2020年8月6日木曜日

2020.08.06 わが友に贈る

自分の心が変われば
日々の行動が変わり
環境をも変えていける。
理想の世界を創るのも
全ては一人の変革から!

種種御振舞御書 P911
『わづかの小島のぬしらがをどさんををぢては閻魔王のせめをばいかんがすべき、仏の御使となのりながらをくせんは無下の人人なり』

【通解】
わずかばかりの小島である日本の国の主(執権)等がおどすのを恐れているようでは、退転して地獄に堕ちたときに閻魔王に責められたならばいったいどうするのですか。仏の御使いと名乗っておきながら、今さら臆病になったら、それはもっともいやしい人々です。

名字の言 被爆した女性に希望の灯をともしたアオギリの木 2020年8月6日
「75年は草木も生えぬ」。広島は終戦後、そう言われた。爆心地から1・3キロほど離れた広島逓信局の中庭で被爆したアオギリは、枯れ木同然の状態に。ところが翌年、新たな芽を出した▼この逓信局に勤務していた故・沼田鈴子さんは、被爆で左足を失った。人生に絶望した彼女に、希望の灯をともしたのがアオギリだった。焼け焦げた幹から伸びる芽が、生きることを呼び掛けているように思えた▼「この命がある限り、私は未来を生きる若い人たちのために、核兵器の脅威を語り継いでいく」。生前、こう語っていた沼田さんは、21カ国で原爆の悲惨さを訴えた。彼女に勇気を与えたアオギリは今も、広島の平和記念公園で、静かに平和の尊さを語り続けている▼今、被爆者の平均年齢は83歳を超える。その体験の継承は私たちの責務だ。広島の青年・未来部では、被爆体験の聞き取りを実施してきた。ある未来部員は「今の生活は、75年前からつながっていると感じました。過去の戦争を"自分ごと"として考えていきたい」と▼広島で被爆した詩人・原民喜は詠んだ。「ヒロシマのデルタに/青葉したたれ」。次世代へ記憶をつなぎ、核廃絶に粘り強く挑み続ける——その戦いが、核兵器によって人生を奪われた方々の思いに応えることになる。(子)

寸鉄 2020年8月6日
広島の原爆忌75年。"核兵器は絶対悪"。戸田先生の信念の叫びを若人が継承
信越師弟誓願の日。勇み希望と励ましの連帯拡大我が人間革命の歴史綴れ
東北の歌「青葉の誓い」発表の日。福光の凱歌を共々に。題目第一で前進
コンビニでレジ袋「辞退」が7割超。有料化で。プラスチックごみ削減さらに
詐欺等の被害、上半期で128億円と。法務省等騙る新しい手口も。警戒強く

☆勇気の旗高く 池田先生が福井の友に贈る指針 郷土のルネサンスを
池田先生が各地の友に寄せたスピーチや指針などを紹介する「勇気の旗高く」。今回は福井県を掲載する。
◇不死鳥の如く
<池田先生が初めて福井を訪れたのは、1959年(昭和34年)3月24日。御書の「一切衆生・南無妙法蓮華経と唱うるより外の遊楽なきなり」(1143ページ)を拝し、県内各地から集った1700人の友に、「この信心をたもった私たちは、世界最高の幸福者である」と力強く訴えた。その背景には、"幾度となく災害に見舞われてきた福井の同志を励ましたい"との思いがあった。
先生が最初に、「郷土のルネサンスを」と呼び掛けたのも、福井だった。73年(同48年)6月5日に行われた県幹部会での講演である。多くの同志が誓いを新たにしたこの日は、後に「福井の日」に制定された>
ここ福井県は自然条件の厳しい土地柄であります。だが、歴史を振り返ってみると、古代においてはまことに誇りと気概に満ちた国土でありました。三世紀末から六世紀にかけての古墳時代をみても、福井県下の古墳は約三千基にのぼると推定されております。
古墳は、当時の豪族の権力と財力の象徴であり、それはとりもなおさず、本格的な農業生産の大きさを示していた。ということは、古墳三千基は、そのまま福井地方の大繁栄ぶりを物語っていたといってよいでありましょう。
(私は)古代からの誇りと気概と実力は、脈々として現代にも底流をなしていて、条件さえ整えば、立派にそれが開花すると考えている一人であります。
その証拠に、福井は豪雨、豪雪、地震による大災害多発地帯であるにもかかわらず、そのたびごとに立派に立ち上がり、不撓不屈の精神を如実に発揮してきたではありませんか。
現在の立派な福井市を建設し"不死鳥・福井"と賛嘆されたことは天下周知の事実であります。
福井の皆さん方は"福井のルネサンス(文芸復興)を私どもの時代で必ず成し遂げる"また"子孫のために福井のルネサンスの土壌だけは開拓してみせる"ということを合言葉にして進んでいっていただきたいのであります。

◇我らは勝ちたり
<福井は、第1次宗門事件の嵐が最も激しかった地域の一つ。苦難の中で、友は先生との絆をさらに強め、忍耐強く広布の陣列を広げてきた。
90年(平成2年)10月22日、池田先生は9年ぶりに福井を訪問。石川、富山の同志も参加した日本海3県合同総会の席上、「皆さまは見事に勝ちました!」とたたえた。先生は、2000年の随筆でこうつづっている>
震災、水害、豪雪……戦後になってからも、幾度となく天災に遭いながら、たくましく復興してきた福井である。
そのなかで、同志も、また、信頼の根を張り、深雪を踏み分けるように、創価の大道を広げてきたのである。
しかし、にわかに、冷酷無残な悪侶の狂刃が、わが学会の純真な仏子に襲いかかり、苦悩と悲嘆と混乱に陥れたのだ。
福井の寺で、激しい学会攻撃が始まったのは、七六年(昭和五十一年)の半ばごろであり、「法師の皮を著たる畜生」(御書1386ページ)の卑劣な策動の狼煙であった。
福井の同志は、来る日も来る日も、暗黒の嵐を耐えに耐え、必死に、創価の正義軍の陣列を守り抜いていた。
私は、福井の友がかわいそうでならなかった。その苦衷を思うと、胸が苦しかった。
ある日、私は、福井に電話を入れた。七九年(昭和五十四年)の九月——名誉会長になって間もない、私自身も自由に動けぬ時代であった。
「福井の皆さんも、悔しいだろう。しかし、こんなことが、いつまでも続くわけがない。大聖人が必ず裁いてくださる。それまで、福井の皆さんも、耐え抜いてください」
「仏法は勝負だ。正義は必ず勝つ! 十年後には、はっきりするよ!」
そして、福井訪問を約束して電話を切ったのである。
福井は、遂に、遂に、「師子王の心」で奮い立った。
この二年後、武生文化会館でお目にかかった皆さま方の、あの雄々しき大英雄の姿は忘れられない。
そして、激戦の十年が過ぎた九〇年(平成二年)——私は、勝利の太陽に包まれた福井文化会館を訪問したのである。
福井の同志の、あの晴れやかな顔、顔、顔。一緒に参加した石川、富山の友も、心の底から歓喜していた。
我らは勝ちたり! 堂々たる福井の凱旋の大会は、日本一、世界一であった。

◇"新思考"の時代
<池田先生は、この90年の3県合同総会の席上、幸・不幸を決めるのは自身の「心」であると強調。その心を鍛えるのが、日々の信仰の実践であると語った>
若狭湾など、美しい自然の景観に恵まれたふるさと——。私も、この福井が、そして石川、富山の地が、大好きである。私は東京生まれで、太平洋側は比較的よく知っているが、できれば将来は、この日本海側の地で、時間をかけて、人生と広布への語らいを、皆さまと行いたい。
また福井では、これまで発展のマイナス要因とされてきた「雪」を、逆にプラス要因として活用できるよう、工夫されているとうかがった。「活雪」、つまり雪を活かすという、逆転の発想である。
例えば、冬に雪にちなんだ行事を催す。また、村おこしに役立てたり、雪を利用する新しいタイプの公園を整備したり——まことに、素晴らしいアイデアと思う。
ものごとは価値的にとらえたほうが得である。そして、新しい発展のためには、古い"常識"にとらわれない柔軟な発想と知恵が必要となる。いわゆる"新思考"の時代なのである。
他人と比べたり、見栄を張ったり、そんなことで、いつも心が焦りと不満で揺れている——それでは、どんなに他の人から幸福そうに見えたとしても、何の意味もない。むしろ不幸である。人生は他の人に見せるためにあるのではない。自分自身の人生であり、自分自身が満足できるかどうかが根本である。
勇者は、どんな環境でも平静でいられる。憶病な人は常に心が不安である。知恵ある人は、障害をも自分の味方にしてみせる。知恵なき人は幸運をも、つまずきの原因にする。強者にとっては、運命と戦うことすら喜びであり、弱者にとっては、人生そのものが重荷であろう。全部、自分で決まる。自分の「一念」で一切が百八十度、違う顔を見せてくる。
幸・不幸を決定する、この「心」に、限りない「強さ」と「知恵」をわき出させていくもの——これが妙法の信仰であり、私どもの日々の実践なのである。
<苦難の中、真っすぐに師弟の道を歩んできた福井の友。池田先生は「勇者の福井」の前進に期待を寄せる>
粘り強い挑戦と持続、そして決してあきらめない負けじ魂——これこそ偉大な歴史をつくる力である。
いかなる困難な環境さえも、自身の栄光の舞台に変えていけるのが、仏法であり、妙法である。
今、人間世紀を拓く「勇者の福井」に、希望の太陽は赫々と昇った。
「常勝関西」の一翼を担い、いよいよ「世界の福井」の本領を発揮する、歓びの春が来た!
私には聞こえる! 朗らかな福井の同志の敢闘に、あの地、この地から、潮のごとく沸き上がる、行進と喝采の響きが!