近隣や職場の人に
いつも笑顔で挨拶を!
その積み重ねから
友情のドラマが始まり
信頼の花実を結びゆく。
開目抄上 P202
『在世猶をしかり乃至像末辺土をや、山に山をかさね波に波をたたみ難に難を加へ非に非をますべし』
【通解】
釈尊の在世でさえ、なお法華経には怨嫉が多かった。まして像法・末法において、また(日本のような)遠く離れた国においては、なおさらのことである。山に山を重ね、波に波をたたむように、難に難を加え、非に非を増すであろう。
名字の言 創大駅伝部のタスキリレー 2022年1月11日
「駅伝では何が起きるか分からない」といわれる。気温や風などの気象条件、選手が自分のペースを築けるかなどによって、展開は大きく変わる。選手たちは、さまざまなことを想定して、レースに挑む▼創価大学駅伝部は、前走者が次走者の左側に回り、次走者はタスキを左手で受け取ることを徹底している。箱根駅伝では、中継所が走者から見て左側に設置されている。そのため、タスキを受け取った次走者は右側に寄り、走り終えた前走者は左側に逸れる。右側からタスキを渡すと、選手同士がぶつかる危険が少なからずある▼そこで、同部の榎木監督は、先の方法でタスキの受け渡しを行うよう指示。本紙4日付に掲載された今大会のタスキリレーの写真は、全てそうなっている。3年連続のシード権獲得には、細部まで勝負にこだわる工夫が隠されていた▼目標の成就には、必ず小事を積み重ねる執念がある。"これくらいで十分だ"という妥協などない。現状に満足することなく、常に上を目指して挑戦を続ける中で、大きな戦いの勝利は開かれる▼タスキをつなぐ選手たちの力走は、今年も筋書きのない感動を数多く生んだ。私たちは「わが人間革命の力走」で、幾つもの励ましの足跡を刻もう。
寸鉄 2022年1月11日
必ず勝つと決めるかどうかで勝敗は決まる—恩師 若師子よこの気概で進め
副役職の友が動けば組織に勢いが。長と心一つに励ましの大光を隅々へ!
「能く能く諸天にいのり申すべし」御書。環境をも変える仏法だ。大確信で
真の偉大さは、苦にも楽にも喜悦できる力—文豪 勝利の劇の主人公は自分
つながろうとする努力で脳も活発に—医師。人生100年時代を豊かにする鍵
☆御書と未来へ 第1回 幸福と平和の聖典と共に
〈御文〉
『この文には日蓮が大事の法門どもかきて候ぞ、よくよく見ほどかせ給え、意得させ給うべし』(諸法実相抄、新1792・全1361)
〈通解〉
この手紙には日蓮の大事な法門を書いておきました。よくよく読んで理解し、心に刻んでいきなさい。
〈池田先生が贈る指針〉
御書には、全人類の幸福と平和の道が示されている。この聖典を根本とし、御書を身読された先師と恩師を基準として同志と走り続け75星霜。絶対に悔いのない正しき人生がここにあると、宣言したい。
この一年、新たな求道の心で、日々、御書を開いて御本仏と対話しながら、生命の飛躍を! 希望と共生の未来へ!
☆子どもと学ぶ 日蓮大聖人の御生涯 第3回 良観との祈雨の勝負
鎌倉幕府(武家の政府)の人たちは、大あわてです。
「大変だ! このままでは、日本が攻められてしまう!」
日本のすぐ隣の、蒙古という巨大な国から「我々の言うことを聞かなければ、日本に攻め込むぞ」という手紙が届いたのです。
この話を人づてに聞いた日蓮大聖人さまは、口を固く結んで海を見つめています。
実は、大聖人さまが幕府に届けた「立正安国論」の中で、"もし人々がこのまま間違った教えを信じ続けるならば、やがて仲間の中で争いが起こり(自界叛逆難)、他の国からも攻められてしまう(他国侵逼難)"ということを、すでに書いていたのです。
「私が恐れていたことが、現実になってしまった。人々が争いに巻き込まれ、これ以上、苦しむようなことがあってはならない。あらためて、正しい教えを弘めていくべきである」
早速、大聖人さまは、幕府の偉い人たちや鎌倉の大きなお寺の僧侶たちに話し合いを求めましたが、皆、それを無視しました。
それどころか、大聖人さまへ、さらに強い迫害を加えていきます。
その中心に、極楽寺良観という僧侶がいました。
良観は、鎌倉の人々に自分のことを"立派な仏さま"であるかのように思わせておいて、裏では幕府と手を結び、悪いことをしていました。
そんな良観にとって、本当の教えを説く大聖人さまは、邪魔な存在でした。
ある夏のこと。雨が全く降らない日が続きました。
日頃から"雨を降らすことができる"と自慢していた良観は、雨が降るように祈ることにしました。
そのことを知った大聖人さまは、良観に「7日のうちに一滴でも雨を降らせたならば、私は良観どのの弟子になりましょう。もし雨が降らなければ、良観どのが法華経の教えを信じなさい」と、勝負を申し入れました。
良観は「これで日蓮をこらしめられる!」とニヤリ。すぐに多くの弟子を集めて、朝から晩まで毎日、必死になってお経を唱え続けました。
ところが、どれだけ祈っても雨は降りません。
さらに7日間、祈り続けても、雨は降らないどころか、激しい風がビュービューと吹き荒れました。
大聖人さまは、良観に厳しく迫ります。
「あなたは、雨を降らすことさえできないのに、どうして大事な成仏が、かなうというのか」
良観は、恥をかかされたと怒り、顔を真っ赤にします。
「日蓮め、絶対に許さぬぞ!」
後に、良観は幕府の人たちへ、「日蓮という悪い僧侶が、人々をだましている」と、うそを言いふらしました。
その話を信じた幕府の人たちが、大聖人さまをつかまえようと動きだしたのです。
[道しるべ]予言の的中
日蓮大聖人が文応元年(1260年)に北条時頼へ提出した「立正安国論」。そこでは、人々が悪法を信じて正法を用いなければ、やがて「自界叛逆難」と「他国侵逼難」の二難が起こると警告しています。
ところが、幕府はこれを黙殺。その後、「自界叛逆難」は12年後の文永9年(1272年)の二月騒動(北条一門の内部の争い)となって、また「他国侵逼難」は蒙古襲来(14年後の文永の役、21年後の弘安の役)となって現れました。
こうした予言の的中は、大聖人が経文に照らして、現実の社会を深く洞察した結果であるといえます。大聖人は、当時の悪僧と悪政によってもたらされた人々の思想の乱れを鋭く見抜かれた上で、民衆を救済するために、"何としても未然に争いを回避しなければならない"との御心情から、国主を諫暁(諫め暁す)されたのです。
池田先生は語っています。
「大事を事前に察知する力は、まさに智慧の発現です。
その智慧は、真剣にして深い慈悲の結実と言える。民衆に不幸をもたらす大事を未然に察知する智慧は、一切衆生を救済されんとする御本仏の大慈悲に基づくものなのです」
万人の幸福を願う、御本仏の偉大な精神闘争——。ここに、大聖人の予言の本質があると拝せます。
[地図・関連年表]
文永5年(1268年)閏1月(47歳)
蒙古の国書(外交文書)が幕府に届く
同年10月11日
北条時宗らへ諫暁の書(十一通御書)を送る
文永6年(1269年)11月(48歳)
再び各所に諫暁の書を送る
文永8年(1271年)(50歳)
祈雨の勝負で極楽寺良観を破る
(聖寿は数え年)