爽やかな挨拶が
皆の心を元気にする。
職場や地域の方々が
笑顔になる声掛けを!
瑞々しい生命力で!
同生同名御書 P1114
『石を珠といへども珠とならず珠を石といへども石とならず』
【通解】
石を珠と言っても、珠とはならない。珠を石と言っても、石とはならない。
名字の言 「ただ驀然にこの道を」——箏曲家・宮城道雄氏の生き方 2022年1月6日
正月によく耳にする箏と尺八による「春の海」。作曲した宮城道雄氏は、十七絃や八十絃などの新楽器の考案や洋楽を取り入れた箏曲の作品を発表するなど、邦楽の発展に多大な業績を残した▼氏は幼少期に失明した。音楽は、光を失い、絶望に沈む宮城少年の希望の灯となった。目が見えない以上、音の世界で生きる——箏の稽古を積み重ねる中で、そう決めた。氏は述べている。「ただ驀然にこの道を進んで往こう。その一念が私を今日あらしめてくれた」(『新編 春の海』岩波文庫)▼一人の人間の生命には、無限の可能性が秘められている。その力を発揮させるのが、「強靱な一念」だ。不退の覚悟を定めた人は強い。どんな苦難も自らを飛躍させる力に変えることができる▼池田先生はかつて、全盲の箏曲家の女性を励ました。「"信心の眼"を、"心の眼"を開いて、強く生き抜いていくんです。あなたがそうなれば、みんなが希望を、勇気を感じます」。師の励ましから半世紀以上が経過した今も、彼女は箏曲を通して、自分の縁する人に生きる勇気を届けている▼音楽を創造するのも、勝利の人生を切り開くのも「心」。自らが決めた使命の大道をまっしぐらに進む——この誓いを貫く一日一日でありたい。
寸鉄 2022年1月6日
「日本国に弘むるあいだ畏れなし」御書。勇気の一人から拡大のうねりが
創価班「師弟誓願の日」。寒風に胸張る若師子よ。堂々飛躍の年の先陣を!
妙法を唱える人は全てが変毒為薬される—恩師。共に勝利の劇綴る一年に
今年の新成人は120万人で過去最少と。益々青年に焦点を。真心の励ましで
朝晩の冷え込みが厳しい季節。外出時や入浴時の温度差に注意。油断なく
☆君も立て——若き日の挑戦に学ぶ 第12回「地区講義〈下〉」 教学は"生き抜く力""戦い抜く力"
【「若き日の日記」1952年(昭和27年)12月6日から】
この思想、宗教、仏法以外に、末法万年の闇は、照らし得ないのだ。
◇大聖人の心を拝する
神奈川・鶴見市場駅の改札を出た池田先生が、鶴見支部市場地区の「地区講義」の会場に向かったのは、1951年(昭和26年)9月7日夕刻のことだった。
同地区と、埼玉の志木支部川越地区。二つの地区講義の担当となった先生は、この日、市場地区で初の講義を行った。
会場は線路沿いの学会員宅。時折、電車の走る音が響く。
御書の発刊前であり、「大白蓮華」などを活用しながら、「治病大小権実違目」「妙一尼御前御返事」を真剣に学び合った。
この日以来、先生は、川越地区と並行しながら鶴見に足を運び、講義を重ねていくことになる。
地区講義では、まず、研さんを行う範囲の御文を拝読する。続いて、先生が2、3行ずつ区切り、当てられた青年部員が順番に読む。青年部員の拝読が終わるごとに、先生が解説を加えた。厳粛な雰囲気で、凝縮された"信心のエッセンス"を実感する講義だったという。
ある時は「佐渡御書」から「世間の浅き事には身命を失へども大事の仏法なんどには捨る事難し」(956ページ)の一節を拝し、「大聖人様が難を受けられている時、徹底的に戦っておられる時の御書は激しい」と語った。
またある時は、「大聖人は門下の弟子に何をおっしゃっているのか、その心を読みとらねばなりません」と、御書と向き合う姿勢について教えた。
市場地区の御書講義で、参加者にとって印象的だったのが、講師としての振る舞いだった。先生は会場にいち早く到着し、集ってくる参加者を温かく迎えた。
講義の後、青年部に「きょうはよく読めたね」と励ましを送り、気さくな語らいも弾んだ。"真剣な御書講義"と、講義の前後での心を結ぶ"双方向の語らい"——そのリズムが、皆の求道の炎を燃え上がらせていったのである。
【講義を行う際の姿勢】
一、熟読すること。
二、明確に、解釈すること。
三、理論的であること。必ず、体験を通し、幅広く講義をなすこと。
〜「若き日の日記」1955年(昭和30年)11月5日から〜
◇末法の功徳は冥益
戸田先生は、御書講義を行う講義部員に対し、「威張ってはいけない。大聖人の仏法の講義をさせていただけること、そして皆が講義を聴いてくれることに感謝しなさい」と訴えている。
教学の研さんにあって、教える側・教わる側に上下関係などない。御書を通して共に信心を深めゆく同志である。
池田先生は、鶴見の講義に臨み、講師としての思いを記している。
「夜、鶴見に講義。講義のたび毎に思う、勉強せねばならぬと」(『若き日の日記』、1954年5月19日)
「力一杯、頑張る。もっと成長せねば、受講者に申しわけないと思いつつ帰る。実力。常に実力を養い、実力を持つことだ」(同、同年7月8日)
戦後間もない時代にあって、満足な教育を受けられず、文字を読んだり書いたりするのが苦手な受講者も多かったが、先生の講義を通じ、一人一人が御書研さんの喜びに燃えていった。
質問会も活発に行われ、それは時に1時間以上に及んだ。「夕刻、鶴見市場の講義。『立正安国論』第四段終了。九時三十分より、十一時まで、質問会をS宅で続行」(同、53年11月10日)
受け身ではなく、自らが仏法を求め、学び行じゆく実践。そこには、既成仏教の「僧侶」と「檀家」という関係では成し得なかった、民衆仏法による"新たな教学運動"の光景が生き生きと広がっていたのである。
地区講義の前年の1950年(昭和25年)から、先生は仕事の関係で鶴見を頻繁に訪れていた。空いた時間には、鶴見の会員のもとを訪ね、激励を重ねた。
先生を囲んでの自然発生的なミニ座談会が鶴見のあちこちで開かれ、拡大の勢いは加速。51年(同26年)4月20日付の本紙創刊号には、「聖火鶴見に炎上」との見出しが躍り、戸田先生の第2代会長就任前の上げ潮をつくった。
地区講義がスタートした後も、池田先生は激務の合間を縫って、鶴見の同志に渾身の励ましを送った。
11月、ある夫妻宅を訪問。夫が病を抱え、経済苦にあえぐ中、夫人は先生に窮状を訴えた。
「この貧乏はいつまで続くんですか」
先生は包み込むように答えた。
「末法の功徳は冥益です」
そして、冥益の意味を教えながら、必ず幸福の境涯になるとの確信を語った。
この時、先生自身が病を抱えていた。経済的な苦境も重なり、寒い冬にあって、オーバーさえ着られない状況だった。それでも先生は、翌月、翌々月と夫妻宅を訪れ、激励を続けた。
そこで先生は手帳を広げ、書き留めてあった御書の一節を拝した。
「四条金吾殿御返事」の「苦をば苦とさとり楽をば楽とひらき苦楽ともに思い合せて南無妙法蓮華経とうちとなへゐさせ給へ、これあに自受法楽にあらずや」(1143ページ)である。
「苦しい時も、功徳をいただいて嬉しい時も、題目を唱えていきましょう。『あに自受法楽にあらずや』というのは、題目をあげた人のみが味わう生命の喜びのことです」
池田先生の、御書を通した真心の励ましに奮い立った夫妻は、"題目の闘争"を猛然と開始した。そして、宿命転換のドラマを紡いでいったのである。
◇最前線に勇気を!
地区講義を担当する池田先生の、さらなる大きな挑戦。それは、最前線から広布の突破口を開くことだった。
1951年(昭和26年)8月末、戸田先生は、川越地区の講師を池田先生に命じた際、こう語った。
「地区という小さな単位ではあっても、そこから、学会全体へと信心の炎は燃え広がっていく」
翌月、川越地区と市場地区の担当として初めて講義を行った時、先生は蒲田支部大森地区の地区委員(後の地区部長)だった。さらに、男子部では最前線の班長を兼務し、まさに最前線に身を置き、拡大に奔走していた。
地区講義のために移動する電車の中では、寸暇を惜しんで自身の地区・班のメンバーに、はがきを書いた。
地区講義を続けていた52年(同27年)2月には、蒲田支部の支部幹事として、「組」(後のブロック)に焦点を当て、1カ月間で支部201世帯という拡大の金字塔を打ち立てる。
市場地区は、先生の講義によって大きく発展した。蒲田支部所属の地区と"日本一"の弘教を競うようになった。鶴見支部自体も、蒲田支部の拡大に次ぐまでに飛躍を遂げた。
さらに、川越地区と市場地区での地区講義の戦いは、埼玉、神奈川といった首都圏に、広布の基盤を築き上げる原動力となったのである。
「行学の二道をはげみ候べし」(御書1361ページ)とある通り、行と学が両輪として働いてこそ、正しい仏道修行となる。先生の教学運動は、社会から隔絶されたものではなく、広布の戦いの真っただ中で展開された"最前線に勇気を送る教学"だった。
「御書の拝読は、人間革命であった。御書の拝読は、信心を無限に深めていく原動力であった。ここでいう教学とは、観念の教学ではない」——先生は、こう強調し、次のように述べている。
「大聖人の教学とは、生き抜く力、戦い抜く力、広宣流布への力となってゆく教学であった。その教学は、自身の血肉となって、あらゆる現実の人生と戦い進む、社会にあって断じて勝つための教学であり、大哲学であったのだ」
創価三代の師匠が、不惜身命の闘争で示し抜いた「御書根本」の実践。日蓮大聖人に直結する求道の連帯は今、日本だけでなく、世界中に広がっている。