2021年6月5日土曜日

2021.06.05 わが友に贈る

仏縁を大きく
結び広げる時だ!
足取り軽やかに
あの友 この友のもとへ。
幸福の哲学を語ろう!

撰時抄 P273
『大海は広けれども死骸をとどめず大地は厚けれども不孝の者をば載せず、仏法には五逆をたすけ不孝をばすくう但し誹謗一闡提の者持戒にして第一なるをばゆるされず』

【通解】
大海は広いけれども死骸はとどめない。大地は厚いけれども、不孝の者はのせない。
仏法では五逆の罪を犯した者でも、不孝の者でも救うことができる。ただし正法を誹謗する一闡提の者と、表面だけ持戒第一の姿をした徒は許さないのである。

名字の言 情熱を傾け続けるという「才能」 2021年6月5日
埼玉の壮年部員宅を訪問すると、大切にしまってあったファイルを見せてくれた。それは40代の時から30年近く付け続けてきた唱題表。「どんな時も、お題目を唱えて乗り越えてきました」と力強く、幸せそうに語る姿に、「継続は力なり」との言葉を実感した▼プロ棋士の羽生善治氏は「以前、私は、才能は一瞬のきらめきだと思っていた。しかし今は、十年とか二十年、三十年を同じ姿勢で、同じ情熱を傾けられることが才能だと思っている」とつづる(『決断力』角川新書)。将棋界の第一人者の言葉だけに、大きな説得力がある▼創価の世界には、誰が見ていようといまいと、何十年も変わらぬ情熱を傾け、友のために祈り、行動し、励まし続ける多くの同志がいる。その"才能"にあふれた人々の陣列があって、日蓮仏法は世界に広がった▼先の壮年は、学会創立100周年までの唱題目標も教えてくれた。これまでの歩みに満足するのではなく、「さあ、いよいよ!」との清新な気概に触れ、こちらも力強い追い風をもらった▼「何をしてきたか」が現在の自分をつくっている。そして「何をしていくか」という今の決意が、未来の自分をつくる。自身の勝利の姿を思い描きながら、今日も挑戦の一歩を!

寸鉄 2021年6月5日
「法華経の信心を・とをし給へ」御書。中途半端では勝てぬ。強盛に祈り、進め
調布・狛江が大奮戦。一気呵成に攻め逆転勝利を!勇気凜々と新たな拡大へ
福井の日。動けば希望が広がる。劇が始まる。さあ友の心に励ましの旭光を
国連「世界環境デー」。節水・節電等、身近な行動から。世界市民の自覚で
水害対策の鍵�日頃から避難経路確認�早め早めの行動—と。ぬかりなく

〈社説〉 2021・6・5 あす牧口先生の生誕150周年
◇「人道的競争」の時代を!
あす6月6日、初代会長・牧口常三郎先生の生誕から150周年の佳節を迎える。
現在の新潟県柏崎市の荒浜に生まれ、幼くして両親と別れた牧口先生は、苦学の末、北海道で教師としての第一歩を踏み出し、東京で小学校の校長を歴任する。
そのまなざしは常に、"学びの当事者"に向けられていた。
貧困等で児童に教育格差が生じないように努め、学びたくとも学べない女性のための通信教育に携わった。
富国強兵の時代にあって、教育の目的は「子どもの幸福」にあるとの信念を貫いた。
何度も大きな戦争が繰り返された激動の時代。列強諸国は他国の犠牲の上に自国の繁栄を追求し、軍国主義へと突き進む日本もまた、覇道を歩もうとしていた。
牧口先生は32歳で著した『人生地理学』の中で、人類の発展を四つの段階に分けた。
武力による「軍事的競争」から「政治的競争」へ、さらには「経済的競争」を経て、やがては「人道的競争」の時代になると予見。各国が「他のためにし、他を益しつつ自己も益する」道を訴えた。
100年以上たった今、国連がSDGs(持続可能な開発目標)を推進し、誰も置き去りにしない社会の創出へ、各国の取り組みが開始されるなど、「人道的競争」の思想はますます光を放っている。
教育改革に力を注いだ牧口先生は、大著『創価教育学体系』を世に問い、創価教育学会を創立した。
この書では、自分さえよければいいという利己的な生活から「貢献的生活」への転換を促し、自分と社会全体の幸福のために価値を創造する力を養うことを目指した。
生活者として生きつつ人類益、世界益の視点を持った"世界民"を育もうとしたのである。
軍事政権下、日本の軍国主義に抗した牧口先生は、投獄されてもなお、信念を貫き、峻厳なる殉教を遂げた。
その不屈の魂のバトンは弟子・戸田先生に受け継がれ、池田先生は先師の偉大さを世界に宣揚した。
「自他共の幸福」を築きゆく"世界市民"の連帯は、今や千波万波と192カ国・地域に広がっている。
世界の安穏を深く願い、身近な人々に徹底して寄り添う行動に、創価の父の魂は脈打つ。
その地道な一歩一歩が、人道的競争をリードし、危機の時代の闇を切り裂く、希望の光となるに違いない。

☆ストーリーズ 師弟が紡ぐ広布史 第8回 「一瞬」に「永遠」を込めて 空港編
イギリス・ロンドンは、"霧の街"と呼ばれる。
その日、街は霧に覆われた。60年前の1961年10月15日、池田大作先生は、ロンドンからスペイン・マドリードへ向かう予定だった。ところが、霧の影響で飛行機の出発が大幅に遅れることに。
この待ち時間に、先生は発心の種子を蒔いた。見送りに来ていたシズエ・グラハムさんに、「心の師とはなるとも心を師とせざれ」(御書1025ページ)の一節を通して語った。
「自分の弱い心に負け、弱い心を師として従ってはならない」
「御書こそが、心の師となる。ゆえに、教学が大切になります」
さらに、「この時間を使って、教学の試験をしよう」と。シズエさんは頭が真っ白になった。四条金吾について問われ、無我夢中で答えた。
"教学試験"を終えると、先生は絵はがきを取り出し、日本の友に便りを書き始めた。空港の待合室は、御書研さんの道場となり、執務室となった。

愛媛出身のシズエさんは幼少のころ、家族で広島・呉市へ。十二指腸潰瘍で入院した弟の回復を願い、母が入会。シズエさんも続いた。
呉は軍港の町だった。そこに、国連軍の一員として駐留していたのが、ケン・グラハムさん。二人は結婚後の61年、夫の祖国であるイギリスに移った。
シズエさんは英語での日常会話がままならず、人間関係を築くのに苦労した。夫は軍務で多忙な日々。メンバーは点在しており、交流できずにいた。心細さを募らせていた中で、先生のイギリス訪問の連絡があった。
同年10月13日、先生はイギリスに第一歩を刻んだ。ヒースロー空港で出迎えたグラハムさん夫婦を、宿泊先のホテルに招き、シズエさんに語った。
「たくさん友人をつくって、ともに幸せになるために、仏法を教えていくことです」
友人をつくる——それは、シズエさんのモットーとなった。

1999年10月13日、「イギリスSGIの日」を記念する勤行会が、同国の各地で開催された。この時、ケンさんは空港で先生を出迎えた時と同じスーツを着て、タプロー・コートでの集いに臨んだ。
61年に帰国後、ケンさんはオックスフォード大学、ケンブリッジ大学で学び、同国の外務省に入省。外交官として、マレーシアやオーストラリアなど、世界各地に赴任した。
ケンさんは未入会だったが、先生との出会いをいつまでも大切にし、妻の学会活動を応援した。シズエさんは、師から教わった御書の一節を胸に、どの国でも友情の花を咲かせた。

◇苦難の"冬"を勝利の"春"に
1963年1月27日。アメリカ、欧州、中東、アジアの海外歴訪の旅を終えた池田先生は、香港からの直行便で東京へ戻る予定だった。
ところが、飛行機にエンジントラブルが発生。変更した便は給油のため、台湾の松山空港に立ち寄った。
たまたま訪れた空港に、台湾の同志が駆け付けていた。その日に師が帰国することを聞いていた朱萬里さんが、"もしかしたら、台湾に寄られるかもしれない"と、空港に集まることを呼び掛けていたからである。
先生は朱さんに語った。「不思議だな。唱題に引かれて来てしまったんだね」
朱さんは、台湾では戒厳令が敷かれ、組織的な活動をすることが難しくなっていることを報告した。先生は語った。
「何があっても、どんなに辛くとも、台湾の人びとの幸福のために、絶対に仏法の火を消してはならない。本当の勝負は、30年、40年先です。最後は必ず勝ちます」
「冬は必ず春となります」

台湾広布の"冬"は、厳しさを増した。松山空港での励ましから3カ月後、政府から台湾の組織に解散命令が出された。
当局は学会員に監視の目を光らせ、取り締まりを強化した。信心をしているだけで、会社を解雇されたメンバーもいた。
台湾の友は"春"を待ち、試練を耐えた。その中で生まれた智慧が、65年10月のハーモニカ隊の結成。文化活動を通して、仏法の精神を伝えていった。
翌年、先生は、朱さんに2本のハーモニカと手紙を届けた。
「(『行解既に勤めぬれば三障四魔紛然として競い起る乃至随う可らず畏る可らず』<御書1087ページ>との)御金言を身を以て実践した信心は、学会員の亀鏡であり、熱原の三烈士を偲ばせます」
「『月は西より出でて東を照し日は東より出でて西を照す仏法も又以て是くの如し正像には西より東に向い末法には東より西に往く』<同508ページ>の御金言は、大聖人の仏法が必ず広宣流布するということであり、日本に最も近く、而も縁の深い台湾の同志の使命は重大であることを痛感いたします」
師の言葉に、一人一人が奮い立った。「良き市民」として地域に信頼を大きく広げ、社会に貢献していった。
解散命令が出されてから24年が経過した87年、政府による戒厳令が解除された。そして、90年、台湾SGIはついに、法人として正式に認可された。
今、台湾SGIには各界から高い評価が寄せられている。台湾の全市・全県が、池田先生に名誉市民・県民の称号を授与。同SGIは、行政院の内政部から「社会団体公益貢献賞 金賞」を21回連続で、「宗教公益賞」を18回連続で受賞している。
烈風に揺るがない「団結」。
時代を変えるとの「執念」。
社会に信頼を広げる「智慧」。
台湾の友は、いかなる時も、空港での師の励ましを忘れず、苦難の"冬"を、勝利の"春"に変えた。

メキシコ東部のベラクルス国際空港に、池田先生を乗せた飛行機が着陸した。1996年6月29日のことである。
ロビーには、民族衣装をまとった友や、赤・黄・青の小旗を振る子どもたちなど、メキシコの同志200人が集っていた。
先生の姿が見えると、一人の少女が駆け寄り、花束を手渡した。9歳のマユミ・エルナンデスさんだ。
先生の到着前、マユミさんは歓迎の思いを伝えようと、「ヨウコソ」という言葉を繰り返し練習していた。ところが、言葉を間違えたのか、一瞬の間が空いた。戸惑うマユミさんに、先生は腰を深く曲げて、ほほ笑みかけた。
「うんうん、『ようこそ』だね。ありがとう! 賢いね!」
先生は花束を受け取り、記念撮影を終えると、マユミさんに「大きくなったら、日本にいらっしゃい」と声を掛けた。
大学院を修了後、マユミさんは大手石油会社で働き始めた。2011年9月、SGI研修会で来日。先生は「報告を聞いたよ。本当に来たんだね。うれしい」と、空港で交わした約束を果たしたマユミさんを最大にたたえた。

ベラクルスを訪問した日、先生は「尊きベラクルスの地涌の友へ贈る」と題する詩を捧げた。

ベラクルスの同志の
この気高き顔
この美しき瞳は
未来永劫 わが胸から
離れることは 決してあり得ない

心と心の妙なる無線に結ばれし
あなたと私よ!

さあ
共に 飛び立とう!
無窮の希望の青空へ
共に 舞い征こう!
永遠の勝利の新世紀へと

空港を出発した後、先生はさらに即興の詩を詠んだ。
師の真心を、ベラクルスの友は深く心に刻み、メキシコ広布に走った。98年には同市でSGI平和行動展、その後も「自然との対話」写真展などが開催された。ベラクルス市に広がるSGIへの理解と共感は、やがて数々の顕彰につながった。
2002年、同市は池田先生に名誉市民称号に相当する「特別賓客」を贈り、10年には市議会が感謝状を授与。06年には、学会創立記念日の11月18日が、市の「創価学会の日」に制定されている。

限られた長さの滑走路を、飛行機は全速力で駆け抜け、大空へ飛び立つ。
今この瞬間、自分ができることに全力を注いでこそ、広布の飛翔がある——師の空港での励ましは、いつの時代も変わらない方程式を示している。