2021年12月21日火曜日

2021.12.21 わが友に贈る

空気が乾燥する時期。
火災に厳重警戒!
燃えやすい物の放置や
たこ足配線等がないか
後回しにせず点検しよう。

教行証御書 P1279
『一切は現証には如かず』

【通解】
一切は現証にすぎるものではない。

名字の言 聴覚障がいのある写真家が大切にしていること 2021年12月21日
今、注目される写真家の一人である齋藤陽道さんは聴覚に障がいがあり、会話は手話か筆談で行う。相手の言葉を理解するのが容易でないからこそ、「こちらから心身すべてを開け放した無類の歓待の姿勢」を大切にする▼その思いが深くなったのは、自閉症の少年を撮影した時。少年の表情は硬く、呼び掛けに対する反応も薄いと感じた。だが、わずかに上がった口角は、少年にとって立派なほほ笑みだった▼表情や動作、言葉に、その人の内面がすべて表れるわけではない。それを読み取れるかどうかは、自分の器の問題であり、「語り得ないものを抱える存在」ほど、実は内面に「豊穣を抱えている」と思えるようになったという(『声めぐり』晶文社)▼同じ相手でも、受け止める側の姿勢によって、関係は大きく変わる。"苦手だな"と思う存在も、自分を成長させてくれると捉えれば、感謝さえ生まれる。御聖訓に「餓鬼は恒河を火と見る・人は水と見・天人は甘露と見る」(御書1050ページ)と仰せの通りである▼池田先生は「祈りには、どんな人間関係も、幸福の『仏縁』へ、勝利の『善知識』へと変える力がある」と教える。自身を磨き、境涯を広げた分だけ、信頼と友情の輪は広がっていく。

寸鉄 2021年12月21日
広宣流布は最高の善行だ—恩師。自他共の幸開く価値創造の歩みを今日も
和歌山の日。烈風魂で築きし常勝の民衆城!勇気の対話で飛躍の年を先駆
法華経の題目は「大光を備へ給へる」御書。我らの祈りは闇晴らす希望の源
新しい人と繋がる努力が脳を活性化と。地域友好に励む多宝の同志が証明
座りすぎ解消へ"30分に1度立ち上がり少しだけ歩く"が有効と。小事重ね

☆子どもと学ぶ 日蓮大聖人の御生涯 第2回 「立正安国論」提出
鎌倉で、若き日蓮大聖人さまが目にしたのは、病気で弱っている人々や食べ物がなくて苦しむ人々、また、大風や洪水などで、家や家族を失って悲しむ人々でした。
「この国では、仏教が広く信じられている。それなのに、どうして苦しむ人が、これほどたくさんいるのだろうか」
ある時、とても大きな地震が起こりました。家は倒れ、火の手が上がり、たくさんの人々が逃げまどいました。
心を痛めた大聖人さまは、「今こそ、人々の苦しみの原因を見つけ、救わなければならない!」と強く思いました。
仏さまの教えが書かれた、たくさんの本を読み、考え抜いた末、一つの書物を書き上げました。それが「立正安国論」です。
——誤った教えを信じていることで、人々の生きる力が弱まっている。これが苦しみの根本原因だ。すぐに、正しい教えを弘めなくてはならない。
ただ自分の幸せを願うだけではなく、周りの人々を幸せにするために、頑張っていくべきである。一人一人が本当の教えを信じ、実践していくことで、平和な世界がつくられることは間違いない——。
大聖人さまは、「国中の苦しむ人々を救いたい」との真剣な思いで、この「立正安国論」を、鎌倉幕府(武家の政府)で最も力を持つリーダーに送り届けました。
ところが、幕府の人たちは、これを無視しました。それどころか、何も悪いことをしていない大聖人さまに、迫害を加えてきたのです。
ある日、大聖人さまを憎む人たちが武器を手に、大聖人さまの鎌倉の住まいを襲ってきました。(松葉ケ谷の法難)
この時は、なんとか逃げることができましたが、その翌年、大聖人さまは幕府によって無実の罪で捕まり、遠く離れた伊豆という所へ送られてしまいました。
幕府から許されて、鎌倉に戻ったのは2年後でした。(伊豆流罪)
次の年、大聖人さまは病気のお母さまを見舞うため、故郷の安房国を訪れました。ところが、その地で、待ち伏せしていた武士たちに襲われたのです。
大聖人さまは額を刀で斬りつけられ、手の骨を折られました。
大聖人さまを守ろうとした弟子たちも斬られ、命を落としました。(小松原の法難)
どうにか命だけは助かった大聖人さま。どんなことがあっても正しい教えを弘めなくてはならないと、決意をいっそう深くするのでした。

◇[道しるべ]一念の変革
相次ぐ自然災害や深刻な飢饉、疫病の流行。塗炭の苦しみにあえぐ民衆を救わんと、日蓮大聖人が著されたのが「立正安国論」です。
文応元年(1260年)7月16日、大聖人は本書を、実質的な最高権力者・北条時頼に提出されました。
本書で大聖人は、不幸の根本原因は人々が正法に背き、悪法を信じていることにあると述べ、災厄の元凶として念仏思想を鋭く破折。速やかに妙法に帰依するように促されています。
その当時、現世の安穏を諦め、死後の安楽を願う念仏思想がまん延し、人々から生きる意欲を奪い去っていました。そうした誤った思想を打破して、人々の生きる力を呼び覚ますべく、大聖人は、妙法弘通の大闘争に挑まれたのです。
池田先生はつづっています。
「大聖人は、念仏破折をもって、あきらめ、現実逃避、無気力といった、人間の生命に内在し、結果的に人を不幸にしていく"弱さ"の根を絶とうとされたのである」
大聖人は「立正安国論」の結びで「汝早く信仰の寸心を改めて」(御書32ページ)と仰せです。
自身の「心」、信仰の「一念」が変われば、いかなる状況も必ず変えていくことができる——日蓮仏法は"一人の人間の無限の可能性"を示す、希望の哲理なのです。

[地図・略年表]
正嘉元年(1257年)8月(36歳)
鎌倉で大地震
文応元年(1260年)7月16日(39歳)
「立正安国論」を北条時頼に提出
その後、松葉ケ谷の法難
弘長元年(1261年)5月12日(40歳)
伊豆流罪
文永元年(1264年)11月11日(43歳)
小松原の法難
(聖寿は数え年)