驚いた。駐車場に池田先生の姿が見えたからだ。5人は急ぎ足で、師のもとに駆け寄った。先生は持っていたカメラを向け、シャッターを切った。
駐車場にござが敷かれ、"座談会"が始まった。「祖母が病気です」と語る婦人に、先生は御書の「転重軽受法門」の一節を拝し、信心の絶対の確信を語った。「不眠症で苦しんでいる年配者がいます」と報告する友には、袱紗を贈った。
激励は続いた。「みんな、お昼はまだだろう」。近くの店からラーメンの出前を取ることになった。それを待つ間、「きょう完成したばかりの歌なんだ」と、自らが作詞・作曲した学生部歌「広布に走れ」を披露した。
先生は歌詞に込めた思いを語り始めた。3番の「歴史を創るは この船たしか」について、「『この船』とは、創価学会のことなんだよ。学会についていけば絶対に間違いない。幸せになる」と強調した。
当時、宗門僧らが師弟の分断を画策していた。先生は、小賢しい邪知の嵐などに、決して揺るがぬ正義の大船こそ学会であるということを、婦人たちの心に刻んだ。
師から5人に、「お軽勘平グループ」との名が贈られた。渡辺さんは"なぜ、お軽・勘平なのか"が分からなかった。先生はその人を一瞬にして見抜くと、先輩から聞いていた。"ならば、私たちの姿を見て、何かを感じられたに違いない"
「お軽」「勘平」は、浄瑠璃や歌舞伎の「仮名手本忠臣蔵」に登場する人物。夫・勘平が主君の仇討ちに参加するために、妻・お軽は尽くすが、ふとした誤解から勘平は追い詰められ、自ら命を絶つ。悲劇の物語である。
「お軽勘平グループ」の名が意味するのは、お軽や勘平のようになれ、ということではない。むしろ逆だ。ちょっとした油断や隙から、人生を棒に振り、肝心な広布の"戦"に集うことができないようなことがあってはならない。渡辺さんは、師からの"戒め"と捉えた。
だからこそ、どんな広布の戦いにも精いっぱい挑んだ。3人の子どもは、その母の姿を見てきた。長男・伸一さんは地区部長、次男・敏之さんは支部長、長女・礼子さんは地区女性部長として、広布の最前線を駆けている。

◇平和を祈り続ける
ヨーロッパ中部から南東へのびるバルカン半島。この地に誕生した初のSGIメンバーは女性である。
ヤスミナ・トゥンペイさん。イギリスの大学で精神医学を学んでいた時、仏法に巡り合った。1983年(昭和58年)、東欧広布の誓いに燃え、故郷のユーゴスラビアに戻る。
2年後、彼女の自宅で、ユーゴスラビア初の総会が開催された。現在のセルビア、クロアチアなどから30人ほどのメンバーが集った。
90年代の前半から、ユーゴスラビアは内戦の悲劇に見舞われる。民族感情のマグマが噴出する中、ヤスミナさんは、一日も早く平和が訪れることを祈り続けた。
内戦が終結した翌年、ヤスミナさんの母・リリアナさんが亡くなった。葬儀は、住んでいたスロベニアで、初となる友人葬で行われた。
葬儀場に、先生からの追悼の花束が届いた。ヤスミナさんは「先生は、たった一人のために、ここまで心を尽くされるんですね」と深い感銘を受けた。
新世紀が開幕した2001年(平成13年)、ヤスミナさんはスロベニアSGIの初代支部長に就任する。心理療法士として働きながら、スロベニアの大地に妙法の種をまいた。
03年(同15年)、同国の文芸誌に先生のインタビュー記事が掲載され、国営テレビがSGIの思想を報道した。その2年後、スロベニアSGIは文化団体として、法人認可を受けた。
スロベニア広布の伸展を見届けるようにして、07年(同19年)、ヤスミナさんの生涯は幕を閉じた。
同SGIの現在の支部長であるアニータ・プレゼリさんは、ヤスミナさんが信心に導いた一人である。

◇スウェーデン広布の一粒種
「私はどこに行っても、その地に難攻不落の城を築く思いで戦っている。一人でもいい。私と同じ精神で戦おうという人を探している」
池田先生がこう切り出したのは、1989年(平成元年)2月、学会の幹部が集まった会合でのこと。この後、先生は一人の女性に言及した。
「スウェーデンの広宣流布を支えたのは、一人の女性なんだ」
「上原鏡子さんという、鹿児島出身の女子部員です。『スウェーデンは、私一人で開いていきます』と言ってくれた」
上原さんは33年(昭和8年)、鹿児島の指宿で生まれた。戦後、神戸で入会する。先生が第3代会長に就任した60年(同35年)、仕事の関係でスウェーデンに移った。
62年(同37年)、先生は書籍に「冥益」と揮毫し、上原さんに贈った。翌63年(同38年)1月には、ヨーロッパ総支部とパリ支部の結成大会で、上原さんを励ましている。
この年、上原さんは「スカンジナビア地区」の責任者になる。スウェーデンに信心の喜びが広がると、同志の激励のため、西部の都市イエーテボリ、南部の都市マルメにも足を運んだ。
スウェーデンで仏法の哲理を語り広げた上原さんだったが、体調を崩してしまう。79年(同54年)、鹿児島に戻り、生涯を閉じた。
先生は上原さんをたたえた。
「頼れる人もいない。言葉もそれほど上手ではない。しかし、彼女は掃除や皿洗いをしながら生活費を切り詰めて戦ったんだ。無名の、このような人々をこそ、私は励まし、宣揚したい」

◇文明史的な意味
21世紀の幕が上がった2001年1月。先生は「生命の世紀へ 大いなる潮流」と題する提言を発表した。その中で次のように述べている。
「二十一世紀における女性の存在の重みは、法律面や経済面での『解放』(それも大事ですが)をはるかに超えた、文明史的な意味をもっています」
「それゆえ、二十一世紀が基調とすべき『生命の世紀』とは、『女性の世紀』の異名でもあるといえましょう」
先生は「21世紀は女性の世紀」と繰り返し訴え、女性のエンパワーメント(内発的な力の開花)に尽くし、無数の励ましの松明をともしてきた。その明かりに照らされ、地涌の使命の舞を舞う女性が世界各地にいる。
自分の宿命に負けないで、地道に誠実に、家庭や地域に幸福の灯をともす創価の女性の連帯は、「生命の世紀」を希望の光で照らしている。