使命を自覚した人は
どんな嵐にも動じない。
「われ地涌の菩薩なり」
広布への強き信念で
勇気みなぎる前進を!
松野殿御返事 P1382
『忘れても法華経を持つ者をば互に毀るべからざるか、其故は法華経を持つ者は必ず皆仏なり仏を毀りては罪を得るなり』
【通解】
絶対に、法華経を受持する者を互にそしることがあってはならない。その理由は、法華経を持つ者は必ず皆仏なのであり、仏をそしれば罪を得るからである。
名字の言 "思い出の一品"はライスカレー 2020年8月30日
「私の子供の時代はカレーライスではなくライスカレーの時代だった」。昭和5年(1930年)生まれの田村真八郎氏がエッセー集『日本人と食べもの』(丸善ブックス)に書いている▼カレーライスは高級品。カレーの方が別の金属製の容器に入れられ、うやうやしく運ばれてくる。一方のライスカレーは大衆品。皿の上のご飯にカレーがかけてあるものを指した。まさに"現代のカレーライスの形"だったのである▼人それぞれに、追憶に結び付く食があろう。若き日の池田先生と広布に奔走した同志を取材すると、しばしば耳にした"思い出の一品"がライスカレーだった▼先生は、おなかをすかせた青年たちを自宅に招き、「戸田先生から作り方を教わったんだ」と包丁を握ったという。昭和31年の「大阪の戦い」を振り返り、「皆で楽しくライスカレーを食べながら、最初から最後まで、愛する関西の同志と心一つに戦った」と語ったこともある▼食物の働きの一つとして、御書には「心身の力を盛んにする」(1598ページ、趣意)と仰せだ。食はおなかも心も満たすもの。大勢でテーブルを囲むことが難しい昨今だが、だからこそ日々の食事の内容や家族との食卓を大切にしたい。食の充実はそのまま人生の充実につながる。(恭)
寸鉄 2020年8月30日
苦労が多いほど幸福の大きな花が咲く—戸田先生試練の今を不屈の闘魂で
きょう学生部が教学実力試験。行学錬磨は生涯の土台。最後まで悔いなく
一日一日を愛せ—文豪。今日から生まれ変わった心で!「11・18」まで80日
感染したら秘密にしたい—子の32%。社会に漂う偏見の目。大人が襟正し
体が重い、食欲がないは夏バテの兆候。寝不足や偏食避けて賢く自己管理
〈社説〉 2020・8・30 きょうから「防災週間」
◇命守る具体的な行動計画を
「津波てんでんこ」——肉親にも構わず、各自が一刻も早く高台に避難し、「津波から命を守れ」という呼び掛け。
東日本大震災では、この教訓が生かされた岩手県釜石市の小・中学校の児童、生徒の生存率は99・8%だった。
同市では「想定を信じるな」「最善を尽くせ」「率先避難者たれ」という「津波避難の3原則」も訴えられてきた(平成26年版防災白書から)。
一方、九州などの各地に甚大な被害をもたらした「令和2年7月豪雨」では、気象庁の関田康雄長官が「我々の実力不足だった」との認識を示した。
近年多発する記録的大雨の要因である「線状降水帯」を予報することが、専門家やスーパーコンピューターの「数値予報モデル」を運用しても困難であることが分かる。
災害対策の三助(自助・共助・公助)について、防災白書によると、阪神・淡路大震災では7割近くが家族も含む「自助」、3割が隣人等の「共助」により救出されており、「公助」である救助隊による救出は数%にすぎなかったという。
大切な命を守るために必要な事前の具体策は何か。
これらの教訓や調査結果を参考に、きょうから始まる防災週間(9月5日まで)を機に、家族で話し合う時間をつくることをお勧めしたい。
一助となるのが国土交通省などが推奨する「マイ・タイムライン」を作成することだ。
マイ・タイムラインとは、洪水のような進行型災害が発生した際に、「いつ」「何をするのか」を整理した個人の防災計画。急な判断が迫られる災害時のために自らの行動チェックリストを整理して役立てることができる。
例えば、台風が近づきそうなら常備薬など持ち物の準備、注意報が発令されたら携帯電話の充電やハザードマップで避難経路を確認するという内容である(国交省の「マイ・タイムラインかんたん検討ガイド」から)。
風水害だけでなく予測できない直下型の大地震にも対策が必要だ。
「寝室に大きな家具を置かない」ことや、地震後の通電火災を防ぐ「感震ブレーカー」の設置も検討したい。
避難所での感染症対策については、密閉、密集、密接の「3密」を回避し、マスクやアルコール消毒液の持参、親戚の家や車内に泊まることも選択肢の一つに、万全を期したい。
池田先生はいかなる災難にも負けぬ人間力を強調し、「『汝須く一身の安堵を思わば先ず四表の静謐を祷らん者か』(御書31ページ)と仰せの如く、民衆の幸福と平和を根本とする生き方が輝き光っていくはずだ」と。
「自助」を念頭に置きつつ、人間関係が希薄な今こそ、近隣住民と「顔の見える関係」を築き、地域の防災意識を高めていきたい。
☆「8・24」 池田先生が全同志に和歌
8月24日は、池田大作先生が1947年(昭和22年)に入信して73年。恩師・戸田城聖先生と機関紙発刊の構想を語り合った50年(同25年)の「聖教新聞創刊原点の日」から満70年を迎える。池田先生は、記念日に当たって、全国・全世界の同志に3首の和歌を詠み贈った。
この時を
願い涌現の
後継なれば
若き誓火で
闇うち晴らせ
妙法の
大良薬を
地球民族へ
いのちの医王ぞ
創価の師弟は
霊山の
一会ここにと
聖教は
世界むすべや
平和の仏智で
☆小説「新・人間革命」学習のために 第17巻
◇苦悩が深いほど偉大な使命が
<1973年(昭和48年)3月、第二東京本部の幹部会に出席した山本伸一が会場を出ると、十数人のメンバーが駆け寄ってきた。町田から来たという婦人は、伸一に、自身の来し方を報告した>
「私が入会したのは、結婚前でしたが、その時は父母も、姉たちも大反対でした。家から閉め出されてしまったこともありました。
"なぜ、学会のすばらしさがわからないのだろう"と思うと、悔しくって、何度泣いたかわかりません」
「そう。大変だったんですね」
彼女は、満面に笑みを浮かべて言った。
「でも、今はそうしたことが、一番誇らかで、愉快な思い出になっています」
「そうなんだ。そうなんだよ。厳しい試練の冬も、勝利の春が来れば、すべては喜びに変わる。涙あっての笑いです。労苦あっての歓喜です。苦闘している時には、"なんで自分ばかり、こんなに大変な思いをしなければならないのか"と思うこともあるでしょう。しかし、それは、自ら願い求めた使命の舞台なんです。
苦悩が深ければ深いほど、それだけ偉大な使命を担っているということなんです。
つまり、あなたは、どんなに厳しい家庭の状況であっても、家族の一人が立ち上がれば家庭革命はできる、一家和楽は実現できるということを証明してみせたんです。
同じような状況で、悩み、苦しんでいる人が、その事実を知れば、皆が"私にもできるんだ!"と希望をもつでしょう。勇気をもつでしょう。
ご家族の学会への無理解というのは、あなたがその使命を果たすための舞台だったんです」
婦人は、何度も頷きながら、伸一の話を聞いていた。
「人生の充実感や痛快さは、幾つ苦難を乗り越えてきたかによって決まります。いかに年齢を重ねようが、苦闘がなければ精神は空疎です。自分の幸福のため、充実のために、自ら戦いを起こすことです。そして、自身の挑戦のドラマをつくるんです」
(「本陣」の章、93〜95ページ)
◇青春は困難を克服する活力
<4月、大阪に創価女子学園が開校。創立者の伸一は、入学式で祝辞を述べ、青春についての洞察を語る>
「私は、青春時代というのは、無限の可能性を前にして、非常に不安定で落ち着きがなく、鋭敏な神経が常に働いているというのが実情であろうと思う。
未来の夢が、大きければ大きいほど、心労も大きい。しかし、若い皆さんは傷つきやすく、弱いように見えますが、決して、そんなものではない。どんな困難をも乗り越えていける活力、生命力をたたえているのが青春です。どうか、そのことに自信をもっていただきたいのであります。
感情の振幅の激しさから、時に絶望に陥ることもあるかもしれない。しかし、皆さんの生命の底には、それを跳ね飛ばして克服するだけの力がある。これが、青春というものの本体であると私は叫びたい。これが、青春の特権です」
伸一は、いつの間にか叫ぶような、祈るような思いで訴えていた。
「人が老いて青春を懐かしむのは、まさに、この青春の活力を懐古しているということを知っていただきたい。ゆえに、苦悩や困難を決して避けるようなことをしてはならない。堂々と、それに挑戦し、立派に克服する皆さんであってください。
ともかく、青春は無限の歓喜とともに、また、必ず心労がある。悩みがある。これは表裏一体であることを忘れてはならない。
それを知って戦っていくところに、輝かしい青春時代があります」
(「希望」の章、135〜136ページ)
◇何があろうと"不動の信心"を
<伸一は3月の本部幹部会で、皆が「開目抄」の「我並びに……」の一節を生命に刻むよう提案。翌月、東京・日大講堂での本部幹部会では、その一節を皆で拝読する声が響いた>
「我並びに我が弟子・諸難ありとも疑う心なくば自然に仏界にいたるべし、天の加護なき事を疑はざれ現世の安穏ならざる事をなげかざれ、我が弟子に朝夕教えしかども・疑いを・をこして皆すてけんつたなき者のならひは約束せし事を・まことの時はわするるなるべし」(御書234ページ)
いかなる難があったとしても、疑うことなく信心を貫いていくならば、必ず成仏できることを断言なされた御文である。
——天の加護がなくとも疑ってはならぬ! 現世が安穏でないからといって嘆いてはならぬ! 疑いを起こさず、師弟の約束を守り抜くのだ!
そこには、弟子たちの成仏を願われる、師匠・日蓮大聖人の魂の叫びがある。
伸一は、前月の本部幹部会でも、この御文を拝読し、力を込めてこう訴えた。
「ここには、信心の極意が示されております。
この一節を、生涯にわたって、生命の奥底に刻み込んでください。
日蓮大聖人の仰せ通りに仏法を実践している教団は、創価学会しかありません。
それゆえに、必ず諸難が競い起こる。しかし、何があっても広宣流布の根本軌道を踏み外すことなく、揺るがぬ信心を貫き、悠々と明るく進んでいっていただきたいのであります」
今、創価学会は「広布第二章」の大空に飛翔した。それは、本格的な社会建設の時代の到来である。
(中略)学会が、社会の建設に力を注げば注ぐほど、その前進をとどめようとする迫害も、激しさを増すことは間違いない。
それだけに伸一は、必死になって、確固不動なる信心の「核」を、一人ひとりの胸中に、つくり上げようとしていたのである。
そして、「開目抄」のこの一節を、全同志が座右の銘として、生命に刻むことを提案したのだ。
(「民衆城」の章、265〜266ページ)
◇労苦こそ仏法者の誇りと栄光
<6月、「群馬・高原スポーツ大会」の会場に到着した伸一は、陰の力に徹する役員を激励する>
彼は、すぐに控室には入らず、建物の脇をのぞいた。そこに、身を隠すように立っていた一人の青年がいた。
"やはり……"と思った。
設営や警備など、役員の青年たちは、最も苦労しながら、自分は決して表面に出ることなく、目立たぬように陰の力に徹しようとするのが常であるからだ。
伸一は、陰の力として誠実に奮闘してくれている人に光を当て、讃えることこそ、わが使命であると自覚し、常にあらゆる人に炯々たる眼を注いでいた。
人間主義とは、具体的にいえば、その気遣いの心である。皆の献身的な尽力を当然であるかのように考えることは、官僚主義といってよい。
伸一は、青年に笑顔を向け、手を差し出した。
「役員だね。おめでとう!」
彼は、阿相良正という建設会社を営む青年で、会場の整備責任者であった。突貫工事で会場の整備を成し遂げ、この日、役員として参加していたのである。
阿相は、感動で頭の中が真っ白になった。
「先生! ありがとうございます」
こう叫ぶ阿相に、伸一は言った。
「役員として陰で黙々と頑張ってくれている人がいるから、行事の成功もある。また、そういう青年たちがいるから学会は盤石なんです。
大変だろうが、『陰徳あれば陽報あり』(御書1178ページ)です。労苦は必ず報われるのが仏法です。『冥の照覧』を信じてください。本当にありがとう!」
広宣流布のための労苦は、すべて、自身の福運となり、宿命転換の力となり、人間革命への飛躍台となる。ゆえに、われらは、勇んで今日も、使命の道を行く。
信心とは、峻厳なる生命の因果の理法への深き確信である。したがって仏法者は、自分は楽をし、要領よく立ち回ろうとする者を最も哀れに思う。そして、労苦にこそ、無上の誇りと、未来の燦然たる栄光を見いだすのだ。
(「緑野」の章、388〜390ページ)
◇人間精神の復興運動
1973年(昭和48年)の新年勤行会で伸一は、同年のテーマである「教学の年」の意義を訴えた。
◇
「『広布第二章』の本格的なスタートとなった本年を、私どもは『教学の年』としました。それは、なぜか——。
『広布第二章』とは、生命の尊厳や慈悲など、仏法の哲理を根底とした社会建設の時代です。言い換えれば、創価学会に脈打つ仏法の叡知を社会に開き、人類の共有財産としていく時代の到来ともいえます。そのためには、原点に立ち返って、社会を建設し、文化を創造していく源泉である、仏法という理念を、徹底して掘り下げ、再構築していかなくてはならない。ゆえに、本年を『教学の年』としたんです。
大聖人は『行学の二道をはげみ候べし、行学たへなば仏法はあるべからず、我もいたし人をも教化候へ』(御書1361ページ)と仰せです。
行学の『行』とは、広宣流布を推進していく実践です。『学』とは仏法哲理の研鑽であり、理念の深化です。この二つは車の両輪の関係にある。
新しき発展のためには、教学の研鑽に励み、仏法の理念を究めていくことが不可欠になる。
(中略)教学という理念がない実践は、社会の人びとを納得、共感させる説得力をもちえず、自己満足に終わってしまう。また、実践のともなわない教学は、観念の遊戯であり、現実社会を変革する力とはなりません」
創価学会が広宣流布の世界的な広がりを可能にしたのは、どこまでも御書を根本とし、確固たる理念をもち、正しき軌道を決して違えることがなかったからである。
伸一は、その仏法の哲理を時代精神にしていくために、自ら先頭に立って教学の深化を図るとともに、広く社会に展開していく決意を固めていたのだ。(中略)
核兵器の脅威をはじめ、人類の滅亡の危機が叫ばれる今こそ、恒久平和の実現のために、人間精神の復興運動を起こさねばならないと、彼は痛感していたのだ。
(「本陣」の章、9〜11ページ)