大難が起こった時こそ
強盛の信心で立とう!
変毒為薬の仏法だ。
「現在」から「未来」へ
焦らず着実に進もう!
乙御前御消息 P1220
『妙楽大師のたまはく「必ず心の固きに仮りて神の守り則ち強し」等云云、人の心かたければ神のまほり必ずつよしとこそ候へ、是は御ために申すぞ古への御心ざし申す計りなし』
【通解】
妙楽大師は「必ず心が固いことによって諸天善神の守りは強い」と言われている。心の堅固な者には諸天善神の守りが必ず強いというのである。こう言うのは、あなたのために言うのである。あなたの昔からのお志は言い尽くせない。
名字の言 正しい行いは迷わずやる——"新人"となった70歳の挑戦 2020年8月4日
ニューヨークを舞台にした映画「マイ・インターン」(2015年公開)。定年後、新たな生きがいを探していた主人公の壮年は、70歳でファッション通販会社のシニアインターンに応募する。晴れて採用となった彼を待っていたのは、仕事の指示がメールで届くといった、前職とは全く異なる環境だった▼そこで、パソコンの起動方法すら分からなかった彼は、現状を受け止め、自分にできることから始める。荷物だらけの机を片付けたり、親子ほど年の離れた同僚の相談に乗ったり。少しずつ信頼を積み上げていくうち、誰からも好かれる社内の人気者に。40歳年下の女性社長も、彼の助言に勇気をもらい、公私それぞれの深刻な問題に立ち向かっていく▼「行動あるのみ」とは、劇中で彼が口にした信念の言葉。社長のサポートを受けながら開設したSNSの「座右の銘」の欄には「正しい行いは迷わずやれ」と記した▼年長者の知恵と経験は若い世代が学ぶべき宝であり、前進の歩みを止めない姿は私たちの模範である。このコロナ禍でも活路を開こうと、慣れないスマホやオンライン通話の活用に挑む多くの先輩方がいる▼皆がそれぞれの立場で、今できることに全力を尽くす。挑戦への応戦こそが社会を変え、未来を照らす光となる。(仁)
寸鉄 2020年8月4日
自分が変わり責任を持てば勝利できる—戸田先生11・18へ幹部自らが率先
世界青年部総会へ後継の勇者が躍進!試練の時に広布に駆ける功徳は燦然
敵というものは忘れさせて狙う—御書。事故、詐欺等に注意。祈り、油断なく
8月は「食品衛生月間」。丁寧な手洗い・加熱等が大原則と。賢く健康生活
海洋プラスチックごみの流出、対策なしで20年後に2倍超。行動変革皆で
☆心に御書を 第64回 信心の眼で魔を見破れ
〈御文〉
『法華経を持つ者は必ず成仏し候、故に第六天の魔王と申す三界の主此の経を持つ人をば強に嫉み候なり』(種種御振舞御書、925ページ)
〈通解〉
法華経を持つ者は必ず成仏する。それ故に第六天の魔王という三界の主が、この経を持つ人を強く嫉むのである。
〈池田先生が贈る指針〉
広布に生きる人生は、「成仏」という絶対の幸福への大道である。ゆえに、天魔が嫉んで妨げようとする。
病魔も同じだ。断じて負けてはならない。信心の眼で魔と見破り、断固と打ち勝つのだ。
「必ず成仏し候」——病の友も、看護・介護のご家族も、妙法の大功力を確信して、聡明に勇敢に宿命転換の前進を!
☆ロータスラウンジ 第16回 見宝塔品第十一〈下〉
◇御本尊を拝することで「いま・ここ」で虚空会の儀式に連なれる
法華経について、皆で学び、深めよう——「ロータスラウンジ——法華経への旅」の第16回は、「見宝塔品第十一」(下)です(前回は6月16日付。原則、月1回掲載)。
■三箇の勅宣
日蓮大聖人は、「開目抄」の中で、「見宝塔品」の経文に照らし、御自身が「末法の法華経の行者」であることを証明されました。
そこで挙げられているのが「三箇の勅宣」です。これは、法華経の会座に列席している菩薩たちに、釈尊が滅後の弘通を3回にわたって勧めている箇所になります。
まず第1の勅宣は、「付属有在(付属して在ること有らしめん)」(法華経386ページ)です。
滅後の娑婆世界で法華経を弘める者に「付属」することを宣言し、弘通の誓いの言葉を述べるように呼び掛けたことです。付属とは、教えを弘めるように託すことです。
第2の勅宣は、十方の諸仏が集まって虚空会の儀式が行われたのは、「令法久住(法をして久しく住せしめん)」(同387ページ)のためであることを示し、弘通の誓いを述べるように呼び掛けたことです。
第3の勅宣は「六難九易」を説き(同390ページ以下)、滅後の弘通が難事中の難事であることを示して、大願を起こして滅後弘通の誓いの言葉を述べるように、菩薩たちに命じたことです。
大聖人は立宗に当たり、「六難九易」の経文に照らして、「今度・強盛の菩提心を・をこして退転せじと願じぬ」(御書200ページ)と誓願を立てられました。あえて滅後の弘通が困難であることが説かれているのは、不退の決意でそれらを乗り越えていく生き方を呼び掛けられているからにほかなりません。
■六難九易
「見宝塔品」に描かれている「六難九易」とは、具体的にどのようなことなのでしょう。
まず九つの易しいことです。
�法華経以外の諸々の経典を説くこと。
�須弥山をとって他方の無数の仏土に投げ置くこと。
�足の指でこの三千大千世界を動かし、遠く他国に投げること。
�この世界の頂点である有頂天に立って、法華経以外の無量の経典を説くこと。
�手で虚空をつかんで自在に動くこと。
�大地を足の甲に置いて天に昇ること。
�乾いた草を背負って大火に入っても焼けないこと。
�無数の法門を説いて人々に神通力を得させること。
�多くの人々に小乗の最高の覚りである阿羅漢の位を得させること。
易しいこととして挙げられていますが、とても実現できないようなことばかりです。
では、もっと困難な六つのこととは、どんなことでしょう。
�仏の滅後に、悪世で法華経を説くこと。
�仏の滅後に、法華経を書き、あるいは人にも書かせること。
�仏の滅後に、悪世で、しばらくの間でも法華経を読むこと。
�仏の滅後に、一人のためにでも法華経を説くこと。
�仏の滅後に、法華経を聞き、その意味を問うこと。
�仏の滅後に、能く法華経を受持すること。
つまり、釈尊滅後の悪世に、法華経を自行化他にわたって修行することは、極めて難しいというのです。
伝教大師は『法華秀句』で、「六難九易」の意義について「浅きは易く深きは難しとは釈迦の所判なり浅きを去って深きに就くは丈夫の心なり」と述べています。
丈夫の心とは仏の心のことです。つまり、釈尊が六難九易を説いて滅後弘通を勧めたのは、"浅い教えを去って、深い教えである法華経を弘めよ"という意味なのです。
■法華経を持つ男女
日蓮大聖人は、宝塔の意義について、次のように認められています。
「末法に入って法華経を持つ男女の・すがたより外には宝塔なきなり、若し然れば貴賤上下をえらばず南無妙法蓮華経と・となうるものは我が身宝塔にして我が身又多宝如来なり」(御書1304ページ)
「今阿仏上人の一身は地水火風空の五大なり、此の五大は題目の五字なり、然れば阿仏房さながら宝塔・宝塔さながら阿仏房・此れより外の才覚無益なり」(同ページ)
宝塔は、万人に具わる尊極な仏性を表現していると言えます。さらに、妙法を信じ、南無妙法蓮華経と唱える人間の生命そのものであることも教えられています。
また、大聖人以外に「宝塔の中の二仏並座の儀式を作り顕すべき人なし」(同1358ページ)と言われ、「是全く日蓮が自作にあらず多宝塔中の大牟尼世尊分身の諸仏すりかたぎたる本尊なり」(同1243ページ)と仰せです。
大聖人は、虚空会の儀式をもって御本尊を顕されたのです。
■境智冥合
釈尊と多宝仏が、宝塔の中で並んで座ったことには、どういう意味があるのでしょう。
大聖人は、境智冥合を現していると教えられています。
仏性があるという真理が「境」です。それを覚知する智慧の働きが「智」です。ここでは、多宝が「境」、釈尊が「智」に当たります。
つまり、扉が閉じている宝塔は、私たちの生命に仏界が本来具わっていることを譬えています。
扉が開かれて、二仏が並び座る姿は、境智冥合を現し、真実の成仏の姿を現しています。
池田先生は語っています。
「本来、だれもが『仏』である。これは『境』です。その仏界を輝かせるのは、智慧の光です。仏であることを自覚する智慧があって、初めて仏と輝く。これが境智冥合です。
私どもで言えば『以信代慧(信を以て慧に代う)』ですから、『信心』が『智』にあたる。
自分に『仏界がある』というのは客観的真理であり『境』です。それを事実のうえで輝かせるのが『信心』です」(『法華経の智慧』普及版〈上〉)
【『法華経の智慧』から】 九界即仏界
宝塔が大地から出現したというのも意味がある。大地とは九界の現実です。衆生の生命です。宝塔は、ただたんに仏界という生命を表現しているだけではない。衆生の命そのものに宝塔が打ち立てられることを示している。九界即仏界です。ゆえに宝塔は、大地から涌出したのではないだろうか。
◇
「いま・ここ」で永遠なる虚空会の儀式に連なれる。我が身に、我が生活に、我が家庭に、宝塔を光らせていける。これが御本尊のすばらしさです。どこまでも身近です。現実です。
虚空会は前後の霊山会(霊鷲山での会座)と違って、「時空を超えた」世界である。歴史的な特定の時・場所ではない。だからこそ、「いつでも・どこでも」虚空会につながることができるのです。
虚空会の儀式を表した御本尊を拝することによって、私どもは、「いま」永遠なる宇宙生命と一体になり、「ここで」全宇宙を見おろす境涯を開けるのです。
その意味で、日々の勤行・唱題は、宇宙飛行士が宇宙空間から地球を望むよりも、もっと壮大な「生命の旅」と言えるのではないだろうか。
(普及版〈上〉「見宝塔品」)
◇明鏡——尊極の生命を映し出す
日蓮大聖人は、御本尊を虚空会の宝塔を用いて表現されています。それは私たちが目指すべき仏の生命境涯を顕されたものです。
大聖人は、「我等衆生の五体五輪妙法蓮華経と浮び出でたる間宝塔品を以て鏡と習うなり」(御書724ページ)と仰せです。
自身が妙法蓮華経の当体であることを、法華経の見宝塔品を鏡として映し出すことができるのです。
鏡がなければ、自分がどんな姿をしているか知ることはできません。同じように、自身の生命を映し出す鏡がなければ、煩悩に支配され、宿命に流されていることに気付くこともできません。
いわんや御本尊という明鏡がなければ、自身に具わる尊極なる仏性を顕すことはできないのです。
故に、悪世を力強く生き抜いていくためには、御本尊を信じ、祈り、我が生命に仏界を涌現させていくことが大切なのです。