新聞休刊日
曾谷入道殿許御書 P1039
『伝教大師の云く「讃する者は福を安明に積み謗ずる者は罪を無間に開く」等云云、安明とは須弥山の名なり、無間とは阿鼻の別名なり』
【通解】
伝教大師は「讃する者は福を安明に積み謗ずる者は罪を無間に開く」等と言っている。ここに言う安明とは須弥山のことである。「無間」とは阿鼻地獄の別名である。
☆心に御書を 第67回 平和へ! 若き地涌の結合を
〈御文〉
『よき師と・よき檀那と・よき法と此の三寄り合いて祈を成就し国土の大難をも払ふべき者なり』(法華初心成仏抄、550ページ)
〈通解〉
よい師と、よい檀那と、よい法と、この三つが寄り合って祈りを成就し、国土の大難をもはらうことができるのである。
〈池田先生が贈る指針〉
御本仏に直結し、妙法で結ばれた師弟ほど強いものはない。広布と人生の大願を成就し、立正安国の宝土を築く力は、この結合にある。
戦後の荒野に恩師が一人立ち、地涌の陣列を呼び出して75年。揺るがぬ平和の民衆城が聳え立った。今、創価の若き世界市民の連帯こそ、地球社会の諸難を打ち払う希望なのだ。
☆仏法思想の輝き 苦しむ子に寄り添う
幼児・家庭教育部長 市川由紀絵
【プロフィル】いちかわ・ゆきえ 創価大学卒業後、東京都内の公立小学校に勤務し、現在は校長を務める。1965年(昭和40年)入会。埼玉県川口市在住。婦人部副本部長。総埼玉副教育部長。
◇心の重荷を軽くする関わり
池田先生の「私の最後の事業は教育である」との言葉に感銘し、教員になって33年。これまで、さまざまな子どもたちと出会いました。苦労や悩みもたくさんありましたが、それ以上に、子どもたちから「生きること」のすばらしさ、人間のもつ可能性の大きさを教わり、教育という仕事の偉大さを感じています。
忘れられない出会いの一つに、私が担任を受け持った、ある6年生の児童がいます。
この学年は、前年度に学級崩壊しており、新年度がスタートしてからも、男子児童数人が授業中に勝手に立ち歩いたり、授業を妨害したりしました。それを注意した教員に集団で暴力を振るうこともしばしば。その影響で、他の児童も無気力になってしまい、手のつけられない状況でした。
こちらが何を言っても、返ってくる言葉は「うざい」「くそ」「死ね」という暴言ばかり。どうしたらこの子たちと心を通わせることができるのかと、悩みながら題目をあげ、自分なりに懸命に関わっていたある時、リーダー格の子がつぶやいた一言に、はっとしました。
「どうせ俺たちなんか、何をしたって認めてもらえない」
"ああ、この子たちは、心の中では認めてもらいたい、がんばりたいと思っているんだ"——そう気付かされました。問題行動の奥にある、子どもたちの心が見えた瞬間でした。
以来、この子たち一人一人に、活躍の場を与えていき、少しの変化でも保護者に伝えるようにするなど、粘り強く成長を見守り続けました。
迎えた卒業式。それぞれ立派に成長した子どもたちの姿に心を打たれ、「どんな子でも、必ず伸びることができる」との確信を深めました。
◇感染拡大の中で
御書に、「一度妙法蓮華経と唱うれば一切の仏・一切の法・一切の菩薩(中略)一切衆生の心中の仏性を唯一音に喚び顕し奉る功徳・無量無辺なり」(557ページ)とあります。
私たちの唱える題目には、ありとあらゆる人の生命から、仏性という最極の善性を呼び覚ましていく響きがあります。"どの子にも無限の可能性がある"と信じて祈り、関わり続けるこちらの心は、子どもたちの心にも必ず伝わると確信します。
新型コロナウイルスの感染拡大で、学校生活は一変し、マスク着用やフィジカルディスタンス(身体的距離)をとりながらの関わりは、人と人との距離を遠ざけるものとなりがちです。
コミュニケーションが取りづらいことに加え、授業時数の確保のために夏休みも短くなり、学習の遅れを心配する周囲の雰囲気に、重苦しさを抱えている子も少なくないでしょう。また、大人自身が不安を抱えている様子を、敏感に感じ取っている子もいます。
一方、外出自粛の期間を「家族のつながり」を再確認する機会と捉え、日々の生活の中に楽しさを見つけるなど工夫していた家庭では、子どもも安心して過ごせていたと感じます。子どもたちの悩みや心の声に耳を傾け、同苦し、心の重荷や不安を軽くしてあげるような周囲の関わりが、今こそ大事ではないでしょうか。
◇長男の不登校
わが家の長男が中学1年の時、同級生からの暴力がきっかけで学校に行けなくなりました。長男は穏やかな性格で、頼まれなくても手伝うような優しい子なのですが、断ることができず、また自分のやりたいことをはっきり決められないところもありました。中学に入学してからも、やりたい部活が見つからず、成績は徐々に下がっていく一方。朝になっても起きてこない日があり、「具合が悪いのか」と聞いても返事はあいまいで、無気力のようでした。やっとの思いで登校したものの、友達とのトラブルが起こり、とうとう、行けなくなってしまいました。
この時、私は「息子よ、強くなれ! 強くなれ!」と祈っていました。しかし、そうではないことに気付かされました。ある時、夫が長男に、「君のいいところは、その優しさだ。その優しさをずっと大事にしてほしい。君は変わらなくていい。君は、君のままでいいんだよ」と話したところ、長男は大粒の涙をこぼしながら、その言葉を聞いていたのです。
それから、長男の状態は好転し、学校にも行けるようになり、生き生きと学校生活を送れるようになりました。進路も自分で決め、中学・高校と勉学に励み、家中に響き渡る声で題目をあげて、志望した大学の合格を勝ち取れたことは、長男の大きな自信になりました。
日蓮大聖人は「人に教えることは、車輪が重かったとしても油を塗ることによって回るようにすることである」(御書1574ページ、趣意)と仰せです。
子どもは、環境が整えば、必ず自分自身で一歩を踏み出せる時がきます。そのためにも、周囲の大人が、子どもにとっての最大の教育環境となっていくことが何より大切ではないでしょうか。
池田先生はつづっています。
「どんなに困難で複雑な現場にあっても、子どもたちを取り巻くすべての皆様に、『それでも対話を!』と申し上げたいのであります」
「『一番苦しんでいる子どもの側』に立って、対話を進めていただきたいのであります」
心通わせる実践を通して、子どもたちが幸福を感じられる社会を構築していきたいと願っています。
◇[視点]抜苦与楽
仏法では、仏の崇高な慈悲の行為として、「抜苦与楽(苦を抜き楽を与える)」の実践を説きます。
日蓮大聖人は、一切衆生の苦悩は「ことごとく日蓮一人の苦である」(御書758ページ、通解)と仰せになり、苦しみにあえぐ民衆に同苦し、苦難を乗り越えていくよう、力強い励ましを送られました。
"同苦"とは、上から哀れむような"同情"ではありません。相手に寄り添い、悩みを共有しながら、相手が自力で立ち上がれるまで、粘り強く関わり続けていく実践です。
それはまた、「相手の可能性を信じ続けること」と言い換えることもできるでしょう。こうした慈悲の精神に基づく"励ましの絆"で結ばれた連帯が、創価学会なのです。