広布の目標の達成へ
まず自分が挑もう!
この決意と実践に
信仰の歓喜が湧き
無量の功徳が咲き薫る!
船守弥三郎許御書 P1446
『しからば夫婦二人は教主大覚世尊の生れかわり給いて日蓮をたすけ給うか』
【通解】
そうであるなら弥三郎殿夫婦二人は教主大覚世尊が生まれ変わられて日蓮を助けらてたのであろう。
名字の言 悲しみを乗り越えた先に 2022年1月12日
琉球王国を代表する政治家・程順則は、名護間切の総地頭を務め、その功績と人徳から"名護聖人"と呼ばれた。琉球初の学校を設立し、教育者としても名高く、数多くの琉歌を詠んだ▼「意見寄言や 身ぬ上ぬ宝 耳ぬ根ゆ開きてぃ 肝に止みり」(人の意見や教えは宝。耳を開いて心に留めなさい)——"教育こそ国を豊かにする"と訴えた氏は、4人の子に先立たれる悲しみを乗り越え、人材育成と地域の発展に尽力した▼沖縄の名護に、過酷な宿命と戦い抜いた女性部員がいる。彼女は長男を病で亡くし、2人の幼い娘も火事で失った。師の渾身の励ましで失意の底から立ち上がり、夫と共に地域を対話に歩いた▼中傷や冷笑にも決して負けなかった。誠実に語り歩く中、周囲は次第に耳を傾け始める。愛する子を亡くしながら蘇生した夫妻の体験は、沖縄戦で家族を失った多くの人々の胸を打ち、共感を生んだ。後に夫妻は地域の要職に就くなど、地元の発展にも尽くした▼池田先生は「大変な宿命を背負っているということは、同時に大使命を担っていることになる」と。自身の宿命の転換は、万人を奮い立たせる力となる。広布の先人が歩み抜いた「人間革命の大道」に学び、勇気の一歩を踏み出したい。
寸鉄 2022年1月12日
「人法を弘むるが故に、人法ともに尊し」御書。先駆の対話の勇者に福徳燦然
神奈川・湘南総県の日。大聖人有縁の天地で正義の連帯拡大。希望の春へ
集団の中で助け合えれば幸福度は高くなる—学者 地域部の友の活躍が証明
日本海側で大雪の恐れ。無冠の友よ呉々も無事故第一で!健康と安全祈る
年末年始の感染は6割が若年層と。意識と行動の変革を。危機に皆で応戦
〈社説〉 2022・1・12 御書と共に希望の春へ
◇民衆に光送る創価の教学運動
「ずっしりと重い、真新しい御書を開く。『わあ、字が大きい』と思わず声を上げた。『これなら眼鏡なしでも読めるね』と言うと、夫も『そうだね』とうなずいた」。先日、「声」欄に掲載された投稿である。
昨年11月18日の『日蓮大聖人御書全集 新版』の発刊を機に、研さんの息吹が一段と高まっている。新たに全編拝読を始めた方も多い。早速、新しい御書を手に、仏法対話に挑戦した友もいる。
山形市の女性の投稿には、34年前、小学校に入ったばかりの次男を病で亡くした際のエピソードがつづられていた。悲しみに沈んでいた時、同じ体験を持つ先輩に激励され、唱題に励み始めた。
その中で次の一節に出あった。「大地はささばはずるとも、日月は地に堕ち給うとも、しおはみちひぬ世はありとも、花はなつにならずとも、南無妙法蓮華経と申す女人の、おもう子にあわずということはなし」(新1921・全1576)。最愛の子を亡くした上野尼御前への日蓮大聖人の励ましの一文である。「またきっと次男に会える」と思えた女性は、心に光が差し込んできたという。それからは何度もこの御書を拝し、元気に学会活動に取り組んできた。
広布の伸展は、御書と共にあった。池田先生が若き日、戸田先生の命を受け、「地区講義」に臨んだのは1951年(昭和26年)9月。戦後間もない時代。読み書きが難しい人も多い中、受講者は、池田先生の講義を通じて、大聖人の仏法に触れる喜びを知った。「そこには、既成仏教の『僧侶』と『檀家』という関係では成し得なかった、民衆仏法による"新たな教学運動"の光景が生き生きと広がっていた」(本紙12月24日付「君も立て」〈地区講義�〉)
師弟による民衆の教学運動が基盤となって、人々は宿命を乗り越える方途を知り、人生や社会を変えゆく使命に目覚めていった。それが学会の誉れの歴史である。
読者の投稿の中で最も多く取り上げられる御文の一つが、「法華経を信ずる人は冬のごとし。冬は必ず春となる」(新1696・全1253)である。試練の冬を経験した人が思うのは、苦しみの日々も決して無駄ではなく、意味があったということ。桜もまた厳冬に耐えて地中深くに根を伸ばし、花を咲かせる力をたくわえるのだ。
さあ、御書と共に希望の春に向かって、朗らかに進みゆこう。
☆希望の指針——池田先生の指導に学ぶ 仏法対話
◇芽吹きの春は もうすぐそこに
連載「希望の指針——池田先生の指導に学ぶ」では、テーマごとに珠玉の指導・激励を紹介します。今回は仏法対話に挑戦する友へ、折々の随筆から、励ましの言葉を掲載します。
◇不軽菩薩のように
会う人ごとに、「あなた方を敬います、あなた方は皆、菩薩道を行じて必ず成仏するからです」と深く礼拝した不軽菩薩は、皆から猛反発を受け、悪口罵詈、杖木瓦石を浴びせられた。
相手を敬っているのに、反発される。生命の大地を破って眠れる仏性を呼び覚ます精神革命には、それだけ根強い抵抗があるのだ。
しかし、最初は反発があっても、偉大な妙法を説き聞かせたことは、必ず仏性を薫発する縁となる。相手の成仏の因を作ったのである。これが「毒鼓の縁」という法理である。
広宣流布の戦いに無駄なものなど、何一つない。友人の反応に一喜一憂し、前進を止めてしまうことこそが、無慈悲である。
(『随筆 対話の大道』、38ページ)
◇誠実な振る舞い
十九歳で信心した私もそうだったが、広大深遠なる仏法を完璧に理解して入会する人などいない。
「宿命転換」等の哲理を語る学会員の言葉の端々に溢れる確信に、心を動かされた人もいる。何よりも、紹介者の誠実な振る舞いへの信頼や、自分を思ってくれる真心への感動に、背中を押されるものだ。
近年、興味がない、悩みがないなどと、無関心で無気力な反応をする若者も多いといわれる。だが、その人を思う、こちらの真心は必ず伝わっている。
(『随筆 対話の大道』、44ページ)
◇慈悲と勇気
折伏は難事中の難事なりと、御書に明確に説かれている。勇気なくしては、成し遂げられない。
恩師は常々、言われた。
「凡夫には慈悲など、なかなか出るものではない。だから慈悲に代わるものは『勇気』です。『勇気』をもって、正しいものは正しいと語っていくことが『慈悲』に通じる。表裏一体なのです。表は勇気です」
(『随筆 対話の大道』、20ページ)
◇縁によって変わる
人の心は、他者との触れ合いという「縁」によって、大きく変わることができる。
足取り軽く、友のもとへ行こう! 語ろう!
動けば、何かが変わる。直接、会えば心が近づく。誠実に語れば、一歩、強い絆が生まれる。
気どらず、気負わず、誠心誠意の対話で、友の心を開拓していけばよいのだ。
(『随筆 幸福の大道』、96ページ)
◇五十展転の功徳
法華経の随喜功徳品には「五十展転の功徳」が説かれる。法華経の法理を聞いて歓喜した人が、別の人にその話を伝え、聞いたその人がまた次の人に自身の歓喜を語る。そうして五十人目の人が聞いた功徳も甚大であるという法理だ。
「信心はすごいよ!」とありのままに歓喜を語れば、既に立派な折伏である。その体験を語る側も聞く側も、共に福徳の花を爛漫と咲かせる因を積んでいけるのだ。
ゆえに、すぐに対話が実らずとも、落ち込むことも、焦ることもない。
「いよいよ悦びをますべし」(全203・新74)との御聖訓のままに、自信満々と、喜び勇んで次の友へ、また次の友へと、語り広げていけばよい。その弛まぬ実践に、新たな「五十展転」のドラマが生まれるのである。
(『随筆 民衆凱歌の大行進』、102ページ)
◇聞法下種
勇気を奮って、たった一言「この仏法はすごいよ」と語るのが、精一杯の時もあろう。それも、立派な折伏である。
相手がまともに聞いてくれない時もあるかもしれない。それでも、友の胸中に具わる仏性には必ず届き、響いている。深き生命の次元から見れば、仏の種子は蒔かれ、やがて必ず芽吹く春がやってくるのだ。
これが聞法下種である。
誰が見ていようがいまいが、粘り強く、対話を貫くことだ。その人こそが、一切衆生を救済するという「仏の仕事」を、現実の上で行っている最高に尊い「仏の使い」なのである。
(『随筆 平和への大道』、120ページ)
◇友への思いやり
折伏は、友情を深め、信頼を勝ち取っていくものでなくてはならない。
表面的な語らいはあっても、真実の対話がない現代である。
だが、折伏は、ともに真実の充実した幸福の道を歩みゆこうとの、友への深い思いやりの触発の語らいである。
人生の価値とは何か、何が正しく、何が悪なのかを、時に生活に即し、時にみずからの体験のうえから語り合う真心の仏法対話は、これ、人間主義の王道であり、それが折伏だ。
(『池田大作全集』第129巻、232ページ)
◇シビレエイ
ソクラテスは、青年への彼の感化力を、触れる者を皆しびれさせてしまう海の「シビレエイ」に譬えた意見に対し、「自分自身がしびれているからこそ、他人もしびれさせる」と応じた。
自分が燃えずして、どうして人を燃えさせられよう!
自分が戦わずして、どうして人がついてこよう!
皆の魂に、広宣流布に生き抜く「誓い」の炎を点火するのは、わが命を賭した闘魂の炎しかないのだ。
(『池田大作全集』第137巻、127ページ)