2021年12月30日木曜日

2021.12.30 わが友に贈る

新聞休刊日

諸法実相抄 P1358
『釈迦仏は我れ等衆生のためには主師親の三徳を備へ給うと思ひしに、さにては候はず返つて仏に三徳をかふらせ奉るは凡夫なり』

【通解】
釈迦仏は我ら衆生のために主師親の三徳を備えられていると思っていたが、そうではなくて、かえって仏に三徳をこうむらせているのは凡夫なのである。

☆Switch——共育のまなざし 池田先生の励ましの言葉から
◇子どもを叱るとき
子どもは褒めて伸ばすもの。それを前提とした上で、子育て中には、どうしてもわが子を叱らなければならない場面もあるでしょう。しかし、「子どもをどう叱ってよいのか、分かりません」といった悩みを抱えている方も少なくありません。池田先生が女性リーダーや創価の教育者と語り合ったてい談『21世紀への母と子を語る』(『池田大作全集』第62巻所収)の中から先生の励ましの言葉を抜粋して紹介します。(編集・構成=大宮将之)

◇わが子の未来を見すえ 祈りを根本に
◇確固たる価値観を
<「上手な叱り方は、あるのでしょうか」——子育て中の母親たちから多く寄せられた質問に、池田先生が答えます>

「上手な叱り方」ですか。難問ですね。「叱り方」といっても、根本は親の生き方が問われる。親が、自分の人生に対する信念、生き方を確立することが第一です。
親自身が、確固たる価値観をもつことです。そうでないと、結局、環境に振りまわされたり、育児書に振りまわされたり、子どもに振りまわされてしまう。それでは、子どももかわいそうです。

<確かに、叱る側の大人自身に自信がなく、子どもに毅然とした態度がとれずに悩んでいる場合があります。先生は「よく分かります。悩むこと自体が尊いのです」と受け止めつつ、"生命尊厳を基本に、大人自身がまず正しい価値観を確立しなければならない"と訴えながら、言葉を継ぎました>

性別、性格、家庭環境など、子どもによってそれぞれ違いがある。だから、いちがいに「こういう時は叱ってよい」とか、「これが上手な叱り方だ」とは、言えないでしょう。ただ、「ここぞ」という時に、きちんと叱れるかどうか。心が大切です。"たとえ嫌われても"叱ってあげられるのが、母親なのです。
本当に自分のためを思って叱ってくれる親を、子どもは嫌ったりしない。生命の奥で、愛情を感じ取っていく。逆に、子どもだって叱ってほしい時がある。親が自分と向きあい、真剣にかかわってくれるよう求めていることもあるのです。「いざ」という時に、あえて言ってあげるのが「慈悲」です。
日蓮大聖人は、仰せです。
「たとえ強い言葉であっても、人を助ければ、真実の言葉であり、穏やかな言葉である。たとえ穏やかな言葉であっても、人を誤らせてしまうのなら、偽りの言葉であり、強い言葉である」(御書890ページ、趣意)
お母さんが、どんなに優しい言葉で話しても、それで子どもをダメにしてしまえば、それは「偽りの言葉」です。たとえ、きつく子どもを叱ったとしても、子どものためを思い、子どもを救うならば、それは「真実の優しい言葉」なのです。
大事なのは、ふだんから子どもの成長を祈っているかどうかです。祈りがあれば、たとえその時には分からなくとも、親の思いが子どもにちゃんと伝わっていくのです。

◇「創造家族」で!
<叱れない親が増えている一方で、自分の感情をコントロールできず、ついカッとなって叱ってしまうことで悩んでいる人もいます。感情を抑えきれず、つい手が出てしまうという親も……>

叱るといっても、親が理由も言わずに、怒りにまかせて叱ってばかりいると、子どもがおびえます。そして、とにかく「怒られないように」「叱られないように」と、一種の「ずるさ」を身につけてしまうこともある。そんなことを繰り返しているうちに、大事な時にも親の言うことに耳をかたむけなくなってしまう。
◆ ◇ ◆
感情で叱らないといっても、なかなかかんたんにできることではない。ただ、その時の気分にまかせて、手を出すことは、あってはならない。また、しぜんな感情を押し殺すのがふしぜんな場合もある。ときに感情的になることがあっても、根底に愛情があれば、大丈夫。大事なのは、ふだんの親子の信頼関係です。

<児童虐待も問題になっています。親自身が虐げられて育った分、子どもにも同じように向かってしまうというケースもあるようです。そうした中、「子育てに自信がない」と語る親も少なくありません>

子育てといっても、初めは皆、「初心者」です。自信がなくて、当たり前です。家庭、家族というのは、千差万別であり、決してマニュアルどおりにはいかない。自分なりに、自分の家庭の教育を創りだしていくしかない。試行錯誤でいい。失敗を恐れる必要もない。「創造家族」です。

◇知恵は慈悲から
<「完璧な親」などいないのですね>

欠点も長所もあるから、人間なのです。そこに人間らしさがある。
だからこそ、子どもも安心できるのです。自慢話ばかりする親よりも、自分の失敗談を話してくれる親のほうが、子どもも相談しやすいといいます。
「賢明な母親になろう」と努力するのは大事です。しかし、格好だけ「よい母親」を装うなら、かえって子どもを苦しめるだけで、自分も苦しみます。自分らしくてよいのです。
◆ ◇ ◆
「子どもはかんたんに言うことを聞かないもの」——そう割り切ることです。「覚悟」を決める(笑い)。そして、心を広々と大きく持つことです。戸田先生も、よく言われていた。「境涯を大きく持ちなさい」と。「子どもとしょっちゅうケンカしているのは、境涯が低いんだぞ」とも。
子どもが駄々をこねる。言うことを聞かない。かんしゃくを起こす——それには、何か原因がある。子どもは言葉でうまく言い表せないから、そうやって気持ちを表しているのです。子どもが今、何を欲しているか。何が言いたいのか——子どもの「心」に目を向けるのです。

<親の側に「心のゆとり」がなければ、なかなかそうはいきません。先生は語りました>

親の生命力です。子どもとかかわっていくのは、本当に命を使うものです。そして「知恵」です。知恵は、慈悲から出るのです。仏は、ときに巧みな「たとえ」を用い、ときに厳しく叱咤し、ときにあたたかく包容しながら、衆生を導きます。それは、すべて衆生を思う慈悲から出ているのです。親も同じです。

◇「誓い」があれば
<立派な親といっても、学識や教養が必要なわけではありません。平凡にして、偉大な母や父はたくさんいます。偉大な親であるか否かは「『子どもを思う心』の深さ、大きさで決まります」と先生は語りました。それはまた、わが子の幸せを真剣に祈るとともに、子どもを社会に貢献する人に育てようという心、そしてその「誓い」の深さでもあると訴えます>

「過保護」の親、「放任」の親、いずれもよくないが、もとをただせば、親のエゴです。子どもを「自分の所有物」のように考えるところから、両極端が生まれるのです。
子どもを「広宣流布」という社会貢献の人材に——この「誓い」があれば、エゴにおちいらない。また、子どもがどのようになろうとも、決してあきらめたりできない。私がここまでやってこられたのも、戸田先生との「誓い」があったからです。
◆ ◇ ◆
師との誓いを胸に、これまで、必死の思いで走りぬいてきました。嵐の中も、猛吹雪の中も、ただ「誓い」を果たそうと。世界じゅうのあらゆるところで、飛行機の中でも、ホテルにいても、車中にあっても、題目をあげながら。「師との誓い」であるがゆえに、「あきらめる」などということは、考えもしなかった。次元は違うけれども、子育てにも、同じことが言えるのではないだろうか。

<池田先生は、広島の中国平和記念墓地公園に立つ「世界平和祈願の碑」の像に言及しました。世界的な彫刻家であるフランスのルイ・デルブレ氏が制作したもので「建設」「寛容」「勇気」「希望」「後継」「歓喜」の"六体の像"からなっています。そのうちの「後継」の像は、座った母親が小さな子どもを両手で抱き上げ、前の方へと掲げる姿をしています>

この像について、デルブレ氏は、こう言っている。
「子どもを産み育てる根源的な存在としての母親。そして、未来世紀を担い、大いなる希望をもって成長していく姿を、母親にかざされた幼児として表現しています。
母親にとって子どもは、自分の所有物でも、付属物でもありません。未来を開くため、世界の平和のために捧げ、送り出していくのです。幼児も一人の人間として、きりっとした表情をしています。後継の使命を決意し、自覚していることを、両手を横に広げて表現しているのです」
◆ ◇ ◆
「親のエゴ」ではなく、「子どもの未来」を子育ての基準にしていかなければなりません。
子育ては、長い目でみなければ分からない。「子どもの今」を満足させるだけでなく、「子どもの未来」をしっかりと見すえていくのです。そうすれば、「叱るべきとき」も、おのずと分かるのではないか。
子どもは、自分を映す鏡です。子育ては、子どもも、自分もともに成長していく崇高な作業なのです。