御聖訓「人を憑みて・
あやぶむ事無かれ」
誰かではなく自分がやる。
広宣流布の責任者として
覚悟の信心に立とう!
衆生身心御書 P1595
『設いこうをいたせどもまことならぬ事を供養すれば大悪とはなれども善とならず』
【通解】
たとえ功を積んでも、真実でない人を供養すれば、大悪とはなっても善とはならない。
名字の言 目黒は古来、富士の展望地だった 2021年6月24日
「東京富士見坂」と呼ばれる、いくつかの坂がある。「関東の富士見百景」に選ばれていて、目黒、荒川、大田、世田谷、杉並の各区に存在する▼目黒駅付近にある富士見坂からは、裾野も含めた富士山全体が望めるという。高台の多い目黒は古来、富士の展望地だったようだ。江戸後期の浮世絵師・歌川広重も「目黒新富士」と題する一枚を描き残している▼1945年7月3日も、富士は見えていたのだろうか。この日の夜、軍部政府の弾圧と戦い抜いて出獄した戸田先生は自宅近くの目黒駅に降り立った。戦火の焼け野原に一人立った恩師は、学会再建への思いを自ら作詞した「同志の歌」に託している。「旗持つ若人 何処にか 富士の高嶺を 知らざるか 競うて来たれ 速やかに」▼若き日の池田先生は、目黒駅から戸田先生の自宅に何度も通った。雨の権之助坂を師と共に歩いたこともある。自身の肺病や師の事業の破綻など試練の風雨にも負けず、広布の高嶺を目指して青春の苦闘の坂を上り続けたのである▼目指す山が高ければ高いほど、その一歩一歩は苦しい自分との戦いだ。だが頂から望む絶景は、何ものにも代え難い心の宝となる。池田先生は詠んだ。「共々に 不二を見つめて 勝ち戦」
寸鉄 2021年6月24日
どんな嵐でも勇気は歩みを止めぬ—哲人。歴史を創るは前に進み続ける人
品川の友が大車輪の奮闘源流の誇りで拡大の旋風を。執念で勝ち上がれ!
新宿の猛攻が東京凱歌の決定打に。師子奮迅の大反撃!本陣に勝ち鬨必ず
江東が果敢に追い上げ。日本一の団結で凱旋を!渾身の対話が心の扉開く
コロナ禍で子育て相談の場の減少感じる—7割。孤立防ぐ語らいを地域に
〈社説〉 2021・6・24 25日は「団地部の日」
◇友情の絆で地域に幸福の連帯
あす25日は「団地部の日」。その淵源は1978年(昭和53年)6月25日、東京と大阪それぞれの会場で行われた第1回「団地部全国大会」にある。
日本の高度経済成長期から都市部を中心に建設されてきた団地。近年、大規模改修を経て、再び子育て世代からの注目が集まる一方、住民の超高齢化や外国人居住者の増加など"時代の最先端"を歩むゆえに、日本社会が抱える諸課題に直面している。コロナ禍にあっては高齢者の社会的孤立など、問題が顕著に表れている実情がある。
そうした中で団地部の友は「地域の幸福責任者」との自覚で、一人一人と絆を結び続けている。
東京・足立区のある団地で自治会長を務める友もその一人。日々、手紙や電話で励ましを送りながら、住民の"憩いの場"となってきた季節のイベントを新しい形で開催することに注力している。
"できない"と諦めるのではなく、コロナ禍だからこそ、"何ができるか"を考える——現在も来月の七夕飾りの準備の真っ最中。昨年は「皆が健康でありますように」「また一緒に笑ってお茶をしましょう」等と、住民がつづった短冊で互いに励まし合った。
また、希望者を募って広場の花壇で季節の花を育てたり、感染対策に留意しつつ、近隣の保育園の園児と交流したりと活発な活動を続けている。
団地部による、誰も置き去りにしない社会的包摂や、レジリエンス(困難を乗り越える力)の創出は、学術的にも注目されている。
創価学会団地部の地域との関わりについて研究している九州産業大学地域共創学部の小池高史准教授は、「人々を支えるコミュニティーの構築・継続を含め、世代を超えて同じ信念でつながる団地部の方々の団結があれば、団地が直面するさまざまな課題に立ち向かっていける」と期待を寄せる。
池田先生は、「部の日」の淵源となった78年6月の東京での集いに出席し、団地部に呼び掛けた。
——われわれこそ、理想的な人間の協調の社会をつくりあげている主体者との心意気で進もう、と。
常に時代を先駆し、人と人とのつながりを最も大切にする団地部の地道な実践は、コロナ禍にあって一段と希望の光を放っている。各地で信頼と友好の花々を爛漫と咲かせる友の模範の挑戦に心からの敬意を表したい。
☆ヒーローズ 逆境を勝ち越えた英雄たち 第8回 諸葛孔明
〈諸葛孔明〉
努力の終着点が見えない時も
意志力を杖にして歩き続けるのだ。
戦は、最後に勝つ者が勝ち戦である。
諸葛亮、字は孔明。言わずと知れた「三国志」の英傑、希代の天才軍師である。
彼は断言する。「志さえあれば必ず成功する」「戦は、最後に勝つ者が勝ち戦である」と。勝機が見えぬ絶体絶命の難局を劇的に打開した戦歴は数多く、1800年の時を経た今も、その偉業が色あせることはない。
黄巾の乱に先立つこと約3年——181年、孔明は琅邪郡陽都(現在の山東省沂水)に生を受ける。時代は後漢末期。王朝は衰え、群雄が覇を競う、乱世の様相を呈し始めていた。
その人生は、青少年期から波瀾万丈だった。生活は貧しく、早くに両親と死別。頼りにした叔父も失った。しかし「苦労」こそを"師匠"とした彼は叔父を亡くした後、隆中という小さな村に居住。そこで刻苦勉励を重ね、「太平の世を開かん」との大志を育んでいく。
ある日、「臥龍(眠れる龍)」と称されるまでに万能の才を磨いた彼の噂を、一人の男が聞き付けた。後に蜀の国を興す劉備玄徳である。
207年、劉備は3度、孔明の草庵へ。軍師として迎えるために誠意の限りを尽くした。「断じて民を救いたい」との熱意に胸打たれた孔明は「天下三分の計」を説き、「三顧の礼」に応じる。この時、劉備の兵数は、わずか1万足らず。関羽、張飛などの豪傑がいたにもかかわらず、負け戦が続いていた。
曹操と孫権という巨大な勢力に対抗し、天下を治めるまでの道程は限りなく険しい。だが孔明には、悲嘆も悲観もなかった。
「努力の終着点が見えないときも、意志力を杖にして歩き続けるのだ。結果が見えてこなくても、努力し続けることが大事である。なぜなら、成功をつかむという決意を放棄しては、そもそも成功など得ることはできないのだから。苦しくても、歩き続けることだ」
彼は強靱な意志をもって、決然と立ち上がった。
劉備47歳、孔明27歳。歴史の歯車が、大きく回転を始めようとしていた。
〈諸葛孔明〉
勝負の分かれ目は、今日である。
座して待つよりも討って出るのだ。
それでこそ本陣の守りは盤石となる。
「時を逃すな!」。これが、諸葛孔明の人生哲学だった。
「好機を得たら見失うな。見失った好機は再び戻っては来ないのだから」——勝負どころを見極める彼の真骨頂は、三国志史上最大の合戦「赤壁の戦い」(208年)において、存分に発揮された。
この直前、劉備は曹操軍に追い詰められる。そこで孔明は劉備に、孫権との同盟を提案し、自らが使者となって赴いた。彼には、孫権の配下となる考えは毛頭なかった。対等の立場、否、それ以上の誇りをもって交渉をリード。「勝負の分かれ目は、今日にかかっている」と訴え、逡巡する相手の心を動かし、同盟締結を成功に導くのである。
敵をも味方に! 誠実と真剣に勝る外交なし——劉備と孫権の5万の連合軍は、80万ともいわれる曹操軍を「団結の力」で撃破。この痛快なる勝利劇が突破口となり、魏・呉・蜀の三国鼎立の時代が開かれていく。
221年には、国号を漢(蜀漢)として劉備が帝位に就き、孔明は丞相に任命される。
彼は「これに先んずるに身をもってし、これに後るるに人をもってすれば、士勇ならざるはなし」(指導者が率先して物事に当たれば、皆が勇気を奮い起こす)との信念を抱き、「水魚の思い」で結ばれた劉備の死後も、天下の安寧を実現するために奔走。虎視眈々と侵略の時をうかがう宿敵・魏に対し、"座して待つよりも、討って出るべし。それでこそ、本陣の守りは盤石となる"と、積極果敢な攻勢に転じた。
しかし、魏への第5次北伐の渦中、対峙する司馬懿仲達が持久戦を決め込む。夏が過ぎ、秋風が吹き始めても動かない。病に倒れた孔明は、ついに五丈原の陣中で没する(234年)。
蜀軍が退却するや、魏の軍勢は即座に追い打ちをかけた。すると彼の生前の指示に基づき、蜀は陣太鼓を鳴らして迎撃。司馬懿は慌てて軍を引き上げた。「死せる孔明、生ける仲達を走らす」。死してなお、孔明は戦いの指揮を執り続けたのである。
激流の時代を駆け抜けた彼の人生——それは、自身を見いだし、天下の命運を託した劉備への「報恩」のドラマであった。
〈諸葛孔明を語る池田先生〉
大切なのは「時」である。
「勢い」である。
あらゆる力を結集することだ。
広布へ戦えば健康になる。喜びがわく。
価値ある人生の向上がある。
恩師・戸田城聖先生は、孔明をこよなく愛した。池田大作先生をはじめとする愛弟子たちに小説『三国志』を読ませ、孔明の晩年の苦衷を詠じた「星落秋風五丈原」(土井晩翠作詞)を歌わせた逸話は有名である。
池田先生は、中国人民の父・周恩来総理を「20世紀の諸葛孔明」とたたえた。内憂外患が続く難局のかじ取りを迫られた総理は常々、「鞠躬尽瘁し、死して後已まん(心身を尽くして、死ぬまで戦い続ける)」との覚悟を口に。孔明が死を決意した出陣に際し、その心中をつづった「後出師の表」の一節である。
さらに池田先生は、折々に孔明の将軍学を語り伝えてきた。
「(赤壁の戦いは)孫権と劉備の同盟が、知略をもって、圧倒的な曹操の大軍を打ち破った戦いである。これにより、『天下三分の計』という諸葛孔明の展望へ、大きく時代が動いていった。『知恵』である。我らにとっては、偉大なる御仏智を引き出す『信心』『祈り』である。これこそ、最も強い力なのである」(2008年1月10日、新時代第14回本部幹部会でのスピーチ)
「劉備のもとには、希代の名軍師・諸葛孔明がいた。
戦いは、一人だけでは勝てない。衆知を集め、心を一つにして事に当たらなければ、インチキで邪悪な人間たちを打ち砕くことはできない。(中略)
学会で大事なことは、全員が『広布の責任者』との自覚に立つことだ。一人一人が、しっかりすることである。学会の根幹は『師弟』である。『信心』である。それさえ忘れなければ、恐れるものなど何もない」(06年8月16日、東京・関東・東海道合同研修会でのスピーチ)
「大切なのは、『時』である。『勢い』である。あらゆる力を結集することだ。広宣流布へ戦えば、健康になる。喜びがわく。価値ある人生の向上がある。全員が『広宣流布の諸葛孔明』となって、断じて勝利の名指揮を! つねに若々しく! 生き生きと! 生命力に満ち満ちて!」(01年4月11日、全国方面長会議でのスピーチ)
君よ、創価の諸葛孔明たれ!
人間主義の力によって民衆を守りゆく生き方——孔明が終生貫いた「王道」は、広宣流布即立正安国の戦いを勝ち開く我らが進むべき使命の大道である。