2021年4月30日金曜日

2021.04.30 わが友に贈る

医療・販売・物流はじめ
命と生活を守り続ける
尊き聖業に心から深謝!
携わる全ての方々の
健康・無事故を祈ります。

最蓮房御返事 P1343
『我等が居住して一乗を修行せんの処は何れの処にても候へ常寂光の都為るべし、我等が弟子檀那とならん人は一歩を行かずして天竺の霊山を見本有の寂光土へ昼夜に往復し給ふ』

【通解】
私たちが住んで、法華経を修行する所は、どんな所であれ、常寂光の都となるであろう。私たちの弟子檀那となる人は、一歩も歩むことなくして、天竺の霊鷲山を見、本有の寂光土へ昼夜に往復されるのである。

名字の言 「青」は精神を象徴する色 2021年4月30日
茨城の友から、青い花園の写真が届いた。直径3センチほどの花を咲かせた「ネモフィラ」が群生している▼国営ひたち海浜公園の丘一面に敷き詰められた約530万本が見頃を迎えたという。花言葉は「どこでも成功」。日当たりと水はけがよい場所なら、どこでも根付くことに由来するらしい。写真を見て納得した。何より空・海・花の青が見事に溶け合って美しい。世界の果てまで「青」が続いていくような気持ちになった▼ドイツの詩人ノヴァーリスが書いた『青い花』という未完小説がある。「大いなるもの」「無限なるもの」への憧れとして描かれた青い花を、主人公の青年が探し求め、成長していく物語だ。青は精神を象徴する色といわれる。心の広さや深さを、大空や大海に例えることも無関係ではあるまい▼池田先生は「青」という色に込められた精神を論じつつ、こうつづった。「精神の力とは、理想に向かって『断じて、あきらめない』力だ」「その限りないエネルギーは、万人の胸の奥に、ひろびろと広がっている」▼ネモフィラには、ほかに「清々しい心」との花言葉もある。どんな状況にあっても朗らかに、"理想"という花をわが胸に咲かせ続ける人こそ、永遠の「青春」を生きる人である。

寸鉄 2021年4月30日
「仏をば能忍と」御書。今こそ、試練に打ち勝つ不屈の底力と智慧を発揮
広布の先駆けをしようではないか—恩師。青年よ自身の"心の壁"破り進め
図書館記念日。活字文化は豊かな精神を育む光源「GW」は親子で繙く好機
豪雨招く「線状降水帯」の情報を気象庁が発表へ。災害の備え、常に意識し
食品ロスが推計開始以来最少と。無駄減らす工夫更に。「食は命」の哲理で

〈社説〉2021・4・30 5月3日、創価女子会館の開館15周年
◇女性の活躍は「心大歓喜」の源泉
「心大歓喜」とは法華経に繰り返し登場する言葉で、心の底からの大歓喜、との意である。
印象深いのは提婆達多品第12の一場面——ここでは若き竜女が師・釈尊に民衆救済を誓う。そして「我が成仏を観よ」と高らかに宣言し、舎利弗をはじめ疑念を抱く二乗の弟子らの前で、即身成仏の実証を現した。その姿に娑婆世界の衆生は「心大歓喜」し、無量の衆生もまた、彼女が説く法の恩恵に浴したことが示されている。
翻って今、創価の華・女子部が活躍する姿こそ、広宣流布の世界の「心大歓喜」の源泉にほかならない。かつて池田先生は、学会本部に長年置かれていたこの四字を記した「書」を、同部の発展を願って、創価女子会館(東京・信濃町)が誕生した記念に贈った。
同会館の開館は2006年5月3日。"創価の元日"ともいうべき日に、華陽姉妹の歓喜の笑顔と拍手に包まれてオープンした。
以来、15星霜。池田華陽会の結成や「池田華陽会御書30編」の決定、ロマン総会の開催——女子部は新たな誉れの伝統を築き、「女子は門をひらく」(御書1566ページ)の御文のままに、桜梅桃李の人華のスクラムを十重二十重に広げてきた。
09年6月4日には、池田先生ご夫妻が同会館を初訪問。その後も、幾度も足を運び、師弟の"誓春の道"を歩む全国・全世界の同志に励ましを送り続けた。
そして本年、先生ご夫妻のもとで、女子部・婦人部の結成70年の偉大なる歴史を昇華して、「女性部」が新生のスタートを切る。女性の社会進出、ライフスタイルや価値観の多様化という時代の変化を踏まえつつ、"婦女一体"の流れを一層強くし、より幅広い人材を糾合し、永遠に広布の「未来の門」を開くためである。
この報を受け、各地の華陽の友からも、喜びと決意の声が続々と寄せられている。「学会の永遠性を確立しゆく重大な歴史の転換点に居合わせた、使命の大きさを感じずにはいられません」「新しき時代を担う使命と誇りに燃えて、弾む生命で対話拡大に挑みます」
先の竜女一人の成仏は「挙一例諸」(一を挙げて諸に例す)——すなわち一切の女性、ひいては全人類を永遠の幸福境涯へと導く道を示している。「一人の女性」の勝利の姿が、周囲に希望を送り、社会をも変革する光となる。古今に変わらぬ方程式である。

☆ストーリーズ 師弟が紡ぐ広布史 第7回 神奈川にそびえる正義の大城 陽は昇る編
◇広布の「誓火」神奈川に燃える
聖教新聞が創刊されたのは、1951年(昭和26年)4月20日。創刊号の2面に「聖火鶴見に炎上」との見出しが躍り、弘教に先駆する鶴見支部の活躍が紹介された。
同年5月3日、戸田城聖先生が第2代会長に就任。鶴見支部の友は、この佳節を広布拡大で荘厳しようと奔走した。
当時、池田大作先生は何度も鶴見方面に足を運び、友と対話に駆けた。鶴見支部の婦人部員は、こう回想している。
「昭和二十五、六年の鶴見支部は、"新来者を池田青年に会わせる"という戦いによって、鎌倉、逗子、藤沢、横須賀にと、どんどん新入会者が増えていったのです」
鶴見に燃えた「聖火」の陰には、池田先生の激闘があった。

鶴見支部の歴史をはじめ、神奈川には、池田先生との共戦譜が幾つも刻まれている。なかでも、永遠の輝きを放つのが、第3代会長辞任後の"戦い"。それは、3点に集約できる。

1点目は、真実の同志との絆を強く、深く結び直すこと。
宗門僧らが池田先生に、"会合で指導してはならない""聖教新聞に出てはいけない"と制約をつけた79年(同54年)、先生は草創の友の訪問・激励に力を注いだ。一人への励ましから、師弟直結の新たな学会の建設を開始したのである。
同年4月20日、先生は横浜市旭区の会員宅へ。6月2日に鶴見区、9日に港北区の同志宅を訪れた。
22日には南区に足を運んだ。75歳の家主の壮年に、「20年も30年も、生きて、生きて、生き抜いてください。祈ってますから」と励まし、「私が名誉会長になろうと、師弟の絆は永遠に変わりません」と力を込めた。
7月2日、金沢区の友の家を訪問。友は草創期の文京支部・保土ケ谷地区で折伏に励んだ。
入会に導いた一人に、吃音に苦しむ青年がいた。ある時、"自分に自信を持ってほしい"と会合の司会役を頼んだ。青年は思い切って挑戦したが、言葉がつかえてしまう。会場から笑い声が聞こえると、友は叫んだ。
「なんで笑うんだ。彼が必死に宿命転換に挑んでいるのに、あまりにもひどいじゃないか」
青年は、友を「おやじ」と呼び、心から慕った。吃音を乗り越え、学会のリーダーに成長した。この青年をはじめ、友のもとからは多くの人材が育った。
友が妻と実らせた弘教は約250世帯。91歳の生涯を閉じるまで、師弟一筋に生きた。
9月29日、先生は南区の功労者宅へ。「昔、戦ったからいいのではない。今、戦わなければだめなんだよ」——広布拡大に挑み続ける心こそ、日蓮仏法の魂であると訴えた。

2点目は、自らの手で後継の青年を育成すること。
1980年(昭和55年)1月14日、四国4県の友が客船「さんふらわあ7」号で、神奈川文化会館に駆け付けた。池田先生は、遠来の友を励まし、船が見えなくなるまで見送った。
その後のこと。先生は「あすは『成人の日』だから青年に会いたいね」と。
翌15日、新成人の代表11人が神奈川文化会館に集った。先生は一人一人の状況を聞くと、その場で「大桜」「百福」などと認めた。懇談の後、皆で山下公園を散策し、記念のカメラに納まった。夕刻には、質問会を兼ねて食事も共にした。
女子メンバーから「使命とは何なのでしょうか」と質問が出た。先生は答えた。
「題目を唱え、御書を拝し、何があっても強く生きていきなさい。青春とは悩むもの。その中で、太陽を見いだそうと挑戦していけば、必ず使命の道が見えてきます」
「男の力とは」との男子メンバーの問いには、こう語った。
「どの分野でもいい。あの人にはかなわないという存在になりなさい」
先生は「お互い競い合うように、会うたびに成長していこう」と呼び掛けた。この師の励ましの心は、女子部の人材育成グループ「神奈川成人会」に受け継がれている。今年3月に41期生が結成され、希望の前進を開始した。
宗門の師弟分断の謀略が渦巻く中、先生は次代を担う青年たちを手塩にかけて育んだ。ある時には、「同じ人生ならば、私と一緒に、世界広布の大ロマンに生きようじゃないか」とも語っている。
神奈川は師が手作りで築き上げた「正義の青年城」である。

3点目は、近隣を大切にすること。
神奈川文化会館の誕生後、先生は「地域にしっかりと根を張っていこう」と、自ら近隣の店や中華街へ足を運び、あいさつに回った。
80年1月、先生は会館から徒歩10分ほどのフランス料理店「かをり」に向かった。
板倉敬子さん(現社長)の案内でエレベーターへ。緊張していた板倉さんに、先生は「若いおかみさんですね」と気さくに声を掛けた。たった一言だったが、板倉さんは、包み込むような温かさに魅了された。
先生の飾らない振る舞いに、どの従業員も先生の"ファン"になった。店を後にする先生に、コックは窓から顔を出し手を振った。先生は何度も振り返り、大きく手を振り返した。
この出会い以来、板倉さんは先生の書籍を読み始める。2000年(平成12年)、先生の写真集に感銘を受け、板倉さんは洋菓子のレーズンサンドを添えて手紙を届けた。後日、先生は感謝の言葉とともに、句を贈った。
「何という 天味 かをりの 女王かな」
誠実には、それ以上の誠実で応える。先生が紡いだ真心の糸は、色鮮やかな友情の織物を作り上げた。

1979年(昭和54年)5月27日、香峯子夫人が先生の名代として、神奈川区内の片倉第1大ブロック(当時)の婦人部総会に出席した。
会場に到着すると、夫人は「池田でございます。きょうは、よろしくお願いいたします」と丁重にあいさつした。
総会には、約50人の友が集っていた。質問会が行われると、次々と手が挙がった。
「先生は、お元気ですか? 新聞に先生のことを載せてください」と懇願する声に、夫人は笑みを浮かべ、「はい、元気ですよ。伝えておきます」と。
父親が脳梗塞で倒れた婦人がいた。香峯子夫人は、そのことを聞くと、「ご心配でしょうけど、どうか負けないで頑張ってください」と励ましを。
香峯子夫人の慈愛に、婦人は"必ず幸せになろう"と誓う。その後、父は社会復帰するまでに回復。総会から4年後には、未入会の夫が信心を始め、一家和楽をかなえた。
自宅に御本尊を安置できなかった友もいた。信心反対の夫に、「御本尊をいただきたい」との一言を発する勇気が出ないままでいた。
だが、この総会が転機となった。ほほ笑みを絶やさない香峯子夫人の姿に、目の前がパッと開けたように感じた。
夫と笑顔で接した。御本尊を迎えることができたのは、2年後のこと。夫婦そろって初めて題目を三唱した日、友の目は歓喜と感謝の涙であふれた。
総会では参加者全員に、「先生からのお土産」として、袱紗とメモ帳が贈られた。メモ帳には、「我並びに我が弟子」(御書234ページ)から「約束せし事を・まことの時はわするるなるべし」(同)までの、開目抄の有名な一節が記されていた。
香峯子夫人の励ましは、この日だけではなかった。後日、総会の中心者に手紙を届けたのである。
「人は様々であり、悩まれる時もあると思います。でも、そのような時こそ、自身の力のつく時と心に決めて、益々、広布の人材に成長なされますことを祈っております」
5月27日は今、「神奈川婦人部の日」として、友が師弟共戦を誓う原点となっている。

2017年(平成29年)9月21日、先生は神奈川文化会館を訪れた。
館内には、神奈川の歌「ああ陽は昇る」の歌詞が掲げてあった。それを見ながら、先生は香峯子夫人と歌を口ずさんだ。

♪この世悔いなく 暁鐘を
 広布の友は 雲と涌く
 このリズムをば 誰人も
 讃え仰がん 限りなく
 ああ陽は昇る
  我等の同志にも

歌が誕生した1978年(昭和53年)8月、先生は歌詞に込めた思いを語った。
「『ああ陽は昇る』——ここに私は、万感の思いを込めました。神奈川の皆さんは、常に、何があろうが、わが胸に生命の太陽を輝かせ続けていただきたい」
「日蓮仏法は太陽の法門です。ゆえに、私たちも太陽の存在であらねばならない」
本紙創刊号の「聖火鶴見に炎上」との報道から70星霜。
きょうも新生の太陽が昇る。神奈川の友の心に、広布の「誓火」が赤く、熱く燃えている。