2021年4月5日月曜日

2021.04.05 わが友に贈る

◇今週のことば
「妙とは蘇生の義なり」
日々、新鮮な生命力で
広布と人生の開拓だ。
信心即生活の賢者たれ!
仏法即社会の世雄たれ!
2021年4月5日

南条殿御返事 P1578
『釈迦仏は我を無量の珍宝を以て億劫の間供養せんよりは末代の法華経の行者を一日なりとも供養せん功徳は百千万億倍過ぐべしとこそ説かせ給いて候』

【通解】
釈迦仏は、「私を、無量の珍宝をもって、億劫の間、供養するよりも、末法の法華経の行者を、たとえ一日でも供養する功徳のほうが、百千万億倍も勝れている」と説かれているのである。

名字の言  5人に1人といわれる「HSC」とは? 2021年4月5日
「HSC」という言葉を耳にするようになった。「Highly Sensitive Child」の略で、"人一倍敏感な子"等と訳される▼生まれつき感受性が強く、場の空気や人の感情を敏感に感じ取る特性のことだ。学校で他の子がけんかしたり、教師から注意されたりしている場面を見るだけでも、自分のことのように受け止めてひどく疲れてしまう。5人に1人の割合で該当するといわれる▼HSCと思われる男子中学生の母親に話を聞いた。かつては「わが子に強くなってほしい」と願い、学校で何かあるたびに「小さなことを気にしないで」と言い聞かせていたそうだ。その後、息子は不登校になる▼婦人部の先輩に相談すると、こんな答えが。「お子さんは人一倍、"共感する力"が強いってことでしょう? それって今の時代に一番必要な力じゃないかしら」。そして、池田先生の次の言葉を分かち合ったという。「コンクリートみたいに固い花はない。花は、みんな柔らかい。初々しい。傷つきやすい。人の思いに敏感なままの、その心を一生咲かせ続ける人が、本当に『強い』人なのだ」▼日蓮仏法は「桜梅桃李」。誰もが自分にしか咲かせられない"個性の花""使命の花"をもつ。その輝きに勇気づけられ、希望を抱く人が必ずいる。(恭)

寸鉄 2021年4月5日
「一人を大切に」が広布の根本軌道。さあ励まし週間。全幹部が最前線へ
青年は信用されることが勝利—戸田先生。"仕事は三人前"の気概で挑戦!
釈尊は自分から話しかける人—仏典。心を開けば劇が。勇敢なる第一声を
"超近視時代"が深刻に。携帯やPCは常に適度な距離保ち。意識し休息も
弱者に寄り添い、政策に生かせるのは公明だけ—東大教授。底力発揮せよ

〈社説〉 2021・4・5 あすから「春の交通安全運動」
◇絶対無事故を呼び掛けよう
入学や就職、転居等で環境が変わり、通学や通勤に自転車や自動車を使用するなど、今までと異なった生活スタイルを始める人も多いだろう。あすから「春の全国交通安全運動」が始まる(15日まで)。安全・無事故への十分な注意と対策を、確認し合う機会としたい。
「交通安全運動」には毎回、全国統一の重点項目が掲げられる。今回は「子供と高齢者を始めとする歩行者の安全の確保」「自転車の安全利用の推進」「歩行者等の保護を始めとする安全運転意識の向上」の3項目。例年と違い、そのうちの2項目において歩行者を守る内容が強調されている。歩行者は、自動車やバイクなどと比べて「交通弱者」となるため、交通事故による死者数においても、毎年のように最も高い割合を占める。昨年は全体の35・3%に上った。
警察庁によると、昨年全国で起きた交通事故による死者数は、前年比376人(11・7%)減の2839人。統計が残る1948年以降での最少を4年連続で更新し、初めて2000人台となったという。
減少の要因には、車の安全性能の向上や交通違反の取り締まり強化、新型コロナウイルス感染拡大による外出自粛などが挙げられている。コロナ禍の意外な影響だが、日常生活に外出は欠かせぬ以上、交通ルールやマナーをしっかりと守って交通事故ゼロを目指していきたい。
しかし、いくら交通ルールを遵守していても、いつ身に起こるか、また起こしてしまうか分からないのが交通事故だ。自動車やバイクはもちろん、道路交通法で「軽車両」に含まれる自転車を運転する際は、睡眠不足や脇見運転など、少しの油断が歩行者を大きな危険にさらしてしまうということも肝に銘じていきたい。
小説『新・人間革命』第12巻「新緑」の章では、大きな事故の原因の一つ一つは一見ささいに思えることであるとし、「その小さなミスや小さな手抜きが、魔のつけ込む隙を与え、取り返しのつかない大事故を生むのだ。ゆえに、小事が大事なのである」と、未然に事故の芽を摘む「無事故の要諦」がつづられている。
さらにリーダーへの指針として、「自分だけではなく、会合が終わったあとなどに、無事故と安全運転を呼びかけていくことも大事です。その一言が、注意を喚起し、事故を未然に防ぐ力になる」と、同志や大切な人を守る"声かけ"の大切さを訴えている。
御書には「さきざきよりも百千万億倍・御用心あるべし」(1169ページ)と仰せである。絶対に「事故に遭わない」「事故を起こさない」との強い決意で、日々"無事故即勝利"の春を送っていこう。

☆扉をひらく 池田先生の対話録� 第18回 井上靖
弟子とは行動の異名。師の教えを世界の隅々にまで行き渡らせよ——日本を代表する作家 井上靖氏との語らい

◇王道の規範
まだ肌寒い早春の夕暮れ。
1975年3月4日、東京・信濃町の旧・聖教新聞本社では、池田先生が作家の井上靖氏を迎え、"文学談議"に花を咲かせていた。
井上氏が、しみじみと語る。
「今の私は、一生に一冊、書ければいいという気持ちで、『最後の作品』の仕上げを課題としています」
当時、井上氏は67歳。先生より20歳年長である。しかし、氏の気概は青年そのもの。力強く言葉を継いだ。
「晩年の、人間としても完成に近づいていく年代に、最高に優れた作品を仕上げたい。それが勝負です。また、これが一番、幸せなことと思っています。そこに向かって、日々挑戦し、着実に積み上げています」
多くの名著を綴ってきた文豪の言葉は、飽くなき向上心に満ちていた。
その姿勢に先生は深く感嘆した。
「地道に、着実に精進を重ね、自分を乗り越え、一心不乱に挑戦していく——王道の規範であると思います。井上先生は王道です。断じて、その王道を行くべきです」
氏が瞳を輝かせた。
「今日は嬉しいお言葉をいただき、勇気百倍です。意欲が湧いてきます」

◇新聞記者として
1945年8月15日正午。
毎日新聞の記者だった38歳の井上氏は、大阪本社でラジオから流れる音声に耳を研ぎ澄ましていた。
太平洋戦争終結の放送である。
翌日の社会面トップには、「玉音ラジオに拝して」と題された井上記者の記事が掲載された。「新聞記者として最も感銘深い仕事であった」と、氏は後に述懐している。
終戦直後の雰囲気を、井上氏は"毎日が平穏で、明るく、そして空虚"と書き残した。既存の価値観が一夜にして消え、「人間とは何か」を求めて深夜にペンを走らせた。
それから5年。「闘牛」で芥川賞に選ばれると、新聞社を辞めて執筆活動に専心。「風林火山」(53年)、「氷壁」(56年)、「蒼き狼」(59年)などの名作を世へ送り出してきた。
池田先生がこれらの井上文学に親しんできた一方で、井上氏も学会の第3代会長となった先生の著作などに目を通し、折々に語らいを重ねていた。
"言論問題"の嵐が吹き荒れた70年当時、数人の作家が月刊誌「潮」など、学会の関連誌の執筆や取材を拒否することを発表した。井上氏が理事長を務める日本文芸家協会でも、学会に抗議声明を出すべきだという声が上がっていた。
氏は「潮」の編集長を自宅に招き、次のように述べている。
「私は、池田先生とお会いして、あれほど深く文学を理解し、また、ご自身でも筆を執られる先生が、『言論の自由』とか民主主義の基本となることに対して、間違った捉え方をされるはずがないと信じています。先生のことが、人間的な理解が伴わない形で、誤解されたまま、マスコミに喧伝されているのではないでしょうか」
さらに、こう指摘した。
「火がつけば、付和雷同しやすい。それがマスコミの欠点です。私も新聞記者をしていましたから、ジャーナリストの経験上、よく分かっています」
「協会として特定の人々を排斥するような、そんな声明を出すなど、少なくとも私が理事長をしている限り、するつもりはないし、させません」
そう明言すると、氏は自らの来し方を振り返りつつ、苦境に立つ編集長を勇気づけた。それはまた、池田先生への真心のメッセージでもあった。

◇書簡での語らい
75年春、二人は往復書簡での語らいを始める。それを「潮」誌の同年7月号から連載することになった。
井上氏の徹底した取材旅は有名である。中国だけで27回。還暦を過ぎても毎年のように海外に出た。
池田先生もまた、精力的に世界を巡り、指導者から一庶民まで、人と人とを結びゆく中、「人間とは何か」を見つめ、往復書簡は編まれていった。
生と死、老い、祈り、故郷、カントや千利休、トルストイの思想……と、融通無碍に織り成される語らいの中で、先生はある書簡に記している。
「私の心の中には、いつも戸田城聖という人格がありました。それは生きつづけ、時に黙して見守りながら、時に無言の声を発するのです。生命と生命の共鳴というのでしょうか」
人間を人間たらしめるものは何か。その答えを模索する井上氏に、先生の訴える師弟観は鮮烈な印象を与えた。
氏は返書にこう認めている。
「たいへん心を打たれました。一つの大きな人格に出会い、その人間と思想に共鳴し、傾倒して、ご自分が生涯進む道をお決めになり、しかも終生その人格に対する尊敬と愛情を持ち続けられるということは、そうたくさんあることではないと思います」
「もし恩師がなかったとしたら、今日の自分は無にひとしい存在であったに違いないといったことをお書きになっているのを記憶しております。本当の師弟の関係というものは、そういうものであろうと思います」
24通に及ぶ"対談"は、77年4月に『四季の雁書』として上梓された。

◇廻るということ
「孔子を主人公に小説ですか?」
戸惑う周囲を気にも留めず、80歳の井上氏は、「誰も読まなくても構わない。僕は書くよ」と唇を結んだ。
折々に、「人間としての顕しを原稿用紙に刻まなければならぬと思う。そしてできることなら、一番力のはいったいい仕事を、自分の最晩年に置きたい」と語ってきた氏。がんで闘病中であったにもかかわらず、病室に机を持ち込んでまで描こうとしたのは、孔子と弟子たちの"師弟のドラマ"だった。
作中、孔子が北の夜空を仰ぎ、思いにふける場面がある。
「北辰、その所に居て、衆星、……」(北極星が、居るべき場所に居れば、他のもろもろの星は……)
北極星とは「師」、他のもろもろの星とは「弟子」のことである。だが、その後に続く言葉が決まらない。
弟子たちは「囲む」「迎える」「捧げる」と口々に考えを述べるが、孔子の答えは「廻る」だった。
「廻るということは行動である。子の教えを、子の訓えを、中原のすみずみまで行き亘らせねばならない」
いつまでも師と共にありたい。それが弟子の願いだ。しかしいずれは、師の亡き後を生きねばならぬ。その時、弟子がすべきこと——それは、師の教えを携え、行動することなのだ。
「孔子」の終盤では、いついかなる時も、永遠に師と共にあらんとする弟子たちの決意が表明されていく。
長年、井上氏の担当記者を務めた松本昭氏は、「孔子」の構想に、戸田先生と池田先生の師弟愛が大きな影響を与えたのではないかと論じる。当初、井上氏から聞いていたものと、実際の作品では全く視点が違っていたからだ。
氏の遺作となった同書は、短日月のうちにベストセラーとなった。

◇一番好きな人間関係
「人間と人間との関係の中で、一番好きなのは師弟の関係」
そう語っていた井上氏が、学会の青年に問い掛けたことがある。
「君の師匠は、池田先生だろ?」
「はい、池田先生が、どう思われるか分かりませんが、私は、そう決めています」
間髪を入れずに、氏が言った。
「そうなんだ! 人生の師匠というのは、お稽古ごとの師匠とは違う。
学校で習っているから師匠——そんな平板なものでもない。
自分が『この人だ』と決めれば、その人が、自分の人生の師匠なんだよ」
人生を限りなく豊かにする、師弟という人間の絆——昭和の文豪が、その生涯と筆で確かめた信念である。

【プロフィル】 いのうえ・やすし 1907年(明治40年)5月6日、北海道旭川生まれ。36年に京都帝国大学卒業後、「サンデー毎日」の懸賞小説に「流転」が入賞したのが縁となり、毎日新聞大阪本社に入社。翌年、中国北部に駐屯したが、病気で内地送還となり社に復帰。以後、宗教や美術の担当記者を務める。48年、東京本社に転じ、50年に「闘牛」で芥川賞を受賞。51年に退社し、執筆活動に専念する。主な作品に、「氷壁」「敦煌」「蒼き狼」「天平の甍」「本覚坊遺文」「孔子」など。多くの著作が諸外国で翻訳され、国際的評価も高い。76年、文化勲章を受章。91年1月、83歳で死去。