2021年6月7日月曜日

2021.06.07 わが友に贈る

◇今週のことば
10代・20代の鋭き声が
社会を変え、未来を開く。
従藍而青の宝の友を
一人ひとり大切に
立正安国の新たな潮を!
2021年6月7日

千日尼御前御返事 P1316
『法華経を供養する人は十方の仏菩薩を供養する功徳と同じきなり、十方の諸仏は妙の一字より生じ給へる故なり』

【通解】
法華経を供養する人の功徳は、十方の仏・菩薩を供養する功徳と同じである。十方の諸仏は妙の一字から生まれたからである。

名字の言 一番の功徳は「自信がついたこと」 2021年6月7日
岩手・陸前高田市で漁業を営む友から、連絡をいただいた。受話器の向こうの声が弾んでいる。「今回、大きな功徳をいただきました」▼まず、収穫したワカメが高く評価され、高価格で売れたこと。出荷前の忙しい時期は、朝は午前3時半起き。勤行・唱題後、本紙を配達。配達を終えて帰宅するや朝食を済ませ、作業場へ。作業を終え、帰宅するのは午後10時ごろ。その苦労が吹き飛んだ▼そして一番の功徳は「自信がついたこと」という。4月、ワカメ漁の最盛期と広布拡大の戦いが重なった。多くの人に支えられ、東日本大震災から10年を迎えた友は、本紙の購読推進を決意。心掛けたのは感染を防止しながら「直接会い、相手の顔を見て話をすること」。「きょうはあの人に会おう」と具体的に祈り、一日の動きを明確にした▼目標を超える購読推進を達成。「『目標を決め、祈り、行動すれば、必ずできる!』——この揺るぎない自信がつき、自分で自分に感動しました。今までは、自分で自分に『できない』という限界の壁をつくっていたんですね」▼私たちの信仰とは、目標という「山」をつくり、頂上を目指して登り、山を登り切るたびに「新しい自分」を積み重ねていく、人間革命の軌道である。

寸鉄 2021年6月7日
時代を動かす力は創価の草の根の運動に—学者。心と心結ぶ励ましを皆で
豊島が気迫の追撃。さあ反転攻勢の烽火を!負けじ魂で歴史開く金星必ず
会は永遠に団結で勝つのだ—恩師。状況は刻々と変化。連携を密に行動
高等部結成の日。本物は嵐の中で育つ。激動の今、鳳雛よ学びと鍛えの道を
食中毒が多くなる時期。手洗いや加熱調理などの基本を徹底。油断は禁物

〈社説〉 2021・6・7 きょう「高等部結成記念日」
◇後継の「正義の走者」に励ましを
今年3月、卒業を控えた高校3年生を対象とした調査で、進路選択において新型コロナウイルスの影響を受けたかという質問に対し、65・1%が「影響を受けたと思う」と回答した(「2021年 高校生の進路意識と進路選択に関する調査」株式会社マイナビ)。
高校3年生の3分の2が、コロナ対応に悩み、将来の見通しに不安や不満を抱きながら、進路選択を余儀なくされたと考えられる。
コロナ禍は高校生たちに、今までの「当たり前」を問い直し、「何のために学ぶのか」「何のための学校か」と考えさせる機会となった。その結果、学びに向かう力が増進する場合と、そうでない場合の二極化しているとの識者の指摘もある。
ある女子高等部員の夢は、スポーツを通して、世界平和に貢献すること。世界がコロナで苦しむ今、その思いは強まった。休校期間中は英語に集中して力を伸ばそうと励み、海外の大学進学も視野に入れるようになった。だが周囲との力の差を感じ、くじけそうになることも。彼女を支えたのは、家族の励ましと、池田先生が未来部の友に贈った「自分にしか歩けない道を、自分らしく、悠々と行くことです」との言葉。彼女は"自分のペースで努力し、一歩ずつ前進しよう"と奮起し、今、部活動との両立に励みながら、挑戦を続けている。
きょう6月7日は「高等部結成記念日」。1964年の同日、東京の各本部(当時)で高等部の結成式が行われた。
東京第2本部の結成式に出席した池田先生は、"これからの10年間、しっかり勉強し、学びに学んで、堅固な人生の土台をつくってほしい"と呼び掛け、鳳雛たちの未来に万感の期待を寄せた。
4年後の第1回総会で先生が示した五つの指針のうち、「未来に羽ばたく使命を自覚するとき、才能の芽は、急速に伸びることができる」との言葉は、多くの友が、特に心に刻んできた指針である。
自分の使命の道とは。何のために学ぶのか——この問いを深め、自分らしく答えをつかみ取った時、可能性は大きく開花する。
危機の時代を生きる高等部員は、レジリエンス(困難を乗り越える力)を鍛えた先駆者であり、次代の希望の光源となる「正義の走者」だ。広布の未来を託す彼らにエールを送ろう。

☆君も立て——若き日の挑戦に学ぶ 第5回「大阪の戦い〈上〉」 厚い壁を「信心の利剣」で破れ
【先生が実践した「広布の方程式」】
一、強盛な祈り
一、御書根本
一、一対一の対話

◇今度の戦いは勝った!
1956年(昭和31年)5月、大阪支部は1カ月で1万1111世帯の弘教という不滅の金字塔を打ち立てた。「一が五つ重なっているから、いつでも一番や」——意気軒高な大阪の同志はそう語り合った。
その2カ月後、今度は大阪地方区の参院選で、「"まさか"が実現」と世間を驚嘆させた勝利を飾る。池田大作先生が指揮を執ったこの「大阪の戦い」には、幾つもの「広布の方程式」が刻まれている。
55年(同30年)10月、戸田城聖先生は、池田先生に大阪派遣を命じた。恩師の生涯の願業である75万世帯の達成には、関西に広布の一大拠点を建設することが急務だった。
池田先生は「勝ち戦にせねばならぬ、運命の一戦」(『若き日の日記』、1955年10月14日)と記した。「大阪の戦い」は、広布の命運を決する一戦だった。
戦いはまず、「深い祈り」から始まった。この時、池田先生は青年部の室長であり、学会の渉外部長であり、文京支部の支部長代理でもあった。仕事では営業部長を務めていた。一瞬の油断もできない緊張が続く。
ある日、戸田先生は池田先生に語った。
「人生は悩まねばならぬ。悩んで初めて信心もわかるんだよ。それで偉大な人になるんだ」。弟子の苦悩を師は知り抜いていた。
御義口伝に「一念に億劫の辛労を尽せば本来無作の三身念念に起るなり所謂南無妙法蓮華経は精進行なり」(御書790ページ)とある。悩みに悩んでこそ、仏の生命(無作の三身)を奮い起こすことができる。池田先生は、"運命の一戦"の勝利のため祈り抜いた。その年の大みそかから翌56年の元日にかけて、吐き気にも襲われている。御書を"身で読む"毎日だった。
年が明けた1月2日、祈りを重ねる中、脳裏に「法華経とは将軍学なり」と浮かんだ。「勝利の鉄則」を見いだした瞬間だった。
4日の夕刻、旧関西本部を訪れた先生は、館内を一巡。その後、仏間へ向かい、幹部と共に勤行し、烈々と宣言した。
「今度の関西の戦いは勝った!」
「大阪の戦い」の本格的な出発は、先生の「勝利宣言」から始まった。そして翌5日の地区部長会では、こう訴えた。「全員の祈りがそろって、御本尊に向かった時、不可能を可能にする道が、豁然と開けるのは当然です」

【「若き日の日記」1955年(昭和30年)10月31日から】
美名にかくれた言語でなく、
全魂を傾け、全霊を尽くして、
初めて、
仏天の加護を願うことだ。

◇御書を拝する境涯
二点目は「御書根本」である。
池田先生は「大阪の戦い」で、朝の勤行を終えると、東京からの派遣幹部や関西のリーダーに御書講義を行った。
「その朝、その朝、その原動力ともいうべき、時々刻々の焦点を、御書を通して明確にしたのである」
この早朝の御書講義で、幾度となく拝した御文が「なにの兵法よりも法華経の兵法をもちひ給うべし」(御書1192ページ)の一節である。短期決戦で勝利を収める「最高の団結」「最高の勇気」は、浅薄な知恵を働かせた策や方法ではなく、どこまでも信心から生まれることを訴えた。
また、リーダーたちの一念がぶれている時には、「軍には大将軍を魂とす大将軍をくしぬれば歩兵臆病なり」(同1219ページ)を通して奮起を促した。
関西の同志が今も深く心に刻んでいる御聖訓が、「何なる世の乱れにも各各をば法華経・十羅刹・助け給へと湿れる木より火を出し乾ける土より水を儲けんが如く強盛に申すなり」(同1132ページ)である。
先生は、「不可能を可能にする」との確信、一念こそが仏法者の姿勢であることを強調した。御書根本の励ましは、関西の一人一人の心に勇気の炎となって、燎原の火のごとく広がった。先生は述べている。
「同じ御文であっても、拝する境涯や一念の作用によって深さが変わる。御書根本に戦おう! そう決めて、学び抜く人には、無限の力が涌現するのだ」
三点目は、「一対一の対話」である。
「手っ取り早い近道などありえない。遠回りに見えようが、地道な一対一の『対話』しかない。一回一回に魂を注いだ『個人指導』しかなかった」
半年間の「大阪の戦い」で、先生の訪問・激励は8000人に及んだ。毎日、40人以上に励ましを送ったことになる。しかも、先生は毎日、大阪にいたわけではない。どう動くのか。一人に会い、一人を励ますために智慧を尽くした。

【「若き日の日記」1955年(昭和30年)11月11日から】
未完成の自分を、
自分らしく、
真面目に反省し、猛省して、
生涯生きたいと思う。

◇「まだ、時間がある」
時に数分しか滞在できない場所もあった。しかし、わずかの時間でも、池田先生は目の前の「一人」に対し、真剣勝負で臨んだ。
「行く先々で『まだ、時間がある』『まだ、励ませる』と動くうち、日に二十五、六会場を回ったこともある。全身に汗は流れ、声は嗄れ、足は棒のようになった」
座談会場にも次々と足を運んだ。「こんばんは! お元気でっか」と、ユーモアたっぷりに、関西弁で会場に入ることも。その場で、20人前後の友人が入会を決めた座談会もあった。先生の姿を通して、関西の友は「リーダー率先」から広布の勢いが生まれることを学んだ。
先生は「一対一の励まし」において、「聞く」ことの大切さを語っている。「よく話を聞いてあげ、今の悩み深い境涯から、信心によって必ず脱出できることを、真心込めて懇切に話してあげてください」。「大阪の戦い」とは、一面から言えば、同志の苦悩に徹底して寄り添う戦いでもあったのである。
経済的な苦境に立たされ、涙ながらに悩みを語る婦人の話を、先生はじっと聞き、包み込むように言葉を掛けた。「一緒に祈りましょう。勇気を出して信行学の仏道修行をやりきるのです」
試練に直面する同志、なかなか広布の陣列に加われない友——先生は、一人として置き去りにせず、励ましを送り続けた。
その激闘は、時に池田先生の体をさいなみ、発熱することがあった。関西の友が、"お体が壊れてしまうのではないか"と心配するほどだった。
しかし、先生は同志の前に立つと、何事もなかったかのように、再び全精魂を注いで、激励に次ぐ激励を重ねた。ある時、関西の婦人が、"池田先生の力は、どこから湧いてくるのでしょうか"と質問した。
先生は答えた。"私はみんなと同じだよ。同じ御本尊を拝んでいるんだから"。そして、こう続けた。
"もし、違うところがあるとすれば、それは責任感と使命感だよ"

☆【牧口先生生誕150周年記念特集�】 人道と正義の生涯
◇池田先生のサイモン・ウィーゼンタール・センターでの講演から
池田先生が「牧口常三郎——人道と正義の生涯」と題し、アメリカのサイモン・ウィーゼンタール・センターで行った講演(1996年6月)から25周年。「牧口先生生誕150周年記念特集�」では、同講演で言及された内容に沿って、社会変革と子どもの幸福のために戦い抜いた牧口先生の生涯を振り返る。

〈講演の背景と意義〉
1993年1月、池田先生はサイモン・ウィーゼンタール・センターの「寛容の博物館」を訪問。ハイヤー会長らの案内でホロコーストの歴史に触れ、"このような悲劇を、断じて繰り返してはならない"と改めて実感する。そして翌年5月、同センター等の協力で「アンネ・フランクとホロコースト」展を日本で開催。各地を巡回し、数百万の人々の心を揺さぶった。
こうした中でハイヤー会長は、牧口先生が軍部政府に抵抗し、獄死したことを知る。"日本にも人権の英雄がいた"——この事実を広めるために連続講演会を企画し、名称を「マキグチ記念人権講演会」としたのである。
池田先生の講演は、その第1回として行われた。ハイヤー会長は語った。「(池田会長は)寛容の橋を架ける作業を、ただ語るだけでなく、実践してこられました」
講演から四半世紀。創価学会は、"ホロコースト展"の支援を続けるなど「人権文化」の構築に尽力。創価三代の師弟の信念を基に、幸福と平和のための対話と行動を力強く重ねている。

◎郷土に根差した「世界市民」の育成を提唱
牧口先生の大著『人生地理学』が出版されたのは、日露戦争が始まる前年に当たる1903年。開戦論が沸騰していた時期に、先生は同書で、人類は、軍事的競争から、政治的競争、経済的競争を経て、人道的競争へ向かうべきであると展望した。
また、人間は地域に根差した「郷民(郷土民)」であるとともに、国家の中で社会生活を営む「国民」、さらには世界との結び付きを意識して生きる「世界民(世界市民)」であり、この三つの自覚を併せ持つことで、人生の可能性を豊かに開花できると訴えた。
「国権の優位」がことさらに強調される中で、どこまでも一人の「人間」に焦点を当てた、牧口先生の深い人権意識と視点について、池田先生は講演で、「足元の『郷土』に根差して、しかも『狭隘な国家主義』に偏らず、『世界市民』の意識を育むことを提唱した」と、その卓越性に言及した。

◎皆から慕われた慈愛の教育者
牧口先生は、北海道で教員としての第一歩を踏み出した。その後、上京し、女性のための通信教育や中国の留学生の教育に携わったほか、六つの小学校の校長を歴任した。
その心は、子どもへの限りない慈愛に満ちていた。校長時代、弁当を持参できない児童のために、学校としてパンとみそ汁を提供するなど、給食を先駆的に実施した。
教育改革を進める牧口先生には常に圧迫が加えられ、追放されたことも。しかし、子どもも保護者も教職員も、こぞって牧口校長を慕い、留任を求める同盟休校までした学校もあった。
講演で池田先生は、こうした「子どもの幸福」を第一義とする牧口先生の歩みに触れ、「ほぼ同時代のホロコーストのなかで、命を賭けて、子どもを守る奮闘を続けた、ポーランドの偉大なユダヤ人教育者コルチャック先生の人間愛とも相通ずる」と述べた。

◎仏法との出あい 「創価教育学体系」の出版 教育を通した社会変革を志向
牧口先生は1928年に仏法の研さんを始める。その感動を、「言語に絶する歓喜を以て殆ど60年の生活法を一新するに至った」と述懐している。
講演で池田先生は、全ての人間生命に内在する尊極の智慧を開発しようとする仏法は、それ自体が、社会に開かれた民衆教育の哲理であるとし、教育を通した社会変革を強く志向してきた牧口先生は、仏法との出あいによって、理想の実現への確かな手応えを実感していったと考察した。
2年後の1930年、牧口先生は自身の教育学説の出版について、弟子・戸田城聖先生に相談する。戸田先生が「先生の教育学は、何が目的ですか」と問うと、牧口先生は「価値を創造することだ」。「では先生、創価教育、と決めましょう」と戸田先生は提案した。
そして、牧口先生の膨大な原稿を戸田先生が整理・編集。同年11月18日、『創価教育学体系』第1巻が発刊される。この日が後年、創価学会の創立記念日となるのである。
池田先生は講演で、牧口先生が、アメリカの哲学者・教育学者であるデューイ博士らの実用主義の見地を踏まえつつ、「価値」の中心は「生命」であると洞察したことに言及。「『生命』の尊厳を守る『平和』という『大善』に向かって、挑戦を続け、いかなる困難にあっても、価値の創造をやめない——そうした『人格』の育成にこそ、『創価教育』の眼目があります」と紹介した。

◎戦時下でも240回の座談会に出席 500日の獄中闘争
信教の自由なき戦時下で、折伏・弘教を進めた牧口先生は、思想犯として特高警察の監視にさらされる。しかし、先生は間断なく立正安国の戦いを重ねる。起訴状には、1941年5月からの2年間で、実に240回を超える座談会に出席したことが記されている。
権力に迎合した宗門からの神札受諾の勧告も厳然と拒絶した。
1943年7月6日、牧口先生は折伏に訪れていた現在の静岡県下田市内で治安維持法違反ならびに不敬罪の容疑で検挙。約500日の獄中闘争では、取り調べの検事や看守にさえも諄々と仏法の法理などを説き聞かせた。
サイモン・ウィーゼンタール・センターの講演会場に、池田先生の力強い宣言が響いた。
「牧口は、権力と真っ正面から戦い、微動だにしませんでした。その勇気と英知の提唱は、時代を超えて、人々の良心を揺さぶり、覚醒していくことでありましょう」
「本日の貴センターにおける講演を、私は、牧口常三郎初代会長、ならびに『人道』と『正義』のために殉じた、すべての方々に、そして、深き『決意』をもって未来に生きゆく若き人々に捧げます」