2020年8月12日水曜日

2020.08.12 わが友に贈る

猛烈な熱帯夜が続く。
就寝前の水分補給や
冷房・扇風機等の活用で
良質な睡眠を取ろう!
賢く健康第一の日々を!

御義口伝巻下 P794
『廿八品の文文句句の義理我が身の上の法門と聞くを如是我聞とは云うなり、其の聞物は南無妙法蓮華経なり』

【通解】
すなわち二十八品の文々句々の教義・法理は、すべてわが生命を説き明かした法門なりと聞き、信ずることを如是我聞というのである。その聞く物すなわち信ずべき法体は、三大秘法の南無妙法蓮華経である。

名字の言 発達障がいの男子部員。「後継の宝」と励まされて 2020年8月12日
かつてアメリカで公開された映画『ディア・ブラザー』は、冤罪で逮捕された兄を、妹が救うという話。高額な弁護士費用が賄えないため、妹は既に成人だったが高校卒業資格を取り、ついには弁護士となって、自らの手で無罪を勝ち取った▼この物語は実話を基にしている。作品を見て、感動とともに希望も湧いた。"人間は、大切な人のために努力する時、偉大な力を発揮できる"と▼発達障がいのある男子部員は、幼い頃から周囲の冷たい視線を浴び、学校ではいじめに遭った。それでも家族の愛情に包まれ、同志からは「わが地区の後継の宝だ」と励まされる中、心ない差別に負けず、成長した▼その後、地元企業に就職。真面目な姿勢が買われ、今では部署のリーダーとして活躍する。「ここまで頑張れた原動力は?」と質問すると、彼は答えた。「"僕をばかにした人たちを見返したい"と思った時期もあった。でもそれは違うなと。ずっと支えてくれた家族や同志に恩返しがしたい気持ちが原動力です」▼御聖訓に「(四条金吾は)極めて負けじ魂の人で、自分の味方を大切にする人」(御書986ページ、通解)と。負けじ魂とは、圧迫に屈しない反骨心だけではない。自他共の幸福を築くために燃やす、「最後まで戦い抜く勇気」でもある。(城)

寸鉄 2020年8月12日
混沌の時代に共生の心を広げる学会は希望—識者今いる場所で絆結ぶ一歩
「教育原点の日」45周年。子らの幸福が第一。教育本部の奮闘に確かな未来
創大通教がオンラインで夏期授業。学は光。学びの人生に向上と勝利の力が
「ペルセウス座流星群」が極大。宇宙の劇を親子で。天空仰いで夢語らう夏を
国連「国際青少年デー」。心を砕いた分、若き命は育つ。慈愛の激励、一段と

〈社説〉 2020・8・12 きょう「教育本部原点の日」
今こそ「子どもの幸福」のため
「学校の夏休み」という言葉から受け取る印象が、これほど普段と異なる年はない。文部科学省の調べによれば、今年の夏休みの期間は公立学校の9割以上で短縮になった。新型コロナウイルス感染拡大の影響で、休校期間中に後回しとされた授業時間の確保が主な理由だ。
子どもにとって「学び」とは何のためにあるのか。多くの教育関係者が今、模索している課題だ。スイスの教育者ペスタロッチは「すべての学習はそれに元気と悦びとが伴わなくなれば一文の価値もない」と喝破した。「子供の顔に快活と悦びとが現われている間」は、「私は心配しない」とも言っている(佐藤守訳)。
一方的に知識を教授する「詰め込み教育」では、子どもの真の喜びや笑顔は生まれない。ゆえに今年度からスタートした新学習指導要領では、討論などを通じて能動的に学習する「主体的・対話的で深い学び」を重視することがうたわれたわけだが、それも、このコロナ禍で実行に移すことの難しさに直面している。
「行き詰まったら原点に戻れ」と、創価教育の父・牧口常三郎先生は語った。創価教育の原点は1930年11月18日に発刊された『創価教育学体系』にある。教育の目的は「子どもの幸福」にあると宣言した大著だ。緒言には「入学難、試験地獄、就職難等で一千万の児童や生徒が修羅の巷に喘いで居る現代の悩みを、次代に持越させたくないと思ふと、心は狂せんばかり」と記されている。
この子どもへの深い慈愛こそ「教育の原点」だと、池田先生は訴えた。そして真の教育を実現するには、「教育法や教育学の改革はもとより、教育者自身の人間革命がなければならない」との信念に基づき、信仰を持った教育本部の友に万感の期待を寄せてきたのである。
75年8月12日に行われた教育部(当時)の夏季講習会で、先生は「私の人生における最終の事業は教育」と語り、「教育革命の大情熱の火を点じ、未来社会への豊かな水脈をつくっていただきたい」と呼び掛けた。この「教育本部原点の日」から、本年は45周年である。
今、同本部の友は自身の人間革命に大情熱を燃やしながら、新たな教育の在り方を模索している。学校現場だけではない。保育園や学童保育所、放課後等デイサービスなどでエッセンシャルワーカー(社会の維持に不可欠な仕事の従事者)として親子を支える友もいる。フリースクールや児童館など多彩な分野で"学びの場""子どもの居場所"を提供している友がいる点も、同本部の強みだろう。
全国の教育本部の同志が知恵と力を結集するならば、豊かな未来社会が築かれていくことは、絶対に間違いない。

☆心に御書を 第66回 妙法と共に! 仏の大生命力で
〈御文〉
『此の法華経には我等が身をば法身如来・我等が心をば報身如来・我等がふるまひをば応身如来と説かれて候へば、此の経の一句一偈を持ち信ずる人は皆此の功徳をそなへ候』(妙法尼御前御返事、1402ページ)

〈通解〉
この法華経には、私たちの身を法身如来、私たちの心を報身如来、私たちの振る舞いを応身如来と説かれているので、この経の一句一偈を持ち信じる人は皆、この(三身如来の)功徳を具えるのである。

〈池田先生が贈る指針〉
妙法は宇宙と生命を貫く根源の法だ。題目を唱え行ずる人は、三身如来の仏である。身も心も振る舞いも、そのまま仏なりと仰せなのだ。
広布に生きる自身を卑下してはならない。同志を軽んじてもならない。
妙法と共に我らは胸を張って、仏の大生命力を生活に社会に漲らせよう! 伸び伸びと仲良く朗らかに!

☆日蓮大聖人の慈愛の眼差し 日眼女 「陰の労苦」に無量の福徳が
◇夫・四条金吾を支えて共に信仰に励んだ門下 大聖人から「日本第一の女人」とたたえられる
広布のための地道な「陰徳」は、必ず「陽報」となって前途を照らしていく。
御書には、日蓮大聖人が門下一人一人の「陰の功労」を心からたたえ、感謝される真情が数多く記されている。

早くから大聖人に帰依し、不退の信心を貫いた四条金吾が、さまざまな苦難に遭いながらも、大聖人をお守りし、鎌倉門下の中心者として活躍できた背景には、妻である日眼女の支えがあった。その功労は、大聖人の慈愛あふれるお手紙から、うかがい知ることができる。
文永7年(1270年)、日眼女は待ち望んでいた子どもを身ごもったと推定される。翌文永8年(1271年)5月8日、金吾宛てに送られた「月満御前御書」によれば、日眼女は無事に女児を出産し、大聖人は、早速、「月満御前」と命名された。
新たな命を授かり、喜びに包まれていた金吾夫妻を揺るがす一大事が起きる。同年9月12日の竜の口の法難である。
平左衛門尉頼綱が兵士を率いて大聖人を捕縛。大聖人はその深夜、拘留されていた北条宣時邸から密かに連れ出され、鎌倉近郊で処刑されようとした。
金吾邸の近くを通った大聖人は、使いの者を金吾に送る。その急の知らせを受けた金吾は、大聖人の元へ、裸足で駆け出した。そして大聖人の馬の口に取り付き、大聖人が処刑されたなら自分も一緒に死ぬという覚悟でお供したのである。
夫を送り出した日眼女は大聖人と夫の身の上を案じて題目を唱え、眠れぬ一夜を過ごしたに違いない。
大聖人一行が竜の口に到着し、処刑が行われようとすると、江の島の方から「光り物」が現れ、刑の執行はできなくなった。金吾は依智(神奈川県厚木市内)まで大聖人にお供した後、帰宅した。
夫から竜の口での出来事を聞いた日眼女は、究極の大難にあっても悠然と乗り越えた師の偉大さを命に刻んだことだろう。

◇大地よりも厚く 空よりも高い真心
その後、大聖人が佐渡に流罪されると、多くの門下が弾圧に遭って退転していった。しかし、金吾夫妻は御供養の品々を送ったり、金吾自身が佐渡を訪れたりと、大聖人を外護した。
文永9年(1272年)4月に日眼女に送られた「同生同名御書」では、夫を鎌倉から佐渡へはるばる送り出した日眼女を、大聖人は最大に称賛されている。
「あなた方は、鎌倉にいながら、人目をはばからず、命を惜しまず、法華経の信心をされていることは、ただごととも思われません」(同1115ページ、趣意)
「このような乱れた世に、この殿(金吾)を佐渡の地まで遣わされた、あなたの真心は大地よりも厚いのです。必ず地神も知っていることでしょう。また、その真心は虚空よりも高いのです。きっと梵天・帝釈も知られていることでしょう」(同ページ、通解)
当時、鎌倉では、良観ら諸宗の悪僧に唆された幕府要人らが、大聖人の門下を激しく迫害していた。二月騒動(北条氏一族の内乱)による混乱もあったと考えられる。
そうした逆境にもかかわらず、夫を佐渡に送り出して留守を務めた日眼女に、大聖人は、誰が見ていなくても広布を支え抜く福徳は計り知れないことを教えられたのである。
さらに、佐渡でしたためられた金吾宛てのお手紙には、「太陽と月」「二つの眼」「鳥の二つの翼」のように、夫婦でぴたりと呼吸を合わせて、信心に励むように指導されている。
文永11年(1274年)、大聖人は佐渡流罪を赦免されて身延に入り、民衆救済の大闘争を門下に呼び掛けられる。金吾は師の戦いに呼応して、主君を折伏した。
しかし、そのために、金吾は主君から不興をかい、遠ざけられ、同僚たちからもさまざまな圧迫を受けるようになる。それでも金吾夫妻は助け合って信心を貫き、身延の大聖人を支えたのである。

◇強き信心の人を 諸仏・諸天が守る
当時、金吾の命をつけ狙う者もいた。大聖人は金吾に対して、命を守る生活上の注意を繰り返し指導されている。
あるお手紙を拝すると、昼の宴席も油断できないものとされ、金吾が安らげるひとときがなかったことがうかがえる(同1133ページ参照)。
日眼女の周りにも、法華経の信仰に対する理解が不十分で、日眼女と距離を置くようになった者もいたであろう。八方ふさがりの状況に、日眼女はどれほどつらく、悔しい思いを重ねたか、計り知れない。
そんな彼女に対して、「四条金吾殿女房御返事」で、大聖人は次のように渾身の激励を送られた。
「全ての人が憎むならば憎めばよい。釈迦仏・多宝仏・宇宙のあらゆる仏をはじめ、梵天・帝釈・日天・月天らにさえ、大切に思っていただけるならば、何がつらいことがあるでしょうか。法華経にさえ、ほめていただけるならば、何もつらいことはないのです」(同1135ページ、通解)
さらに大聖人は同抄で「妙法を持つ女性は、他の一切の女性に優れているだけでなく、一切の男性にも超えている」(同1134ページ、通解)と訴えた。そして、けなげに信心に励み、夫を支える日眼女を「日本第一の女人なり」(同1135ページ)とたたえた。日眼女にとって、大聖人のこのお言葉がどれほど心の励みになったことだろう。
後に金吾は、病気になった主君の看病・治療を通して、以前にも増して主君からの信頼を取り戻し、所領も増えた。建治4年(1278年)に御執筆されたお手紙には、金吾が主君の出仕のお供をした折、鎌倉の子どもたちから"一行の中で四条金吾こそ第一である"とほめたたえられたことが記されている(同1175ページ参照)。長い間の苦しみを乗り越えた日眼女にとっても大聖人から贈られた「日本第一の女人」とのお言葉のような称賛が周囲から寄せられたに違いない。
弟子の「陰の戦い」をじっと見つめる師匠。師匠は全てを知ってくださっているとの確信を抱き締めて奮闘する弟子——この麗しき師弟の精神は、仏意仏勅の創価学会に厳然と受け継がれている。
かつて池田先生は心の内を語った。
「私は、いつも『陰の人』を見ている。『陰の立場』で、コツコツと広布に戦ってくださっている方々を真剣に見つけ出し、最大に賞讃してさしあげたいという気持ちでいっぱいである」と。
友のため、地域・社会のために尽くす行動は、誰の目にも触れないかもしれない。しかし、私たちのことを誰よりも心に掛け、励ましを送り、成長と勝利を待ち望んでいる師匠がいる。
どこまでも師と共に! 師の期待にお応えする人生を!——この師弟の絆を持つ生き方は強く、深い。