「陰徳あれば陽報あり」
人知れぬ労苦を重ね
わが責任を果たし抜く。
この地道な実践に
大福運が積まれる!
妙心尼御前御返事 P1480
『一切の病の中には五逆罪と一闡提と謗法をこそおもき病とは仏はいたませ給へ今の日本国の人は一人もなく極大重病あり所謂大謗法の重病なり』
【通解】
また一切の病のなかでは、五逆罪と一闡提と謗法をこそ重病であると仏は心を痛められています。今の日本国の人は、一人も残らず、極大重病の人です。いわゆる大謗法の重病です。
名字の言 「寝ていても団扇の動く親心」——親子の縁に思う 2021年8月21日
江戸川柳に「寝ていても団扇の動く親心」と。酷暑でエアコンが欠かせない現代人にも響くものがあるに違いない。疲れて体は寝入っても"寝苦しくないか""虫に刺されはしまいか"と、心が子から離れることはない。親とはそういうものだろう▼ある研究によると、西暦2000年までに生まれた人間の総数は、試算で1120億人余りだという。ならば、その中で親子になるという出来事は"奇跡"ともいえよう▼ある女性部員は、長女がダウン症と診断された。当初、母となった彼女は悲嘆に暮れる月日だった。だが、ゆっくりでも確かな成長を刻み、生きる手応えを伝えてくる娘の姿に強く誓った。"大切な命を守り抜く。その尊い行為に自分の命を使う"と▼あれから40年。この間、彼女は娘を立派に育てながら、学会のリーダーを務めた。さらに数々のボランティア活動を国内外で展開した。わが子の命を守ると決めた使命は、周囲や世界の人々を守り支えるまでに広がった▼池田先生は「子どもが、自分に、そしてまた家族に、最高の生き方へと進むきっかけを与えてくれるのです」と語る。ならば、親子の縁は奇跡や偶然と言うだけでは片付けられない。幸福の人生を築くための深い宿縁である。
寸鉄 2021年8月21日
確信のあるところ必ず勇気に満ちる—恩師。今日も勝つとの祈りから出発
副役職者が元気な地区は広布が伸展。一人立つ友の結合が最強の団結なり
「四表の静謐を祷らん者か」御書。社会の安穏へ立正安国の対話に邁進!
変異株、職場でも窓を開け送風機での換気等を—医師。更に念入りに対策
川の事故、複数人でいる時に多数発生。「誰かが見ている」との油断は禁物
〈社説〉 2021・8・21 "育自日記"ポエム編から
◇子育ての日常に幸せを再発見
"育児は育自"をテーマにした読者投稿コーナーが、本紙教育欄で20年を超え続いている。
子育ては大人が子どもに一方的に教える関係ではなく、大人が子どもから教わることもたくさんある。育児は大人自身を育てる"育自"にもつながっている。その気付きを得た読者からの投稿は、切り取る日常が変わっても、昔も今も本質は変わらない。
先日、同欄の新企画として、子どもや家族との触れ合いを詠んだ「詩」を募集したところ、担当者の予想を超える数の作品が届いた。詩を作ろうと意識することで、子どもの言動の面白さに敏感になり、ともすれば密着した親子関係で起こりがちなイライラが軽減されることもある。出来上がった作品は、将来、子どもに贈るプレゼントにもなろう。
すでに紹介された作品には——「もっとしゃべることができたら/私は不安にならずにすむの?/もっと寝てくれたら/私は自由になれるの?」と子育ての葛藤の「渦中」をつぶさに表現したもの。「『ごめんねは?』/小さなあなたに/何回叱って/何回言わせた言葉でしょう/そんな私を許してくれていたのは/あなただったことに/今ごろ気付いているのです」と、子どもへの感謝が綴られたものもあった。
早速、読者から「世界中、暗いニュースばかりの中、心の汚れを落としてくれるすてきな詩だった」などの感想が寄せられた。
子育て真っ最中は無我夢中。一刻も早く手が掛からなくなってほしい、もっと自由な時間がほしいと願うこともある。けれども、「後で振り返ると、大変と思う時が、一番充実していた」との視点を自らの言葉で綴った読者の投稿は多い。改めて幸せとは、遠い先にあるのではなく、懸命に励む日々の中にこそあると教えられる。
育児の周辺にいる大人の言葉育てに携わってきた詩人・エッセイストの浜文子さんは、「聖教新聞の読者は、人生の意味を自身に問い掛け、真剣に生きている方が多いからこそ、日常の生活から表現のもととなるたくさんの気付きを得られるのでしょう」と語っていた。
詩の素材と同じように、幸せのもとは、普段の日常に無数に隠れているもの。その"財宝"を言葉の力で見つけ出す一助を本紙で担えれば幸いだ。
☆ヒーローズ 逆境を勝ち越えた英雄たち 第10回 ジョセフ・ロートブラット
〈ロートブラット〉
使命を果たすには、あまりにも
なすべきことが多くありすぎて
とても疲れている暇はない。
1945年8月、世界は第2次大戦の終戦を迎えた。だが、その後も軍拡競争が続き、人類の危機は続いていた。
こうした流れに警鐘を鳴らすため、57年、核兵器と戦争の廃絶を目指す科学者の組織「パグウォッシュ会議」が発足する。その中心者の一人が「行動する科学者」として名高いジョセフ・ロートブラット博士である。
「使命を果たすには、あまりにもなすべきことが多くありすぎて、とても疲れている暇などなかったのです」
そう語る博士が、96年の生涯の大半を「平和闘争」に捧げるきっかけとなったのは、幼少期の戦争体験である。
生まれはポーランドのワルシャワ。比較的裕福な家庭で育ったが、その生活は5歳の時に起きた第1次世界大戦によって一変してしまう。家業が壊滅的な打撃を受け、一家は日々の食事にも事欠くほど、苦しい状況に追い込まれた。悲惨な現実を前に「戦争は絶対悪」との気持ちを強く刻み付けたという。
幼い心に希望の光を与えたのは空想科学小説だった。月旅行や海底旅行など、本の中に広がる、夢のような別世界。科学への興味をかき立てられたロートブラット少年は思った。"もし科学に力があるなら、なぜこの空想小説が作り話で終わる必要があるのだろうか。科学者になって、人々の苦しみを解決し、戦争なき世界をつくりたい"
しかし科学者になる道は、容易ではなかった。高校に行く必要があっても、家庭には学費を払う余裕がない。それでも逆境に屈せず、昼は電気技師として働き、夜は本を読み、物理学の勉強に励んだ。その努力が実を結び、夜間コースのあるポーランド自由大学に入学する。
そこで師となるヴェルテンステイン博士と出会い、物理学・核物理学の知識や、科学に対する基本的な考え方を学ぶ。「人間として尊敬できる師を持てたことは、本当に幸せなことでした」
やがて学位を取得。ここから本格的な「科学の旅」「平和の旅」が開始されたのである。
〈ロートブラット〉
池に小石を投げれば波紋が
広がるように、どんな人にも
社会や物事を変えていく力がある。
1939年、ロートブラット博士はトーラ夫人をワルシャワに残し、イギリスのリバプール大学に留学する。語学などの苦労は多かったが、核物理学の研究が評価され、新たな奨学金の支給が決定。夫人を呼び寄せるために一時帰国した。
ところが、夫婦で出国しようとした矢先、夫人が虫垂炎に。博士だけが先にイギリスに戻った。ナチス・ドイツがポーランドに侵攻したのは、その2日後のことである。夫人はホロコーストの犠牲となり、再び二人が出会うことはなかった。
長く、深い悲しみが博士を襲った。その中でも増していく戦争の脅威。やがて博士は、核物理学に詳しい一人として、アメリカの原子爆弾開発を目的とした「マンハッタン計画」に参加する。"もしもドイツが先に原爆を持てば、恐ろしいことになる"。葛藤の末の結論だった。
その後、ドイツが製造しないことが分かり、目的がソ連を抑え込むことであるとの情報を得た博士は、ただ一人、計画を離脱する。"ソ連のスパイ"と疑われ、事実無根の中傷を浴びても、自らの良心に従った。
しかし、残る科学者たちによってマンハッタン計画は進められ、45年8月、広島と長崎に原爆が投下されてしまう。
「私の心をその時、占めていたものは、『絶望』でした」
一報を聞いた博士は、言葉に尽くせぬ衝撃を受けた。同時に「核兵器の開発競争」が始まるとの危機感を抱く。責任を痛感し、誓った。「人生の残りを核爆弾が二度と使われないようにすることに捧げよう」
科学者が連帯し、人類の滅亡をもたらす兵器の開発を防がねばならないとの強い使命感で、46年に「原子力科学者協会」を設立。また、核の恐怖を伝える展示会の開催に精力を注いだ。自身の研究も核物理学から放射線医療へと転向している。
55年には、核兵器の禁止を訴える「ラッセル=アインシュタイン宣言」に、著名な科学者らの一人として署名。この2年後、宣言に基づき「パグウォッシュ会議」が創設された。
博士は、人生の最後の瞬間まで平和のために戦い続けた。その理由を次のように語る。
「私は民衆が、社会に影響を与える力を持っていると信じます。どんな努力も無駄にはならない。池に小石を投げれば波紋が広がります」「そして、どんな人にも、社会を変えていく、この波紋を生み出す力がある。私たち一人ひとりには、ものごとを変える力があります」
〈ロートブラット博士を語る池田先生〉
巨大な凶器を根絶するための
武器は「言葉」だけだった。
仏法も「声仏事を為す」と説く。
我らも「声」「言葉」「対話」で
正義と幸福を拡大していくのだ。
ロートブラット博士がマンハッタン計画を離脱した1944年の11月。日本では、創価の先師・牧口常三郎先生が獄中で正義の殉教を遂げた。
パグウォッシュ会議が発足された57年は、くしくも恩師・戸田城聖先生が「原水爆禁止宣言」を発表した年でもある。
初代・2代の平和の精神を受け継ぐ池田大作先生と博士が最初の出会いを結んだのは、89年10月11日。場所は、池田先生が若き日に権力との人権闘争を貫いた大阪の地であった。
2度目の語らいは2000年2月10日、悲惨な地上戦の舞台となった沖縄で。翌日は、戸田先生の生誕100周年。その佳節に当たり、池田先生が創立した戸田記念国際平和研究所から博士に「戸田記念平和学賞」が授与された。
この折、博士は語っている。「私は疲れることを、自分に許さないのです」と。平和の松明を赤々と燃やし、翌年には開学間もないアメリカ創価大学で記念講演を実施。「9・11」のテロ事件の余波が続く中、青年たちの未来に心から期待を寄せた。
さらに、池田先生と博士は往復書簡を通じて対話を重ね、対談集『地球平和への探究』(潮出版社)を発刊。その推敲作業の一切を終えた05年8月、「行動する科学者」は96年の尊い生涯を閉じた。それは、広島・長崎への原爆投下から60年という節目の時でもあった。
「世界平和」という大目的で結ばれた博士との親交を振り返り、先生は広布へ戦う同志の魂を鼓舞してきた。
「博士は、みずからも製造にいったんはかかわった『核兵器』という巨大な凶器の根絶のために戦い続けた。その戦う"武器"は、何であったか。博士は述懐しておられた。(中略)
『私たちの武器は、人間同士の理性に基づく討議によって導かれる「言葉」だけでした。その言葉をもって相手を説得する。それが、私たちが続けてきた平和運動の根幹だったのです』
仏法でも、『声仏事を為す』(御書708ページ)と説かれる。『声』の力で、『言葉』の力で、『対話』の力で、正義と幸福を拡大していくのだ」(05年9月12日、各部代表協議会でのスピーチ)
「博士は、私にこう語ってくださった。『楽観主義は、私の倫理です。それは宗教ではありませんが、あなたの宗教に似ているかもしれません。私と池田会長は、異なる立場から出発して、同じ結論に達しました』
人類の幸福と平和への戦いは、暗く悲壮なものでは絶対にない。ここには、正義を行っているという不動の信念と輝く希望があるからだ。(中略)
険難の峰に挑んで流した、苦闘の汗も涙も、すべて充実の喜びと変わる。見よ! 広宣流布の栄光の未来は、燦たる光に包まれ、洋々と広がっている。
さあ、新たな快進撃だ! 朗らかに進もう! どこまでも、またいつまでも!」(本紙05年9月27日付「随筆 人間世紀の光」)
終戦から76年となる夏。平和原点の地・広島をはじめ、創価の友が流す労苦の汗は、全てが未来の幸福勝利の因となる。