リーダーはいかなる時も
会員のプライバシーを
絶対に厳守すること!
同志からの信頼こそ
揺るがぬ発展の礎だ。
聖愚問答抄上 P499
『大智舎利弗も法華経には信を以て入る其の智分の力にはあらず況や自余の声聞をや』
【通解】
大智慧の舎利弗も、法華経には、信によって入ることができたのである。その智慧の力によってではない。まして、その他の声聞はいうまでもない。
名字の言 冬至から春に向かって 2021年12月22日
きょうは冬至。昼が最も短く、夜が最も長い日。昼が最も長い夏至と日照時間を比べると、冬至の方が約5時間も短い▼「新聞配達を始めてから四季の変化を実感します。今の時季は、夜明け前の星空がとても美しいんです」。こう語るのは、本紙を配達する壮年。吐く息は白く、身も震える冬の朝だが、「一軒一軒、聖教新聞をポストに入れる時、言葉では言い表せない喜びに満たされます」▼雨の日もある。雪の日もある。風の強い日もある。毎朝が自分との戦いである。新聞配達を経験した、池田先生の呼び掛けがよみがえる。「皆が 祈る。/皆が祈らなくてはならない。/大切な大切な/使命ある広布の走者の/無事故と健康を!/家族ぐるみで/支えてくださっている/御一家の御多幸を!」(長編詩「希望の道 栄光の朝」)▼長年、病気と闘う山口県の読者から手紙を頂いた。「日々、聖教新聞から勇気と希望をもらい、前に前に進むことができています。毎日、励ましの声が聞こえてきます。必ず勝利の実証を示します」。この言葉を聞いた先の壮年は、使命を新たにした▼冬至の日から春に向かい、日脚は確実に伸びていく。「冬は必ず春となる」(御書1253ページ)。われらの人生の軌道である。
寸鉄 2021年12月22日
試練の山を一つ切り抜ける度に成仏の境涯となる—恩師。全て飛躍の糧と
統監部の日。広布支える陰の献身に感謝。一人を大切にする組織は大発展
不得意に挑む中で自分の価値が発揮—牧口先生。己に勝つのが成長の王道
割引・値引謳う「ふるさと納税」偽サイトに注意を。事前に自治体のHP確認
きょう冬至。厳寒の今こそ適度な睡眠心掛け体調管理。祈り根本で聡明に
〈社説〉 2021・12・22 きょう「統監部の日」
◇広布の飛躍を支える聖業
きょう22日は「統監部の日」。1952年(昭和27年)の同日、第2代会長・戸田城聖先生のもとで地方統監部が設置されたことが淵源である。若き池田先生が蒲田支部幹事として当時の弘教の限界を打ち破った「二月闘争」もこの年。戸田先生の願業75万世帯達成へと飛躍的に発展する学会にあって、その実勢を常に正確に把握し、広布推進の基盤となりゆく使命を担ったのが「統監部」であった。
小説『人間革命』には、「大阪の戦い」の中で、統監作業に励む友を山本伸一が激励する場面がつづられている。
「このような縁の下の仕事こそ、まさに、陰徳を積む仕事です。誰に知られなくとも、広宣流布の中枢の仕事であることは、間違いありません。陰徳は、必ず陽報となって顕れます」(第10巻「一念」の章)
師と心を合わせて、「正確・明確」「基本を大切に」「広布伸展を支える」の3モットーを貫いてきた同部の友。繁多な作業を、人知れず積み重ねてきた労苦ありて今日の世界広布がある。
明「青年・飛躍の年」は統監部結成70周年の節を刻む。2月の統監作業から「新システム」が導入される。地区統監シートも改訂され、各地の会館から同シートをファクス送信していた従来の作業から、スマートフォン等の専用アプリでシートを撮影して送信できるよう、大幅にリニューアルされることになっている。
池田先生は、「日本国の四十九億九万四千八百二十八人の男女各父母有りといへども其の詮を尋ぬれば教主釈尊の御子なり」(御書1369ページ。当時の「1億」は現在の「10万」に当たる)を拝し、日蓮大聖人が当時の総人口や男女別の人数、郡や郷の数などを詳細に把握されていたことに言及しつつ、統監部の友に指針を贈った。
「一つ一つの数字に一人一人の人生がある。一人ももれなく断じて幸福に、との御本仏の祈りが拝される。このお心に連なる聖業を、統監部の皆さまは担い立たれている。一枚の統監カードは『一人の生命』なり。地道にして労多き陰徳に、勝利の陽報を確信してやまない」と。
広布拡大を支える尊き同志の聖業に心から感謝しつつ、皆が青年の心意気で、眼前の一人に希望と勇気を送る励ましの対話に、いや増して勢いよく打って出たい。
☆Switch——共育のまなざし わが子の不登校と病を経て 2021年12月8日
◇「生まれてきた」それだけで素晴らしい
その母子に初めてお会いしたのは、2016年1月7日。中部の未来部育成の現場を取材しようと名古屋市の中部平和会館を訪れた折のことでした。「みんなを笑顔にする"明るい不登校の子"がいます」と紹介されたのが、谷俊太さんです。当時16歳。隣には、優しく笑みをたたえる母・千恵美さん(白ゆり長)の姿もありました。俊太さんが脳腫瘍を発症したのは18年12月。昨年の春に二十歳でその生涯を閉じる瞬間まで、皆に希望を送る俊太さんの生き方は全く変わりませんでした。不登校、そして病の意味さえも転換する姿を通して「わが子が教えてくれたこと、残してくれたものがあるんです」。そう千恵美さんは変わらぬほほ笑みで語ります。愛知・稲沢市のご自宅を訪ね、母子の歩みを振り返っていただきました。(記事=大宮将之)
◇使命の子ども
「お母さんを苦しめて、本当にごめんね」
小学6年の5月に不登校になって以来、俊太さんはそんな思いにずっと、さいなまれていたという。行けなくなった理由は"学校に対する恐怖心"だった。
学級担任が"説得"しようと自宅まで来たことがある。「みんながとても心配しているんだぞ!」。うつむいたままの俊太さんの隣で、千恵美さんは頭を下げ続けた。俊太さんは中学校に入学しても、通うことはできなかった。
登校するのは当たり前。不登校は不幸なこと——社会に根付く同調圧力が、母と子に重くのしかかる。学会の婦人部(当時)の先輩が中部平和会館で開かれている教育本部の「相談室」を勧めてくれたのは2012年の秋だった。
千恵美さんは躊躇した。一家の中で学会員は自分だけ。俊太さんも、長男の祐樹さんも夫も、信心をしていない。「それでも大丈夫よ。全ての子どもたちの幸せのために学会はあるんだから!」と先輩から背中を押され、千恵美さんはわが子を連れて相談室を訪れた。
教育本部の友は温かく迎えてくれた。「不登校は未来の可能性を左右するものではありません。むしろ俊太君は、旧来の価値観にとらわれている学校や社会を変えていける"使命の子"なんです」
俊太さんにとって、学会は"安心の居場所"となった。
ある晩、自宅の御本尊に題目を唱えていた千恵美さんの隣に、そっと俊太さんが座った。「僕もやってみたい」
その唱題の声が次第に大きくなっていく。感じるものがあったのだろう。ほおを紅潮させながら彼が放った言葉は「こんなにすごい"秘密兵器"を、どうして早く教えてくれなかったの!?」。
別に秘密にしていたわけでは……母は思わず、笑ってしまった。
◇会館での写真展
中部平和会館で、千恵美さんは多くの出会いを結んだ。教育本部の友や、俊太さんと同じ不登校の子たちである。
共感してくれる人の輪の中で、俊太さんも元気を取り戻していく。本来はおしゃべり好きな彼の朗らかさが、周囲にも笑顔を広げた。
彼がカメラを得意とすることを知った同志が「この会館で俊太君の写真展をやろう」と提案したのは、2013年3月のこと。千恵美さんは未入会の夫や長男、親戚をはじめ、俊太さんが籍を置く中学校の教員を招待した。
会館に足を運んだ皆が感嘆した。俊太さんの優しいまなざしが伝わる一葉一葉に、そして彼が生き生きと案内をしてくれる、その姿に——。
以来、彼は創価家族との日々もカメラで切り取るようになる。写真展も回を重ねた。
「僕、学会に入りたい」。俊太さんは母に申し出た。彼の成長する姿に触れ、兄の祐樹さんも続いた。
俊太さんは"明るい不登校の子"として中学生活を終えて通信制の高校へ。記者が彼と出会ったのは、その頃である。大好きなアニメ「機動戦士ガンダム」の話や趣味の落語の小噺を、うれしそうにしてくれた姿が忘れられない。
千恵美さんは語っていた。「何年も学校に行けないわが子を信じて待ち続けるのは、難しいものです。親がブレてはダメだと頭で分かってはいても、ささいなことに一喜一憂してしまう……」
そんな時、いつも「大丈夫だよ」と信じ、励まし続けてくれたのが、学会の同志だった。「皆さんに大きく包んでもらうことで、俊太が安心して伸び伸びと成長していく姿を見ていると、変わらなきゃいけないのは親の私の方だ」と気付いたという。
「うちも悩みは同じだよー」と、一緒に泣いたり笑ったりできる学会のお母さん仲間たち。人の心に敏感で、優しさに満ちた不登校の未来部員たち——俊太さんが"普通"に学校に通っていたら、出会うこともなかったに違いない。そう思うと、わが子への感謝があふれてくる。
2018年4月2日、俊太さんは創価大学の通信教育部に入学した。爛漫の桜花に包まれるキャンパスで、母と子は一枚の写真に納まった。
◇「幸せだなあ」
その同じ年に俊太さんが病に侵されることを、誰が想像しただろう。
12月に脳腫瘍を発症し、入院生活へ。検査の結果は絶望的。千恵美さんは足元が崩れ落ちるような衝撃に襲われ、不安で夜も眠れない。
俊太さんと一緒に手紙を書いた。彼が、便箋いっぱいに大きく記した言葉は「池田先生、絶対に負けません!」。わが子が固めた師への誓い。母も共戦の決意が定まった。"冬を必ず春にする"。その一心で唱題を重ねた。長男の祐樹さんも、地域の同志も、皆が真剣に祈ってくれた。
2019年4月5日、迎えた手術日の朝。俊太さんは目を覚ますや、「なんか幸せだなあ。生きてるって素晴らしい。皆さんに感謝」と言って手を合わせたという。14時間に及ぶ大手術は成功した。
順調に回復していくかと思われた時、恐れていた再発が分かる。動揺する千恵美さんを鼓舞したのは、むしろ俊太さんの姿だった。抗がん剤治療の影響で髪の毛が全て抜け落ち、日に日に体が衰弱して歩けなくなっても全く嘆くことがない。見舞いに来る人たちに冗談を飛ばし、笑顔で励ましてさえいる。医師や看護師にも感謝の言葉を掛けた。主治医から「説明がつかない」と言われるほどの回復の兆しを、何度も見せた。
「この時ほど、題目の力を実感したことはありません」と千恵美さんは言う。病室で俊太さんと共に題目を唱えていると、彼を知る何百人という中部の同志と"唱題会"をしているような感覚を覚えた。連日届く励ましのメールにも、どれほど勇気をもらったか。
御聖訓に「植えた木であっても、強い支柱で支えれば、大風が吹いても倒れない」(御書1468ページ、通解)とある。千恵美さんがそれまでイメージしていたのは2、3本の柱で木を支えている姿だったという。しかし「闘病中の実感は、とてつもなく太い支柱で何重にも囲まれて、倒れる隙間もない。これなら絶対に倒れるわけがない——そんな感じでした」。
それは、俊太さんの実感でもあったに違いない。病床で「なんかよく分からないけれど、幸せだなあ」という言葉を幾たびも口にした。思えば小学6年で不登校になった頃に、「死のう」とさえ思っていた彼である。それが、心から信じられる創価家族と出会い、「生まれてきたこと、生きていること、それがどれほど素晴らしいことか」と学んだ。病との闘いの中にあっても、そのことを生命の底から実感していた。
——満開の桜が輝いていた2020年4月2日、俊太さんは緩和ケア病棟へ。同月18日の朝、大好きな両親と兄に見守られながら、安らかに霊山へと旅立った。
◇未来に開く宝箱
闘病中の俊太さんが、母と病室で毎日、していたことがある。それは「ありがとう合戦」。俊太さんが「お母さんは、世界一のお母さんだよ。ありがとう」と言うと、千恵美さんは「こちらこそ。俊太は世界一の子だよ。ありがとう」と応える。すると、「いやいや、こちらこそありがとう」と返され、「いやいやいや、こちらこそありがとうだよ」と続くのである。
俊太さんに「ありがとう」を伝えたのは、母だけではない。同志の善意でまとめられた彼への追悼集が、四十九日の折に家族のもとに届けられた。言葉を寄せた友は120人余。不登校の時代を共にした仲間や、がんとの闘病中だという同志からのメッセージもあった。誰もが俊太さんから「生きる希望をもらった」という人ばかりだ。
今も千恵美さんは俊太さんの写真を見つめると、ほおをぬらすことがある。だがそれは、悲しみの涙ではなく「温かいもの」だという。もちろん寂しくないと言えばウソになる。それでもわが子の生命の輝きを思い出すたび、胸にあふれるのは「ありがとう」の言葉にほかならない。
「俊太は私の未来に『出会い』や『感動』という"宝箱"を散りばめ、残してくれたんだと思います」。不登校の中で悩みを共に乗り越えた未来部員の活躍を聞くたび、俊太さんの体験談が縁となって新たな出会いを結ぶたび、宝箱が一つまた一つと開いたような気持ちになる。
◇わが子よ、ありがとう!
池田先生は語っている。
「親子の縁は不思議です。三世の生命観から見れば、どれほどの深い絆で結ばれていることか。その子どもが、自分に、そしてまた家族に、最高の生き方へと進むきっかけを与えてくれるのです。それを親が、どう受けとめるかで、親も子どもも、大きく人生が変わってくる。どんな苦しみがあっても、どんな試練があっても、『わが子よ、生まれてきてくれて、ありがとう』——こう、心から言えるようになった時、親子はともに、幸福の方向へ進んでいけるのではないでしょうか」
わが子は何のために生まれてきたのか。今もなお、たくさんの人たちから俊太さんに寄せられる「ありがとう」の言葉を大切にしながら、千恵美さんは心に期している。
「これからも、いろいろな場面で"俊太の使命は、これだったのか"と感じることがあるはず。私が成長した分だけ、もっと深い俊太の使命を感じられるようになるかもしれません。そう思うと私にとって、心の中で生きる俊太と共に歩み、共に育つ"共育"はずっと続いていくんです」