2021年4月2日金曜日

2021.04.02 わが友に贈る

「この世から
悲惨の二字をなくしたい」
これが創価の大願だ。
社会と人類の安穏のため
幸福の哲学を語ろう!

諸宗問答抄 P382
『我等一切衆生螻蟻もんもう等に至るまでみな無始無終の色心なり、衆生に於て有始有終と思ふは外道の僻見なり汝外道に同ず如何と云う可きなり』

【通解】
われら生きとし生ける一切のものは、ケラ、アリ、力、アブなどにいたるまで、皆、無始無終の生命である。衆生の場合は、有始有終であると思うのは外道の僻見である。汝は外道に同じなのか、というべきである。

名字の言 「学生第一」の改革を続ける創価大学の挑戦 2021年4月2日
今日の大学が置かれた状況は、大学史の視点では、16世紀から18世紀に似ているという。その時代、新しい印刷技術が普及し、多くの人が知識を得ることが可能となった。一方で、大学は宗教対立に利用されるなど、"知識生産の拠点"という役割を果たせなくなっていた▼現代は、インターネットの利用で知識や情報を得ることが容易となった。さらに、少子高齢化やコロナ禍など、社会の急激な変化を前に、大学は何を提供できるのか。生き残りを懸けた熾烈な競争に直面している▼創価大学は2010年に「グランドデザイン」を発表。創立50周年の本年を目指し、キャンパスのグローバル化や教育環境の整備を進めてきた。そして昨年、新たな「グランドデザイン」を策定し、『創価教育学体系』発刊100周年となる2030年へのビジョンを示した▼大学に求められるのは、知識の伝授だけではなく、他者との協調性や社会に価値を生み出す創造性など、総合的な「人間力」の養成であろう。「学生第一」の改革を続ける創価大学の挑戦は、新しい時代の要請に応えるものとなるはずだ▼新入生が桜花舞う創価大学の門をくぐる。「人間教育の最高学府」から、人類の明日を開く知性の英雄が、陸続と躍り出ることを祈る。(踊)

寸鉄 2021年4月2日
桜花の「4・2」。不二の師弟の大闘争で世界広布は実現。池田門下よ続け
創価大学が50周年。比類なき学友の絆光る。青春の誓い忘れず使命の舞を
第2総東京の日。今こそ励まし対話を拡大。友の心に希望の春風を送れ!
ただ人間のみが不可能をなしうる—詩人。目標は高く!若人よ挑戦王たれ
「国際子どもの本の日」。目の前の一冊を開こう。知的関心は無限に広がる

〈社説〉 2021・4・2 きょう創価大学創立50周年
◇大学の真価は卒業生で決まる
「英知を磨くは何のため 君よそれを忘るるな」
「労苦と使命の中にのみ 人生の価値は生まれる」
これは、創価大学のシンボルである一対のブロンズ像の台座に記された言葉。創立者・池田先生が開学に当たって、創大生へ贈ったものだ。像は50年前のきょう、開学の日に除幕された。以来、半世紀にわたり、学生たちを見守り続ける。
何のために学ぶのか。どう生きていくのか。世間では、昔も今も立身出世が大学に行く目的という人は少なくない。また、苦労を避けて楽をすることが、賢い生き方であるかのような風潮もある。
池田先生は「大学で学ぶのは、大学に行けなかった人たちに奉仕し、貢献するため」であり、「苦労に苦労を重ね、自らの使命を果たしゆくなかでこそ、自分自身が磨かれ、真実の人生の価値が生まれる」と創大生に明確に示した。
民衆と共に雄飛せよ! 人々の幸福のために尽くせ!——ブロンズ像の「天使と印刷工」「天使と鍛冶屋」の厳とした姿は、学生たちにそう訴えているようだ。
ブロンズ像の言葉は、多くの卒業生にとっても、創大時代の原点を思い出させてくれる"人生の指針"になっている。
創大40期のある卒業生は現役時代、GCP(グローバル・シティズンシップ・プログラム)の1期生として"世界基準"の語学と教養を身に付けた。卒業後、米ジョンズ・ホプキンス大学の博士課程に進み、免疫学を専攻した。渡米後は苦労の連続だったと振り返る。
研究に励むも、思うように成果が出ない。出口のないトンネルをさまようような日々が3年間続いた。心が折れそうになるたび、ブロンズ像の言葉や創大時代の原点を思い出しては自身を鼓舞した。試行錯誤の4年目、粘り強く研究に取り組む中で、これまで"失敗"だと思っていた研究結果が一つの傾向性を示していることに気付き、研究が軌道に乗った。「積み重ねた苦労の末に、成果を出すことができました。あの二つの言葉は、卒業してから、さらに自身の中で重みを増しています」。5年で博士号を取得した彼は現在、ハーバード大学の研究所で博士研究員として使命の道を歩む。
池田先生はかつて訴えた。
「大学の真価は卒業生で決まる。卒業生が、現実の社会のまっただ中で、いかなる人間としての行動をとっているか。これこそが、その大学の優劣の指標となっていくものです」
この春、創大の同窓の陣列は10万人を超えた。創立から半世紀。百花繚乱のキャンパスのように、世界中で創大生の「使命の花」が咲き誇る時を迎えている。

☆君も立て——若き日の挑戦に学ぶ 第3回「第1部隊長」 私は誰よりも青年部を愛する
【池田第1部隊長の実践】
一、同志を慈しみ、励ます
一、目標達成まで祈り切る
一、自分自身が成長し続ける
一、勇気をもって戦い抜く
(「随筆 幸福の大道」<尊き全同志に感謝>から)

◇まず自分が動くのだ!
池田先生が第1部隊長の任を受けたのは、1953年(昭和28年)1月2日、25歳の誕生日のことだった。「会長(戸田城聖先生)より、第一部隊長に就任の発表あり」「健男子として、何ものにも恐れず、青年を率いて起とう」——その日の日記には、ほとばしる青年の決意がとどめられている。
4日後の就任式。戸田先生は、若き池田先生に部隊旗を託した。第1部隊の"勝利のドラマ"が本格的に始動した瞬間だった。
就任時、第1部隊のメンバーは、東京の墨田、江東、江戸川を中心に点在していた。部隊は六つの班で構成され、337人が所属。戸田先生は男子部に対し、年末までに「部隊千人」の目標を示した。それは、第1部隊にとって3倍の拡大を意味していた。
1月27日、墨田区の男子部員宅で開催された第1部隊の最初の班長会。ここで池田先生は、班を10に増やし、10人の班長を「部隊十傑」と名付ける。さらに各班で10人の分隊長を登用して「部隊百傑」とし、各分隊で10人の精鋭をそろえることを目標に掲げた。
理論を現実のものとする要諦こそ、目の前の一人を立たせることだった。
「大きい数字などに浮き足立つ必要は何もない。一人また一人と、新たな青年を大切に糾合していくのだ! その先に、必ず勝利があることを確信し、一致団結して、出陣した」
東京の大田区に住んでいた池田先生は、墨田区内の会員宅で自転車を借りては、一軒一軒、メンバーと共に家庭訪問に回った。会合に参加できなかった同志のもとへは、会合終わりに足を運んだ。
「人を動かすのではない。まず自分が動くのだ!」
「御書に『二人・三人・百人と次第に唱へつたふるなり、未来も又しかるべし』(1360ページ)と仰せである。地涌の人材は、必ず現れる。見つけ出し、育てることだ」
一人を大切にすることから広布の伸展は始まる——この不変の方程式を、先生は第1部隊の戦いで示したのである。

◇人は題目についてくる
第1部隊の、ある分隊長宅の電話が鳴った。受話器の向こうで、池田先生の声が響く。「元気ですか」「何かあったら何でも相談してください」。先生は一人一人の状況をよく知り、電話でも激励した。
第1部隊長に就いた年の4月から文京支部長代理も兼任。「昼は社に勤務しながら、夜は学会の青年部の中核として活動しつつ、大阪、仙台など地方にも本格的な行動を開始したのである」
多忙な中、第1部隊のリーダーたちに手紙も使って激励を続けた。1年余りで二十数通のはがきを受け取った班長もいた。
「疲れて、ペンを握ることさえ辛い夜もあった」——その時の心境をつづっている。「だが、必死に書いた激励の手紙ほど、同志は奮い立ってくれた。勝利は突然やってくるものではない。日々の、懸命な『小勝利』の積み重ねの上に『大勝利』があるのだ」
まだ学会活動の経験が浅いリーダーも多かった。池田先生は御書を一緒に研さんし、人材育成の方法など、信心の基本を一つ一つ丁寧に教えていった。前任の分隊長が引っ越し、活動者が少なかった隊があった。弱気になっていた後任の分隊長に、先生は語った。
「御書には『須弥山に近づく鳥は金色となる』(1536ページ)とある。あなたが須弥山になればいいのです。福運がつけば人は皆ついてきます。人は題目についてくるのです。御本尊に祈れば大勢の人に慕われるのです」
彼は、池田先生に言われた通り、翌日から真剣な唱題を重ねた。すると、やがてその組織の雰囲気は変わっていく。会合に来る人がどんどん増え始めた。先生は、広布の根幹は、どこまでも「リーダーの一念」と「祈り」にあることを示したのである。
池田第1部隊長の指揮のもと、第1部隊に人材拡大の大波が起こった。その陣列は、年末の総会で千人を超えた。総会に出席した戸田先生は、満面の笑みで喝采を送った。「じつに諸君の意気さかんなので、私も20代によみがえった。初代会長もおったなら、さぞ喜ばれたと思う」

【「若き日の日記」1953年(昭和28年)3月8日から】
人のため、法のため、社会のために、
心おきなく活動出来ることは、
実に幸せのことなり。
これ宿命打開の直道とならん。

◇「今ここ」が成長の舞台
「夜、部隊員、二、三人が、指導を受けに来る。可愛い。実に可愛い」(『若き日の日記』、1953年10月12日)。第1部隊長として指揮を執る池田先生の心は、同志への慈愛に満ちあふれていた。
東京・江戸川の小岩で行われた部隊会に約100人のメンバーが参加した日、日記にこうつづっている。「この百人を、千人に、万人にしてゆくことを、胸深く決意する。後輩を大事にしよう。後輩を、吾れより偉くせねばならぬ」(同、同年6月17日)
後輩を"自分以上の人材に"——青年に温かい励ましを送る学会の人材育成のルーツは、池田先生の実践そのものにあった。
1954年(同29年)4月11日、池田先生はつづった。「最後の第一部隊会。皆、別れるのが、淋しそう。良く戦ってくれた。感謝する。良くついて来てくれた。有難う」
この前月、26歳の池田先生は新たに、学会の企画・運営を担う青年部の室長に就任する。先生は以前から、青年が次代の広布の全責任を担うことを深く自覚し、"青年の成長"にも焦点を当てていた。
青年の成長のポイントは何か——。その一つの結論は、"自身の成長"だった。
「自分の成長は、青年部の成長である」(同、54年2月23日)、「勉強せねばならぬ。撓まず。向学心に燃えねばならぬ。青年らしく」(同、同年2月11日)
先生は、たとえ多忙であっても、求道の挑戦を止めなかった。「人間革命の舞台は、どこにあるのか? 『今ここ』である。目の前の課題に勇んで挑戦するなかに、常に青年の成長はある」と強調する。
青年室長時代、池田先生は、青年部へのあふれんばかりの思いをつづった。「学会青年部は、誰よりも私が一番愛している」「日本はおろか、世界の檜舞台で活躍させてあげねばならぬ」(同、同年6月9日)
時を経て、師匠の慈愛の眼差しは今、学会創立100周年の峰を登る青年一人一人に注がれている。

◎今日、結婚20年の節目を迎えます。
今まで苦楽を共にし歩み続けてくれた妻に感謝!、私たちを温かく見守り支えてくれたすべての人に感謝!
そして、これからも宜しくお願いします(^^♪