2021年12月2日木曜日

2021.12.02 わが友に贈る

一人一人の変革から
新しき時代が創られる。
ゆえに自身の生命を磨き
友と勇気の語らいを!
そこに希望の社会が!

上野殿御返事 P1546
『又日蓮が弟子等の中になかなか法門しりたりげに候人人はあしく候げに候』

【通解】
また日蓮が弟子達の中に、法門を知った振りをする人々が、かえって間違いを犯しているようである。

名字の言 小説『人間革命』起稿の日と沖縄の同志 2021年12月2日
夫には先天性の眼疾患、妻も左目がほとんど見えない。生まれてきた子どもたちは病気がち。その一家が入会したのは1963年のこと。4畳半2間の自宅を広布の会場に提供し、「わが家は創価学会の城」と、夫妻は子どもたちに広布に尽くす誇りを語った▼翌64年12月2日、夫と長男と次男が沖縄本部(当時)で、池田先生と初めての出会いを結んだ。師の励ましは一家の「心の宝」となった。夫妻は悩みを抱える同志と共に祈り、共に広布に駆けた。一家の"創価の城"からは何人もの人材が誕生。父母の背中を見て育った5人の子どもも後継の道を進む▼一家を激励したこの日、池田先生は小説『人間革命』の筆を起こした。『人間革命』執筆開始の一日は、執筆だけで終わったのではない。先生は"励ましの戦い"にも全力を注いだ▼夏目漱石は新聞小説の苦労について、「一回書くのに大抵三四時間もかかる。然し時に依ると、朝から夜までかかって、それでも一回の出来上らぬ事もある」(『夏目漱石全集第10巻』筑摩書房)と。友の励ましに全精魂を傾けた上での執筆は"壮絶な闘争"以外の何ものでもない▼師が魂魄をとどめた『人間革命』『新・人間革命』に学び、わが飛躍の歴史を刻みたい。

寸鉄 2021年12月2日
『人間革命』起稿の日。断じて平和世紀へ—誓願の書を繙き我が勝利譜を
文芸部の日。"仏は文字で人々を救う"。師弟共戦の民衆守る言論勇者と光れ
祈りを込めた対話には強い仏の力が—戸田先生。真剣な題目が心の扉開く
信号ない横断歩道、渡る人いても7割の車が停車せず。歩行者優先を順守
百貨店騙る偽通販サイトの問題多発と。高級品の極端な割引等には要警戒

〈社説〉 2021・12・2 きょう「文芸部の日」
◇師弟の闘魂燃える言論の勇者に
ビクトル・ユゴーは詠んだ。
「雷よ、ほえるがよい、それなら、私はいっそう強くほえかえすから」(辻昶・稲垣直樹訳『ヴィクトル・ユゴー文学館 第1巻』所収「静観詩集」、潮出版社)
言葉の力で生涯、民衆を鼓舞し続けたユゴー。独裁者に追われ、亡命生活の逆境下で魂の言論闘争を貫いた。その作品は、"ヨーロッパの良心"といわれたロマン・ロランや革命作家・魯迅など、後世に多大な影響を与えた。
かつて第2代会長・戸田城聖先生は、「大作、君はユゴーとなって書きまくれ!」と語った。
池田先生が恩師の言葉の通りにペンを執り、小説『人間革命』の執筆を開始したのは、1964年(昭和39年)12月2日。この日が後に、「文芸部の日」と制定されたことに、大きな意義がある。
先生は激務の日々にあって、まさに生命を削り、活字で友に希望と勇気を送り続けた。長編詩、随筆、句や和歌、スピーチや提言など、人々の幸福を願っての言論の戦いは、瞬時もとどまることはなかった。小説『新・人間革命』が完結した後、先生は記した。
「私自身、ペンを握る者として一文芸部員の自覚で戦ってきたつもりだ。我、生涯、誉れの文芸部員なり!」
師に続き、師と共に"ペンの闘争"に挑む勇者の集いが、文芸部である。今、各地で小説や詩歌、エッセー、出版・編集、コミック、児童文学、シナリオなど、多彩な分野で奮闘する。
関西を中心に脚本・演出家として活躍するある友は、コロナ禍で舞台演劇が激減。その中で執筆に挑んだ小説が、東北の地方文化賞を受賞。舞台が戻りつつある今、数々の新作を手掛け、新境地を開く。
また、重度の障がいがある娘や認知症の母とのドラマが、VOD番組や映画にもなった兵庫のエッセイストは、創作に励みながら、本年、2人に弘教を実らせた。
混迷や苦難の時代だからこそ、人間主義の言論が光る。ある時は人々の幸福をうたう言葉となり、ある時は破邪顕正の炎の言々句々と燃える。池田先生は文芸部の友に「わが仏の生命を鮮烈に輝かせながら、一歩また一歩、『生命の世紀』の新たな文芸の大潮流を創り広げていただきたい」と訴えた。
学会創立100周年へ、師と不二の闘魂を胸に"書きまくる"、言論勇者の飛躍の時だ。

☆11月度「御書講義」(上) 寂日房御書
◇「太陽の仏法」が苦悩の闇を照らす
創価学会公式ホームページ「SOKAnet」で配信(11月30日まで)されている、森中教学部長の11月度「御書講義」を、上中下の3回にわたって掲載します(抜粋・編集)。教材は「寂日房御書」です。日蓮大聖人の民衆救済の闘争に連なる宿縁の深さを、胸に刻んでいきましょう。講義の動画はこちらから視聴できます。(�は11月21日付4面、�は11月23日付5面に掲載の予定)

◇はじめに
11月は、創価学会にとって「創立の月」です。また、今月は『日蓮大聖人御書全集 新版』刊行の月でもあります。
学会は、創立以来、三代の会長によって「御書根本」の伝統が築かれています。
私たちは、これからも、御書を真剣に学び、御書の通りに実践し、御書で示されている大境涯を築いていきたいと思います。
この11月度の御書講義では、「寂日房御書」を拝読し、師弟の三世にわたる宿縁、絆を学びます。
日蓮仏法は、「師弟の宗教」です。
師匠が「一人の人間」としての偉大な底力、智慧と慈悲と勇気に生きる人間としての尊極さを示した後、弟子が同じ生き方を目指していく、というのが仏法の師弟です。
その意味で、仏法の師弟とは、人間自身を高め、人間に内在する可能性を開花させ、尊極なる人間を創る、「人間の宗教」の生き方を示したものであるといえます。

◇背景と大意
本抄は、弘安2年(1279年)9月16日、日蓮大聖人が58歳の時、安房(千葉県南部)方面に住む門下のために認められ、弟子の寂日房に託されたお手紙です。
本抄の内容から、このお手紙を頂いた人物は、大聖人のご両親と何らかの縁があり、大聖人から幾度も指導を受け、御本尊まで頂いた門下であることが推測されます。御文の内容から、おそらくは、女性の門下だと推定されます。
本抄は、最初に、私たちが人間として生まれ、この仏法に巡り合うことが、いかにまれなことであり、どれだけ福徳のあることかが示されています。
今月の座談会拝読御書の範囲に、「夫れ人身をうくる事はまれなるなり、已にまれなる人身をうけたり又あひがたきは仏法・是も又あへり、同じ仏法の中にも法華経の題目にあひたてまつる結句題目の行者となれり、まことにまことに過去十万億の諸仏を供養する者なり」(御書902ページ)とある通り、妙法を唱え弘める私たちの人生は、過去世で十万億の諸仏を供養した果報であることは間違いないと断言されています。
次に、法華経勧持品に説かれている通り、「三類の強敵」と戦って、法華経を身で読み切られたのは、大聖人ただお一人であるとの事実を通して、大聖人こそ「日本第一の法華経の行者」(同ページ)であると宣言されます。
そして、この後から、今回の御書講義の範囲となります。
すなわち、「日蓮」の名前には、上行菩薩が末法に出現して、日月のような妙法の光明で、衆生の無明・煩悩の暗闇を照らすという意義が込められていると、法華経神力品の文を通して明かされます。
そして、このような大聖人の弟子となった人々は深い宿縁を自覚して、大聖人と同じように妙法を弘めていくべきであると促されています。

◇「上行菩薩の御使」
日蓮大聖人は、このお手紙の中で、幾重にも意義深い御自身の立場を明確に宣言されています。
まず「日蓮は日本第一の法華経の行者なり」(同ページ)と仰せです。
「法華経の行者」とは、ただ単に、法華経の経文を読んでいるだけの人ではありません。経文には、悪世に法華経を弘めれば難に遭うことが説かれています。それらの経文で説かれた難を自身が体験することが、本当の意味で、法華経を身で読むことであり、その人が「法華経の行者」なのです。
本抄では、三類の強敵が説かれている法華経勧持品を身で読まれたことが示されています。
また、このお手紙では、それだけでなく、大聖人御自身のお立場を、法華経に説かれる八十万億の菩薩の生まれ変わり、あるいは、地涌の菩薩の四人のリーダーたちの現れであろうか、とまで述べられています。この四人のリーダーの中でも、一番重要な立場であるのが上行菩薩です。
大聖人は、今回の御書講義の範囲で、「上行菩薩の御使」(同903ページ)として、経文に約束されている地涌の菩薩の上首(リーダー)である上行菩薩の行動を事実の上で貫いてきたと教えられています。
上行菩薩こそ、教主釈尊から付嘱を受けた、末法広宣流布の最高の指導者であり、このことは、大聖人がいかなる方であるかを、御自分で宣言されたということです。
御自身の立場をここまで書かれているのは、その不思議なる大聖人御自身に連なる門下の使命が、いかに大きいかを強調されるためであったと拝されます。
この師弟の宿縁深き門下とは、私たち学会員のことでもあります。私たちは、「行動第一」で、大聖人の民衆救済の大闘争に連なっていきたいと思います。

◇御文
『日蓮となのる事自解仏乗とも云いつべし、かやうに申せば利口げに聞えたれども道理のさすところさもやあらん、経に云く「日月の光明の能く諸の幽冥を除くが如く斯の人世間に行じて能く衆生の闇を滅す」と此の文の心よくよく案じさせ給へ』(御書903ページ2行目〜4行目)

◇現実の中で戦う
日蓮大聖人は、立宗宣言の後、御自身のことを「日蓮」と名乗られました。
誰かにつけてもらった名前でもなく、御自身で名乗られた名前であり、あとで示すように、甚深の意義があります。
「自解仏乗」とは、他人から教えを受けることなく、自ら「仏乗」、仏の境地を理解する、得るということです。
「かやうに申せば利口げに聞えたれども」——そう言うと、自画自賛のように聞こえるかもしれない。しかし、「道理のさすところさもやあらん」と、経文に基づく「道理」であることが示されています。
仏法は道理です。
この仏法の道理とは、文証・理証・現証の三証に裏付けられたものです。
ここで引用されている経文は、法華経神力品の一節です。
「日月の光明の能く諸の幽冥を除くが如く斯の人世間に行じて能く衆生の闇を滅す」
この経文には、太陽や月の光がさまざまな闇をなくすように、釈尊滅後に出現する上行菩薩は世間の中に仏法を行じて、衆生の闇を滅することが説かれています。
ポイントが二つあります。一つは、現実の世界こそが、仏法者の実践の舞台であるということ。そして、もう一つは、仏法者が、太陽の光のように、人々の闇を滅することができるということです。
経文の中の「斯の人」とは、釈尊から滅後悪世の広宣流布を託された地涌の菩薩の上首である上行菩薩にほかなりません。
この経文を踏まえて大聖人は、御自身が末法の闇を照らす上行菩薩の役割を担うという自覚の上から、「日蓮」と名乗られました。「日」とは、「日月の光明」です。「蓮」とは、「世間に行じて」とあるように、煩悩に汚れた「世間」にあって、泥沼の中で咲く蓮のごとく現実社会で行動を貫き通すことを示されていると拝せられます。
日蓮仏法を「太陽の仏法」と表現することは、言い得て妙だと思います。太陽の光は、瞬間に闇を滅することができます。そして、この光は、平等に誰にでも注がれます。
まさに、太陽の光のまばゆき明るさと、どこまでも現実の泥沼の中で戦う意味を込めて、大聖人は自ら「日蓮」と名乗られたのだと思います。

☆学ぼう「黄金柱の誉れ」Q&A 第19回 仏法は勝負
「法華経の兵法」こそ、我らの絶対勝利の力です。困難の壁を破りゆく勇者の生き方について、壮年部指導集『黄金柱の誉れ』から池田先生の指導を紹介します(指導集96ページから100ページを抜粋)。

〈一遍のあいさつから始める〉
戸田先生は、きちんとあいさつができない人間、朝、遅刻するような人間は出世できないと言われた。
上に立つ人間は、何事も人より率先して行わなければならない。また、礼儀正しくなければ務まらない。
「おはようございます!」と元気にあいさつをする。「ありがとうございます!」と、すがすがしくお礼を言う。
一遍のあいさつが、相手を感動させることがある。人の心を動かすのだ。
(本紙2006年8月29日付、信越最高協議会でのスピーチ)

〈"負けじ魂"の人となる〉
若き日、仕事に、学会活動に奔走する中、御書で"負けじ魂"という言葉を拝した新鮮な感動を私は思い起こす。
日蓮大聖人が「きわめて・まけじだましの人」(御書986ページ)と讃えられたその門下は、四条金吾である。
御文では、金吾のことを「我がかたの事をば大事と申す人なり」(同ページ)と付記されている。味方、同志を大切にし、守り抜くために、負けじ魂で戦ってくれる勇者なり、と。
金吾は、門下の旗頭として、決して負けるわけにはいかなかった。
「強盛の大信力をいだして法華宗の四条金吾・四条金吾と鎌倉中の上下万人乃至日本国の一切衆生の口にうたはれ給へ」(御書1118ページ)
この仰せ通りに、勝ち抜いてみせたのである。
学会精神も同じだ。
わが創価の負けじ魂の友は、どんなに苦しい局面にあっても、「信心即生活」「仏法即社会」の法理に則り、一歩も退かず前進してきた。
「仏法は勝負」である。
この信念で、断固として勝利の実証を示し切ってきた。これからも悪口罵詈など弾き飛ばして、揺るぎない信頼を勝ち開いていくのだ。
(『随筆 民衆凱歌の大行進』)

〈「勝つ!」と決めて祈る〉
日蓮大聖人は、「仏法は体のごとし世間はかげのごとし体曲れば影ななめなり」(御書992ページ)と断言なされている。
人間は、世間を離れて生きることはできない。しかし、世間に振り回され、翻弄される人生は不幸だ。絶対に強く賢くあらねばならない。
「体」とは、個人でいえば「信心」である。
何があろうと、信心を奮い起こして、頭を上げ、胸を張ることだ。
いかなる局面にあっても、「絶対に勝つ!」と決めて祈り切ることだ。
これこそ、最強無敵の「法華経の兵法」なのである。
(『池田大作全集』第137巻、「随筆 人間世紀の光」)