◇今週のことば
「黄金柱」の壮年部よ
乱世にこそ揺るぎなく。
「ちかいし願
やぶるべからず」
皆を励まし守り抜け!
2020年8月24日
寺泊御書 P951
『心ざしあらん諸人は一処にあつまりて御聴聞あるべし』
【通解】
「志」を抱いて進む人達は、一処に集まって、法義を聴聞しなさい。
名字の言 きょう「聖教新聞創刊原点の日」 2020年8月24日
スイスの哲人ヒルティは、1月1日から12月31日まで日ごとに思想をつづった名著『眠られぬ夜のために』を残した▼本紙創刊記念日でもある4月20日の欄には、「この世界におけるただ一切の善事だけを報道して、(中略)くだらぬ事柄には見むきもしないというような新聞なり、評論誌なりを、われわれは持つべきであろう」(草間平作など訳)と論じている▼ヒルティは常に善悪を鋭く洞察した。「この世において悪の力が強いのは、全く、事にあたって生ぬるい人たちの恐怖心と不信仰とにもとづくものである」。悪を助長するものは、悪自体の力が強大であることよりも、正義が弱いことに起因するものだ▼きょう24日は「聖教新聞創刊原点の日」。70年前の1950年(昭和25年)のこの日、池田先生は恩師・戸田城聖先生と初めて広布の機関紙の構想を語り合った。そして翌年4月20日、本紙は創刊された。正義の論陣で正邪や善悪を明らかにし、正しい人間が正しく栄える時代を築こうとの思いで新聞発刊は決断されたに違いない▼池田先生は「民衆を賢明にし、民衆を強くし、民衆を団結させる——創刊以来の聖教新聞の使命である」と。この使命への挑戦に終わりはない。混迷の現代を確かな未来へ転換させるための"時代の要請"でもある。(代)
寸鉄 2020年8月24日
池田先生の入信記念日。世界広布を実現した73年後継よ偉大な闘争に続け
「師子王は前三後一」御書次の一歩に全力!幹部の祈りと励ましが躍進の鍵
男女青年部がオンラインで決意の集いを活発に。各地で新入会者も続々と
今年の酷暑は従来の常識通用せずと。夜の室内が最も危険—空調等を活用
正義の師子吼放つ希望の言論城。更なる紙面充実誓う。本紙創刊原点の日
〈社説〉 2020・8・24 きょう「壮年部の日」 2020年8月24日
◇奮闘する黄金柱の友に期待
「塩梅」という言葉には、「料理の味加減」のほかに、「物事や身体の具合」という意味がある。人が集まれば、性格や考え方は多様である。しかし、スイカに塩をかければ甘さが引き立つように、いい「あんばい」で調和すれば、互いの"持ち味"が引き出される。地域や職場や家庭に絶妙の調和をもたらす、黄金柱たる壮年部の存在感にも通じよう。
きょう24日は「壮年部の日」。かつて池田先生は、この日が自身の入信記念日であることから、"恩師・戸田先生が19歳の私を導いてくださったように、壮年が後継の青年を励まし、育てゆく意義も込めている"とつづった。
ある壮年は、慣れないパソコンに悪戦苦闘しながらも、オンラインの集いに参加。壮年部や男子部の友に画面越しでの御書講義を行っている。これまでは仕事で会合に間に合わなかった友が、確信あふれる講義に触れて信心を深めることができたなど歓喜が広がっているという。
新型コロナウイルスと共存する「新しい行動様式」を生み出す努力が、さまざまな場面で重ねられている。世代の違いはもとより、それぞれの家庭や仕事の事情や感染症のリスクへの思いは千差万別だ。誰も置き去りにせず、一人一人にどのように励ましを送っていくか。今、誰もが"正解のない"課題に直面している。
壮年部の結成式(1966年<昭和41年>3月5日)で池田先生は、永続的な発展のためには、分別のある"保守"の力と、若々しい、勢いのある"革新"の力がかみ合っていくことが肝要であり、広布推進の強力なエンジンとしての青年の力とともに、豊かな経験や判断力など、総合的な円熟した壮年の力が求められていると訴えた。
多様な意見に真摯に耳を傾け、皆の思いを共有しながら、柔軟に対応していくところに、数多の修羅場をくぐり抜けてきた経験と、度胸と、実践知を発揮する壮年の本領があろう。
さらに「8・24」は、1950年、事業が最悪の苦境にあった中で、戸田先生が池田先生に聖教新聞の構想を示した「創刊原点の日」でもある。これを通して池田先生は「一番の試練の時に一番の偉大な価値を創造するのが、壮年の本懐だ。この魂で、凱歌大道の誉れの人生を進もうではないか!」と述べている。
多くの同志が経済的な苦境に立たされながらも、信心根本に、師弟不二の魂を燃やして新たな戦野を開拓している。今こそ「生涯求道の壮年部」「職場で勝利する壮年部」「地域貢献の壮年部」の3モットーを胸に、壮年部一人一人がそれぞれの使命の場所で、周囲に希望の光を送る灯台の存在となっていきたい。
☆【8月24日】聖教新聞の創刊原点の日
言葉の力というものは、偉大です。「ありがとう」「負けるな」「いっしょにがんばろうね」——その一言を受け取っただけで、心が温かくなり、勇気が出たという経験が、みんなにもあるのではないでしょうか。
ある時、戸田城聖先生は、若き池田先生に言いました。
"なぜ日蓮大聖人の門下たちは、あれほど弾圧されても、勝ちこえることができたのか"
"大聖人は、お手紙を書いて書いて、書きぬかれて、一人一人をはげまし続けられた。だから、何があっても、みんな負けなかった"
私たちが学んでいる「御書」は、こうした大聖人の"はげましの手紙"なのです。
この「少年少女きぼう新聞」にも、毎月、池田先生が「2030年へ 希望の王子・王女に贈る」をつづってくださっています。
それは、池田先生から大切なみなさん一人一人への"はげましの手紙"です。
◆
今から70年前の1950年の8月24日。この日は、池田先生が創価学会の信心を始めて、ちょうど3年目の日でした。
このころ、戸田先生が経営する会社は、ギリギリの状況に追いこまれていました。社員は次々にやめていき、大勢の人が戸田先生の悪口を言う中で、若き池田先生は、戸田先生を支えていたのです。
その日、戸田先生と池田先生は、ある新聞社の記者と会いました。その帰り道、戸田先生が言いました。
「一つの新聞をもっているということは、実にすごい力をもつことだ。学会もいつか、なるべく早く新聞をもたなければならんな。大作、よく考えておいてくれ」
明日がどうなるかもわからない、一番苦しい日々の中で、戸田先生と池田先生は、広宣流布の未来を見つめ、新聞をつくることを語り合っていたのです。
◆
8カ月後の翌年4月20日。創価学会の新聞である「聖教新聞」が誕生しました。5月3日には、戸田先生が第2代会長になります。
戸田先生も池田先生も、「聖教新聞」にどんどん原稿を書きました。その「正義の声」「はげましの言葉」が、日本中の学会員に勇気と希望を届け、学会は大発展していったのです。
池田先生の小説『人間革命』や『新・人間革命』も、すべて「聖教新聞」に連載されたものでした。
2019年9月。東京・信濃町に、世界聖教会館が完成しました。ここが聖教新聞社の本社で、「少年少女きぼう新聞」も、この世界聖教会館でつくられています。
池田先生と奥様は、完成してすぐの世界聖教会館を2度、訪問。さまざまな展示を見学し、配達してくださる方々の無事故と健康、すべての読者の健康と幸福を、深く深く祈りました。
「世界中の人に聖教新聞を読ませたい」というのが、戸田先生の願いでした。今はインターネットを通した「聖教電子版」もできて、世界の200以上の国・地域で読まれています。
☆第3代会長就任60周年記念 師弟凱歌の記憶 特別編「池田先生 戦火の青春」
◇終戦75年に不戦を誓う
きょう8月15日は終戦75年。国内外で多くの命を奪った軍国主義が破滅した日であり、不戦と恒久平和を誓う日である。池田大作先生はこの時、17歳。死の恐怖から解放され、権力者への怒りを胸に秘めながら、人生いかに生きるべきかを模索し始めた。正しき思想を求めた若き先生が、生涯の師・戸田城聖先生と出会うのは、その2年後の8月14日のことである。「師弟凱歌の記憶」特別編として、池田先生の平和行動の原点となった、戦火の青春をたどる。
◇"私たちは「戦争の子ども」です"——ゴルバチョフ元大統領と
1990年(平成2年)7月にクレムリンで会って以来、池田先生と30年来の親交を結ぶ、元ソ連大統領のゴルバチョフ氏。二人が確かめ合ったことがある。
元大統領 私たちが、戦争で生き残った「戦争の子ども」であるという一点を見逃すと、私たちの世代の人生も、行動も、理解することは不可能でしょうね。
先生 「戦争の子ども」——。まさに、私たちの世代に共通する「体験」と「苦悩」と「辛酸」を、一言にこめた言葉であると思います。(『二十世紀の精神の教訓』)
1931年(昭和6年)生まれの氏に対し、池田先生は3歳上の28年(同3年)生まれ。共に大人たちが始めた第2次世界大戦によって、少年時代の思い出を、暗い灰色に染められた世代である。死の影に付きまとわれ、自由に未来の夢を描くことなど許されない青春だった。次の世代に二度と同じ思いを味わわせてはならない——その思いで二人は、不戦と核兵器廃絶へ戦い続けてきた。
◇「私は戦争を憎んだ。庶民の味方になると心に決めた」
75年前の「8月15日の記憶」を、先生はつづる。
「ラジオの玉音放送は、ザーザーと雑音が入って何を言っているのか、わからなかった」「『ああ、戦争が終わった……』。ほっとしたというのが、私の正直な実感であった」(寄稿「終戦62年に念う」)
前途ある若者を死地に追い立て、国土が焦土と化してなお、軍部政府は「一億玉砕」等と、命をささげることを強要し続けた。
終戦を迎えた先生の胸に去来したのは、そうした権力者への沸騰する怒りであった。
「私は、戦争を憎んだ。民衆を戦争へと駆り立てた、指導者を憎んだ。こんな歴史を二度と繰り返さぬために、自分は何をすべきかを問い続けた」(「随筆 新・人間革命」)
「いつも権力者や政治家に利用されている貧しき庶民、多くの正直にして賢明なる庶民の味方になっていくことを心に決めた」(「随筆 人間世紀の光」)
池田先生は東京の南部、多摩川を挟んで神奈川と接する大森・蒲田地域(現・大田区)で、前半生を過ごした。
まだ幼かった昭和初期、大森の海岸には砂浜が広がり、海苔の竹ヒビが沖まで連なっていた。江戸期以来の「浅草海苔」の一大産地であり、池田家もまた海苔製造業を営んでいた。
海苔業は、関東大震災で既に大きな打撃を受けていた。先生が小学2年生の時に父がリウマチで倒れ、4年生の時に長兄が出征。池田家は男手を失い、家運は傾き、困窮の一途をたどった。先生が小学5年生の時、2歳から過ごした糀谷3丁目の屋敷は人手に渡り、2丁目の家に越すことになる。
3歳で満州事変、8歳で二・二六事件、9歳で日中戦争勃発——高鳴る軍靴の足音とともに、のどかな田園や漁村の風景が広がっていた大森・蒲田一帯も、一大軍需工場地帯に変貌していった。
◇母の鏡を分け合った尊敬する長兄「大作、戦争は美談なんかじゃないぞ」
先生が13歳、国民学校高等科の2年生だった1941年(昭和16年)12月8日、ついに日本はアメリカと太平洋戦争に突入。翌42年(同17年)12月に、長兄が再び出征した。相前後して残る三人の兄たちも、次々と兵隊に取られた。
先生は、42年4月から、軍需工場となった蒲田の新潟鉄工所に勤め、働き頭として、懸命に家族を支え続けた。
だが、この頃から先生は、もう一つの「死の影」に付きまとわれるようになる。肺結核である。
「かつての田園地帯は(中略)軍需工場の進出と人口急増によって、結核の病巣と化した」(『大田区史 下巻』)と記されたように、慢性的な栄養不足や劣悪な労働環境によって、大森・蒲田地域には、"戦争に勝って結核に敗れる"といわれるほど、結核が蔓延。先生にも死の刃を向けてきた。
外からは戦争、内からは疫病という「死の影」と必死で戦いながら、先生は、赤く焼けた鉄粉が飛び散る軍需工場で、油にまみれながら働いた。
中国大陸から一時、除隊してきた長兄は、日本軍の中国での非道を憤り、言い残していた。
「大作、戦争は、決して美談なんかじゃないぞ」
先生は長兄と、一枚の鏡の破片を分け合った。
母が父のもとに嫁ぐ時に持参した鏡が、何かの時に割れてしまった。その破片の中から、手のひらの大きさのものを二人で選んだ。長兄は、その鏡の破片を持って出征し、残った先生も鏡を宝物にして、見つめるたびに、尊敬する兄をしのんだ。
◇戦争ほど悲惨なものはない
44年(同19年)8月までにマリアナ諸島を占領し、本土空襲の足掛かりを得た米軍は、11月から日本本土への攻撃を本格化した。
当初は、軍事目標だけを狙った昼間の「精密爆撃」だったが、やがて焼夷弾で市街地を焼き尽くす、夜間の「無差別爆撃」に戦術を転換。銃後の市民までも、直接、戦火にさらされることになった。
その最初の攻撃が、45年(同20年)3月10日の東京大空襲である。首都の東部が灰燼に帰し、およそ10万人が犠牲となった。
そして4月15日午後10時過ぎから16日未明にかけて、B29爆撃機の編隊が、今度は先生の家族が暮らす、大森・蒲田一帯を焼き尽くした。
家族はばらばらに逃げ、翌日の明け方になっても、互いの消息は分からなかった。
幸いにして「家族は皆、無事であり、手を取り合って喜び合った」(「随筆 新・人間革命」)。
しかし、喜びもつかの間——。
糀谷2丁目の先生の家は空襲による類焼を防ぐため、強制疎開で取り壊しとなり、一家は、馬込のおばの家に一棟を建て増しさせてもらい、移り住むことになった。
新居が完成し、荷物を運び入れ、ようやく新生活が始まろうとする5月24日未明。空襲で、焼夷弾が、完成したばかりの先生の家を直撃した。
全焼した家から、先生と弟は、なんとか長持一つを運び出した。開けてみると、入っていたのは、ひな人形と一本のコウモリ傘だった。
落胆が絶望を募らせた。
その時、母は言った。
「このおひなさまが飾れるような家に、きっと住めるようになるよ」
その一言が、家族の希望となった。
焼夷弾の雨の中でも、先生は、あの一枚の鏡を肌身離さず持ち続けていた。
やはり空襲を受けた時のことである。搭乗機を撃墜されたのであろう。米軍の兵士が、落下傘で脱出した。先生は、頭上を通り過ぎてゆく兵士の顔を見た。自分と、さほど年齢も違わない、少年の面影が残る若者であった。
この米兵はさんざん殴られ、目隠しをされて憲兵隊に連行されたという。胸が痛んだ。家に帰り、その話を母に伝えた。
「かわいそうに! その人のお母さんは、どんなに心配していることだろうね」
若い米兵の身を案ずる母の思いが胸に染みた。敵も味方もない。皆、同じ人間であることを教える言葉であった。
◇戸田先生との出会いから壮大な平和旅が始まった「この世から一切の不幸をなくしたい。どうだ、一緒にやるか!」
戦争が終わり、3人の兄が復員してきた。しかし、長兄は帰ってこなかった。47年(同22年)5月30日、一通の戦死公報が家に届いた。昭和20年1月11日、ビルマで戦死——。
長兄は、太平洋戦争史上で"最も無謀"とされたインパール作戦の犠牲となったのである。
「その通知を握りしめ、小さくなった体を震わせて慟哭していた母の後ろ姿が、私の瞼から消えない」(「終戦62年に念う」)
長兄の戦死公報が届いた3カ月後、終戦記念日を前にした8月14日の夜に、池田先生は生涯の師・戸田城聖先生と初めて出会った。
「生命哲学についての会がある」と友人に誘われて行った、糀谷での座談会。そこで戸田先生の「立正安国論」の講義を聴いた。
「700年前にお書きになったものが、まるで敗戦後の我々のために、お書き遺しくださったかのようだといってよい。個人であれ、一家であれ、一国であれ、この仏法哲理の根本に立たない限り、一切のことは始まらない」
「一家のことを、一国のことを、さらに動乱の20世紀の世界を考えた時、私は、この世から、一切の不幸と悲惨をなくしたい。これを広宣流布という。どうだ、一緒にやるか!」(同)
当時の先生にとって、指導者を峻別する基準は、軍部権力と戦った人か否か——この一点にあった。
仏法の理論を完全に理解したわけではなかったが、投獄されても信念を貫いたこの人なら、信じられると思った。
「そこには、人間として極限の『実像』があった。私は決めた。我、この師に続かむ。我、この道を進まむ」(「随筆 新・人間革命」)
戦火の暗く苦い思い出も、戸田先生との出会いによって、平和の誓いを燃やす薪となった。
73年前のあの夜から、池田先生の師弟不二の道が、壮大なる平和への旅路が始まった。
「戦争ほど、残酷なものはない。戦争ほど、悲惨なものはない」
「平和ほど、尊きものはない。平和ほど、幸福なものはない。平和こそ、人類の進むべき、根本の第一歩であらねばならない」
この小説『人間革命』『新・人間革命』の冒頭の言葉こそ、先生の魂の刻印であり、ほとばしる生命の叫び、そのものなのである。