「賢者はよろこび
愚者は退く」御聖訓。
試練に挑んでこそ
境涯は大きく広がる。
人間革命の勝利舞を!
法蓮抄 P1050
『法華経の自我偈を持つ人を敵とせんは三世の諸仏を敵とするになるべし』
【通解】
法華経の自我偈を持つ人を敵とする人は、三世の諸仏を敵とすることになるのである。
名字の言 生きる力を引き出す「麦踏み」 2021年6月23日
太陽の下、黄金に輝く麦が収穫期を迎えた。収穫量を左右する作業の一つが、麦が発芽した早春に行う「麦踏み」だと農家の人が教えてくれた▼昨今は機械を使うが、以前は足で踏んでいた。根張りが良くなり、霜による倒伏を防ぐ効果なども見込まれる。刺激を受けた麦は生きる力を引き出し、真っすぐ伸びていく。その姿は、苦難に負けない創価の友の雄姿とも重なる▼宮崎の壮年部員は5年前、腎がんを発症。医師が手術を見送る状態だった。肉牛の肥育に携わり四半世紀。後継者の次男夫婦と販路拡大に挑もうとする矢先だった▼壮年はかつてない唱題に励み、なえそうな心を真っすぐに奮い立たせた。家族も懸命に祈った。治療は今も続くが、がんは縮小。「病魔のおかげで信心の確信が深まりました」と地域活動に汗しながら、同じようにがんと闘う4人の友人と仏法対話を続ける▼試練は誰にでも起こり得る。だが試練に遭うことが不幸なのではない。大切なのは試練をバネに、信心の根を張り、いかなる風雪にも揺るがぬ自分をつくること。信心を貫けば「時とともに、『万事これで良かった』という所願満足の軌道に入っていく」と池田先生は教える。満々たる生命力で、今日も勇気の挑戦を!
寸鉄 2021年6月23日
沖縄「慰霊の日」。平和の世紀を築くのが立正安国の戦い。使命の道、堂々と
大田が炎となって猛追。大激戦制する鍵は執念!皆で金星掴み、押し上げ
荒川が大接戦。もう一歩総力挙げ!攻めの対話で庶民の都に常勝の歴史を
足立から東京凱歌の劇を—友が渾身の拡大。混戦突破へ力強い追い風を今
ワクチン職域接種が本格開始、これも公明の提言。口先だけの他党を圧倒!
〈社説〉 2021・6・23 きょう、沖縄「慰霊の日」
◇平和の心の継承を青年と共に
兄の名前を呼びながら、力尽きた少女。戦争の苦しみを絶とうと、愛するわが子の命を、その手にかけた母——。今までに取材した戦争体験者の証言である。
太平洋戦争末期、沖縄では国内最大の地上戦が行われた。約3カ月間、一般住民を巻き込んだ戦闘は、20万人を超える尊い命を奪った。きょう6月23日は、日本軍の組織的戦闘が終結したとされる沖縄「慰霊の日」。
全ての戦没者のご冥福を心から祈念したい。
戦争は絶対悪であることを"生の声"は聞く人の心に訴える。
だが、体験者の高齢化により、その声を直接聞く機会は減る一方だ。
戦後世代の「語り部」の育成も進むが、戦争体験を聞いても"遠い過去の歴史としか思えない"という子も多い。メディアでは、平和学習に悩む教育現場の様子も取り上げられてきた。
記録が残されていても、"平和への思い"が次世代に受け継がれなければ風化してしまう。
沖縄青年部では、この継承に取り組んできた。
1974年、池田先生は沖縄の中高生に語った。
「平和のために、"沖縄の心"を伝えるために、戦争体験の証言集を残してほしいというのが、私の願いです」
先生の提案を受け、当時の中高生のメンバーが取材した証言は、76年6月、反戦出版シリーズの1冊『血に染まるかりゆしの海』として結実した。
さらに昨年には、沖縄の未来部員が聞き取りをした新たな戦争証言集『私がつなぐ沖縄のククル(心)』が発刊された。
"私たちは戦争を体験していないけれど、教えてもらったことを、ずっと先の家族にも伝えていきたい"との未来部員の感想もつづられている。
若者自身も、次世代に平和の心を伝えゆく主体者なのだ。
戦争体験者が描き、青年部が集めた数々の「沖縄戦の絵」は、今月、県内の小・中・高等学校に貸し出され、平和学習に活用されている。
そして先日、沖縄青年部の手による「沖縄戦の絵の紙芝居」の完成が発表された。戦争体験者の話を基に作られたものだ。
制作に携わった友は語る。
「平和を願う魂の声を、何としても未来に届けたい——体験者と私たち青年の思いが詰まった紙芝居です」
きょう、沖縄青年部は不戦の誓いを胸に平和の集いを開催する。沖縄と共に、青年と共に、平和の心の継承を誓い合う日としたい。
☆ヒーローズ 逆境を勝ち越えた英雄たち 第7回 エレノア・ルーズベルト
〈エレノア・ルーズベルト〉
恐れるよりは希望をもってやる方が
賢明である。「そんなことできない」
という人間からは何も生まれない。
2度の戦争の惨害から将来の世代を救うため、人類は国際連合(国連)を設立し、平和への道を模索し始めた。
その国連で「すべての人民とすべての国とが達成すべき共通の基準」として公布されたのが「世界人権宣言」である。
第一条で「すべての人間は、生れながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である」とうたう宣言の起草に尽力した一人の女性がいる。
「アメリカの良心」とたたえられる第32代米大統領夫人、エレノア・ルーズベルトである。
宣言が採択されたのは、第2次大戦から3年を経た1948年12月10日。東西冷戦が始まっていた。あらゆる"差異の壁"を超克し、一つの宣言を作り上げることは不可能と思われた。
しかしエレノアの心には"もう同じ過ちは繰り返させない。必ず成し遂げてみせる"との誓いが赤々と燃えていた。
「歴史の光に照らしてみても、恐れるよりは希望をもつ方が、やらないよりはやる方が、より賢明なことは明らかである。それに、『そんなことできるわけがない』という人間からは何一つ生まれたためしがないということも、動かすことのできない事実なのである」
彼女は国連人権委員会の委員長として、各国の代表者と顔を突き合わせ、一つ一つの文言に平和への願いを込めていった。
草案作成の委員会議は実に85回。時には意見が衝突することもあったが、その信念はいささかも変わらなかった。
「この世界に平和を創造するためには、一人の人間との理解を深めることから始めなければなりません」
「新しい人に近づくとき、冒険心をもって接することにすれば、今までにない新しい人格、新しい経験、新しい考えの水脈を発見して、それに無限の魅力をおぼえることがきっとあるに違いない」
同じ人間であるゆえに、胸襟を開いて語れば、必ず分かり合える。互いの「相違点」ではなく「類似点」を見つめ、「眼前の一人」「新しい人」と心を結び続けたエレノアの熱誠によって、宣言は完成を見たのである。
〈エレノア・ルーズベルト〉
私たちが強く願い、その実現のために
行動するならば、変革できない
分野などないと確信しています。
エレノアの幼少期は決して幸福とはいえなかった。母から愛情を感じることができず、自身の容姿に強い劣等感を抱くように。10歳を迎える前に両親が他界。祖母に育てられた。
転機は、イギリスの学校に入学した15歳の時。一人の教師との出会いが、内気な性格を変えるきっかけになっていく。
「人間というのはだれもが、この世をよりよくするために生まれてきました」。地位や外見などは関係ない。物事を自分の目で見て考え、困っている人に手を差し伸べる——この恩師が示した「他者に尽くす生き方」が、人生の指標となった。
アメリカに帰国後、のちに政治家となるフランクリン・ルーズベルトと結婚。3人目の子どもを失う悲哀にも負けず、5人の子の母として、妻として、家庭を守りながら、女性の地位向上運動などに力を注いだ。
そんなある日、一家を苦難が襲う。夫がポリオを患い、歩けなくなったのだ。政治生命が危ぶまれる中、エレノアは懸命に夫を励まし続けた。代理として苦手な演説に立つこともあった。
"二人三脚"の支えもあり、病気の発症から7年後の1928年、フランクリンはニューヨーク州知事に選出。5年後には米大統領に就任し、大恐慌の嵐を打ち破る「ニューディール政策」に取り組んだ。彼女自身も夫に代わり、各地の人々の激励に飛び回った。
第2次大戦中の45年4月、大統領だった夫が病で急逝する。彼には「国連」の設立という大いなる夢があった。エレノアは深い悲しみを乗り越え、亡き夫の分まで平和のために生きることを決意する。その年の10月、念願の国連が発足。アメリカの国連代表に任命された。
彼女は語っている。
「女性というのは、さまざまな障害をはねのけて、一センチずつ前進するものなのです」
「一つが切り抜けられたら、次には何でも切り抜けられるはずではないか。立ち止って、恐怖と正面から対決する度に、人には力と勇気と自信がついてくる」
世界人権宣言の採択の後、エレノアは万人にこの宣言が用いられることを願い、つづった。
「普遍的な人権とは、どこからはじまるのでしょう。じつは、家の周囲など、小さな場所からなのです。あまりにも身近すぎて、世界地図などにはのっていません。ご近所の人、かよっている学校、働いている工場や農場、会社などの個人個人の世界こそ、はじまりの場なのです」
〈エレノア・ルーズベルトを語る池田先生〉
彼女は苦労を避けるのではなく
「挑戦を引き受けて立つ」ように
訴えてやまなかった。
何があっても粘り強く前へ!
ここに我ら創価の真骨頂がある。
宣言の採択から半世紀以上がたった2007年。エレノアの親戚から池田先生に、彼女の遺品が届けられた。「彼女が生きていれば、池田SGI会長とお知り合いになり、人間に内在する力や、さまざまなことについて対話したいと思ったでしょう」との言葉と共に——。
世界地図に載らない身近な場所から、庶民と共に平和への道なき道を切り開いてきた池田先生。「地球上から悲惨の二字をなくしたい」との恩師・戸田城聖先生の夢を実現するため、対話を重ねた識者の中には、エレノアと一緒に宣言の起草に携わったカナダのジョン・ハンフリー博士や、ブラジル文学アカデミーのA・アタイデ総裁も名を連ねる。
アタイデ総裁は、池田先生と編んだ対談集『21世紀の人権を語る』で、エレノアとの思い出を述懐。創価の人権闘争に強い共感を寄せ、「池田会長に引き継がれた思想——つまり、人間への差別を断じて許さないとする立場——が尊重されるとき、21世紀は輝かしい栄光の世紀となる」と断言した。
事実、池田先生は、国連を「人類の議会」として位置付け、歴代事務総長らと会見するとともに、その支援と強化を一貫して主張し、行動してきた。
SGIが国連経済社会理事会の協議資格を持つNGOとして登録された1983年からは毎年、「SGIの日」記念提言を発表。国連を中心とする平和構築のための具体的方途を発信し続けている。これらの貢献が高く評価され、「国連平和賞」などを受賞している。
エレノアの生涯を通して、先生が語り、記してきた指針にこうある。
「大統領夫人は、最晩年の著書に綴っている。『私たちが本当に強く願い、その願いに対して確信を持ち、その実現のために誠心誠意、行動するならば、人生において、願いどおりに変革できない分野など、何ひとつないと確信しています』
創価の女性の決心と通じ合う言葉である。いわんや私たちは、無上の妙法を持ち、広宣流布の大道を歩んでいる。不可能に思える困難が立ちはだかったとしても、すべてをよりよく変えていく力の源は、この信心である」(2009年6月4日、創価女子会館開館3周年記念協議会でのスピーチ)
「彼女は、『勇敢に、張り切って、夢をもって生きる』ように、さらに苦労を避けるのではなく『挑戦を引き受けて立つ』ように訴えてやまなかった。
人生の真髄は、生き生きとした『チャレンジ精神』の中にあるのだ。(中略)我らが勇気を奮った挑戦の一歩一歩は、自身の『人間革命』の完璧な栄光の足跡である。その着実な一歩一歩の中に、人類待望の『広宣流布』の未来図も描かれているのだ。何があっても前へ、粘り強く前へ!——ここに慈折広布を使命と定めた、我ら創価の真骨頂がある」(本紙13年8月1日付「随筆 我らの勝利の大道」)
新たな歴史は、常に勇気と挑戦の一歩から始まる。
それは、創価のヒロインたちの揺るがぬ確信でもある。