2021年6月25日金曜日

2021.06.25 わが友に贈る

「心の固きに仮りて
神の守り則ち強し」
確信の祈りと行動が
諸天を揺り動かす。
勇猛心で壁を破ろう!

経王殿御返事 P1124
『日蓮がたましひをすみにそめながしてかきて候ぞ信じさせ給へ』

【通解】
(この御本尊は)日蓮が魂を墨に染めながして書き認めたのである。信じていきなさい。

名字の言 球史に残る逆転劇 2021年6月25日
勝負は最後の最後まで分からないものである。2014年7月、高校野球の石川県大会決勝戦は球史に残る逆転劇だった▼9回表で小松大谷高は8対0と、星稜高に大差をつけていた。ところが9回裏、星稜は9点を取ってサヨナラ勝ち。2年連続17回目の甲子園出場を決めた▼その試合を星稜高の在校生としてスタンドで応援したという青年に話を聞いたことがある。彼は開口一番、「勝敗を分けたのは『笑顔』でしたね」と言った。「必笑」が合言葉の星稜ナインは、ピンチの場面でも笑みを絶やさなかった。それが活気を生み、チームは勢いづいていった。一方、対戦相手は大量リードにもかかわらず、追い詰められたように見えたという▼当時、星稜野球部のメンタルコーチだった飯山晄朗氏は自著に記している——表情や動作は、身体に影響を及ぼす。特に笑顔をつくると、脳は"この状況は楽しいのだ"と感じ、能力を発揮しやすくなる、と(『いまどきの子のやる気に火をつけるメンタルトレーニング』秀和システム)▼これは私たちにも通じよう。偉大な広布史を築いていると思えば、逆境や試練はむしろ誉れである。"さあ、ここから本領発揮だ!"と挑む快活な心が、最後の大逆転勝利を引き寄せる。

寸鉄 2021年6月25日
「をもひ切りて申し始めし」御書。語らねば相手に届かぬ。さあ皆で全力
墨田が混戦突破へ大進撃師子は走る。師子は戦う。勝って庶民の都に万歳を
北区の勇者が怒濤の前進雄弁こそ我らの剣。首都の北の砦に大勝旗よ翻れ
町田が気迫の猛攻。特区の使命は常勝!ここから攻め抜き感激の凱歌共に
東村山・東大和・武蔵村山が勇戦!破邪顕正の声で次の10年の夜明けを断固

〈社説〉2021・6・25 カストロ議長との会見25周年
◇人間交流が真の平和を築く
池田先生とキューバ共和国のフィデル・カストロ国家評議会議長(当時)との会見から、きょうで四半世紀の節を刻む。
会見は1996年6月25日、首都ハバナの革命宮殿で行われた。その内容は、小説『新・人間革命』にこう記されている。
「話題は、後継者論、人材育成論、政治・人生哲学、世界観など多岐にわたった。だが、一貫して、『対話』と『文化』の力が二十一世紀の平和にとって、極めて大きな要素となることを確認する語らいとなった」(第30巻〈下〉「誓願」の章)
対話と文化——これこそ先生が"人間外交"の機軸とし、キューバとの友好の道をも大きく開いた二本の柱といってよい。
1点目の「対話」。当時のキューバは、ソ連崩壊後の深刻な経済危機に直面し、超大国アメリカとの長年の対立の中、国際社会でも孤立を強いられていた。しかし、池田先生は、"仏法者に反米も反キューバもない、「平和」追求の基本精神が一致するならば、人間として対話の可能性を断じて手離さない"と行動したのだ。
2点目は「文化」。人と人の心を結ぶ文化交流には、地道な歴史がある。民主音楽協会(民音)の招へいで、同国の音楽・芸術団体による日本公演が81年に実現。その後も交流は続く。カストロ議長との会見後には、東京富士美術館主催の「日本美術の名宝展」をキューバで、さらに「キューバ国立美術館名作展」を日本で開催した。
真の平和は、対話と文化に根差した、民衆と民衆の交流を進めていく中にこそある——国際社会で分断や対立が続く現在も、池田先生とカストロ議長の会見が示した視点は意義深い。
この人間交流を粘り強く推進してきたのがSGIである。先生はカストロ議長に"SGIの運動は、どこまでも平和を基調とし、体制を超えた、「人間」を根本とした国際的運動"と強調。議長もまた「今回のSGIの皆さまのキューバ訪問は、平和に貢献する人間主義を主張するうえで、重要なことと思っています」と語った。
平和のために、国家関係はもちろん大事だ。だが、主義や経済的利害、政治体制の違いも超えて、人間を結び、民衆を結ぶところに、最も強固な平和の基盤が築かれるのではないか。歴史的な会見の意義は、時と共に一段と輝きを増していくに違いない。

☆誓いをつなぐ 第6回 兵庫・尼崎総県
◇広布の電源地「世界の関西」の要
世界にその名が轟く「常勝関西」。なかでも、自他共に認める創価の牙城。それが兵庫の尼崎総県(三代総県長、田原女性部長)である。
大阪に隣接し、商都を"下支え"する工場街として発展してきたこの町に、足繁く通い、友を励まし、「庶民の王国」の誇りを与えたのは、若き日の池田先生だった。
初めて会合で訪れたのは1957年(昭和32年)12月2日。先生が不当逮捕された大阪事件の5カ月後のこと。以来、公判等のため関西を訪れるたびに足を伸ばし、"尼崎は尼崎らしく""ここから大人材が出る"と期待を寄せ続けた。
尼崎が、支部として出発したのは60年(同35年)5月3日。池田先生の会長就任式の席上である。同志が誇りとする歴史だ。
なぜ先生はこの地に力を注いだのか。
広宣流布には急所というものがある。大阪、神戸という大都市の間に位置する尼崎に一大民衆勢力を築けば、両都市を刺激し、関西全体、ひいては日本の広布が大きく進む。尼崎には、関西全体を大きく動かす「要」となる使命がある。
ゆえに先生は、尼崎に「広布の電源地」と指針を贈った。その期待に応えて、尼崎の同志は、強固な民衆城をつくり上げてきたのである。

◇「尼崎らしく」
尼崎の強さ。それは先生と一対一で結ばれた、学会ひとすじの分厚い庶民の陣列だ。牧平和子さん(総県女性部総合長)も、その一人である。
生まれも育ちも尼崎の牧平さんは60年(同35年)4月、一家で入会。小学校5年の時だった。
66年(同41年)、高等部の夏季講習会で、初めて師との出会いを結ぶ。
池田先生は「松野殿御返事」を通し、人間として生まれて大聖人の仏法を持ち、広宣流布に歩む人生が、どれほど福運に満ちているかを教えてくれた。
求道心を忘れず、「創価学会の後継ぎ」として成長してほしい——師の万感の期待に触れた牧平さんは生涯、先生と共にと誓った。以来、広布の庭にわが身を置き、どんな戦いにも率先してきた。

牧平和子さん
牧平さんは88年(同63年)3月26日、現・尼崎文化会館で行われた兵庫広布35周年記念の幹部会に出席。"尼崎は兵庫の心臓部""「世界の関西」の要"と語る先生の指導を胸に焼き付けた。
2000年(平成12年)2月、兵庫を訪問した先生は、尼崎の代表らと懇談。牧平さんもその一人として参加した。ここでも先生は"尼崎は尼崎らしくいくんだよ"と、草創の時代から変わらぬ期待を寄せた。
師の真心に応えようと、同志の訪問・激励、対話拡大にまい進してきた牧平さん。地域での信頼も厚く、現在は自治会長も務める。
「私たち尼崎の同志は、常に先生と共に、広布の戦いに"必ず勝利する"気概にあふれています。これまでも、これからも、日本一の勇気と団結で模範の前進を続けていきます!」
尼崎の同志が広布の戦に臨むたびに確認する「原点」がある。
1962年(昭和37年)1月24日、「大阪事件」の判決の前夜、池田先生は関西の男子部幹部会に出席した。会場は尼崎市体育会館(当時)。1万2千人の青年を前に先生は、"関西の男子部の諸君に申し上げます"と切り出した。
それまで公に語ってこなかった、大阪事件のえん罪の構図を詳細に語り、烈々と師子吼した。
「善良な市民を苦しめている権力とは、断固、一生涯戦う!」
「私たち地涌の菩薩は、日蓮大聖人の弟子として、その自覚と信念に立って、不幸な人びとの味方となっていくのです。そして本当に、全民衆が、すなわち日本国中の人びとが、安心して幸福に暮らしていける世の中を築き上げようではありませんか!」
そして翌日、無罪判決を勝ち取ったのである。

「先生の正義の魂を受け継ぎ、広布に突き進むのが尼崎男子部の使命です」と語るのは、菊地康仁さん(総県男子部書記長)。
菊地康仁さん
"学会二世"ながら一時、学会活動から遠ざかっていたが、粘り強く激励に訪ねてくる男子部の先輩の姿に、"ここまで人のために動く理由を知りたい"と思うようになる。
会合に行くとそこには、心の垣根なく、生き生きと信心を語り、励まし合う世界があった。"自分もこの中で成長したい"と活動に励むようになった。
折伏に奔走し、今年3月には17人目の友を入会に導いた。3年前に好待遇で転職し、社会での実証も勝ち取る。昨年には、母の病魔を一家の一丸の祈りで克服した。
菊地さんは、尼崎青年部の心意気を代弁する。「"真剣・誠実・一生懸命"を胸に、関西、全国を牽引する拡大に挑みます!」
これからも強い!
池田先生は歌った。
「尼崎 兵庫の王者と 勇みゆけ 同志の連帯 日本一かな」
「関西の 偉大な広布の 人材は ここに集えり 尼崎かな」
池田先生はつづった。
「兵庫は『兵の庫』だ。雄々しき戦士の宝庫だ。兵庫が勝てば、関西が勝つ。関西が勝てば、全国が完勝する。尼崎は、その関西の電源地であり、学会の心臓部である」
今再び、王者の証しを! 世間をあっと言わせる威風堂々の勝ちどきを!
「勝利が使命」と誓い進む同志の合言葉は、こうである。
「尼崎は昔も強い、今も強い、これからも絶対に強い!」