厳しい暑さの中でも
颯爽と広布に駆ける
配達員の皆様に感謝!
尊き労苦に福徳は燦然。
健康・無事故を祈ります。
蒙古使御書 P1473
『所詮万法は己心に収まりて一塵もかけず九山八海も我が身に備わりて日月衆星も己心にあり』
【通解】
所詮、万法は己心に収まって、一塵もかけてはいない。九山・八海も我が身に備わり、日月・衆星も己心に収まっている。
名字の言 夏空を美しく染める夕焼け 2020年8月20日
童謡「夕焼小焼」を口ずさむと、子どもの頃の懐かしい記憶がよみがえる。明治生まれの詩人・中村雨紅が、古里の情景を歌ったものといわれている▼雨紅の郷里は現在の東京・八王子市上恩方町。荒川区で教職に就いていた青年時代、夏休みに実家へ戻ると、つい長居をしてしまうこともあった。駅までの距離はおよそ4里(約16キロ)。バスなど通っていない時代だ。徒歩で帰るその途次で、夕日が山々を赤く染め上げる光景をまぶたに焼き付けたのである▼秋の印象が強い「夕焼け」だが、知人のカメラマンによれば、実は夏の方が美しい写真を撮れるそうだ。湿度の高さが主な要因らしい。赤系の光が目に届きやすい大気の状態となり、燃えるような空の色が現れる。俳句においても「夕焼」は夏の季語である▼池田先生は、創価大学のある八王子をはじめ、各地の夕日をカメラに収めてきた。時には望んでいた瞬間を撮り逃してしまい、「きょうという日は、この人生で、たった一度しかないんだ」と口惜しがることもあった。写真を通じて友に励ましを送るため、一瞬一瞬が真剣勝負だった▼荘厳な夕焼けは翌朝の好天を約束するという。一日一日を悔いなく、自分らしく生きよう。明日の人生が晴れ晴れと輝くことを確信して。(之)
寸鉄 2020年8月20日
外交の根本とは誠実だ—恩師。近隣への友好拡大の鍵は日々の振る舞いに
名聞名利は今生のかざり—御書。青年は大願に生き抜け!不退の信心貫け
「人は、教えながら学ぶ」哲人。後輩と共に挑み、共に前進!人材育成の要
広島土砂災害から6年。避難経路や日頃の備えを確認。教訓忘れず総点検
熱中症の救急搬送、多くが高齢者。屋内も危険。躊躇せずエアコンを使用
☆「世界を照らす太陽の仏法」に学ぶ 第6回 難を乗り越える信心<下> 萩本主任副会長
「紙上教学研さん『世界を照らす太陽の仏法』に学ぶ」の第6回は、前回(1日付)に続き、「難を乗り越える信心」について、萩本主任副会長と共に学びます。(第7回は9月5日付に掲載の予定。池田先生の講義は『創価学会 永遠の五指針』から引用)
◇池田先生の指導
広布の師弟に生き抜く人は、
一人残らず師子王です。
人生を恐れなく
楽しみ切っていける。
社会を、世界を、希望の智慧で
照らしていけるのです。
1 前進するから魔が競い起こる
それでは今回も、「難を乗り越える信心」について学んでまいりましょう。
「三沢抄」を拝しての池田先生の講義の続きを確認します。
■ 池田先生の講義
第六天の魔王といっても、その本質は、生命に潜む元品の無明が、魔の働きとなって現れてきたものです。
自身の境涯を広げようとするから、止めようとする力が働く。船が進めば波が起こり、走れば風圧が生ずるように、人間革命の道を進みゆく人々に、信心への不信、疑念を抱かせようとするのが、魔の本質なのです。
決して、自分の信心が弱いから、また、自分の信心の姿勢が悪いから難が起こってくるわけではないのです。
—◆—
思いがけない苦難に襲われると、「自分の信心が弱かったから」「信心の姿勢が悪かったから」と弱気になりがちです。しかし、先生は「そうではない」と断言されています。
1985年(昭和60年)7月、長野の実家が地滑りに巻き込まれました。幸いにも父母は逃げ出して無事でした。東京から飛んで帰ると、そこにあったのは、厳として動じない父母の姿でした。
父と母は共に63年(同38年)に入会。二人して、幾度も池田先生の励ましを受けながら広布に走り抜いてきました。先生は被災の報を聞かれ、「大変だったね。必ず変毒為薬できるよ」と万感こもる激励をしてくださいました。
「変毒為薬」とは「毒を変じて薬と為す」という意味です。日蓮大聖人は、この文を引いて「災来るとも変じて幸と為らん」(御書979ページ)と仰せです。
魔はあらゆる手を使って、法華経の行者に疑いや恐れや不安や迷いを起こさせ、成仏を妨げようとしてきます。しかし、魔を魔と見破れば、信心の利剣によって必ずや打ち破っていけます。
その後、父は使命を全うし、3年前に霊山に旅立ちましたが、あの時、「家はなくなったが、これでますます広布のため、同志と共に頑張っていける」と凜と語っていた姿は、今も忘れられません。
2 師弟の道に勝利の要諦が
続いて先生は「佐渡御勘気抄」を拝されます。同抄は、日蓮大聖人が流罪地の佐渡に向かわれる直前に認められた一書です。
【御文】
仏になる道は必ず身命をすつるほどの事ありてこそ仏にはなり候らめと・をしはからる(佐渡御勘気抄、891ページ2行目〜3行目)
【現代語訳】
仏になる道は、必ず命を捨てるほどのことがあってこそ仏になるのだろう、と思われる。
■ 池田先生の講義
人間は、運命を嘆き、宿命に翻弄され、苦しむだけの存在ではない。難を乗り越えて、自他共の幸福を勝ち開く。その力を無限に解き放つための哲理が妙法です。そのための信心です。この境涯革命、人間革命を成し遂げるには、不惜身命の実践が欠かせないのです。その要諦は不退の信心にあります。
佐渡流罪中に認められた「開目抄」にも「我並びに我が弟子・諸難ありとも疑う心なくば自然に仏界にいたるべし」(御書234ページ)と仰せです。
いかなる難に直面しても、疑いを起こさず、敢然と信心を貫き通していけば、必ず仏界の生命を涌現できる。
大事なことは、「まことの時」に、師の言葉を忘れず、ひとたび決めた師弟の道を、同志と共に、断固と進み抜いていく信心です。
—◆—
努力に努力を重ね、それでも「もうだめだ」と思った時、「師匠に勝利の報告をする」との決意を希望の光として、もう一度、戦いを開始する同志が全国におられます。
東京・新橋駅近くで40年以上にわたり飲食店を営む壮年が、90年代のバブル崩壊を受け、店をたたもうかと行き詰まった時、目にしたのが池田先生の随筆でした。戸田先生の事業が苦境に陥る渦中、聖教新聞の創刊の構想を「新橋駅近くの食堂」で語り合ったことがつづられていました。「絶体絶命の中、戸田先生と池田先生は、この地から勝利を開かれた。負けるものか! 先生が魂魄をとどめられた新橋で店をやっていく」と腹が決まりました。そこから厚い壁に挑み抜き、やがてにぎわいを取り戻すのです。
その後、リーマンショックによる不況も乗り越えました。なぜ40年も店を続けられたのか?——こう問われた壮年は語ります。「毎朝、しっかり居住まいを正してから聖教新聞を読みます。池田先生の息吹に触れ、決意してから仕事に向かうことで、さまざまな苦難も乗り越えることができました」と。
今、コロナ禍で客足が絶える中、常連客や飲食店の仲間に励ましを送る日々。その模様を、70歳にして初めて触れたパソコンを使って、オンラインの支部の壮年部御書学習会で報告するなど、至る所で勇気と希望を広げておられます。
3 経文通りの実践者の誉れ
池田先生は、難に遭うことは、経文通りの実践者の誉れであると教えてくださっています。
■ 池田先生の講義
恩師は、力強く訴えられました。
「牧口先生が幾たびとなく弟子に語った、この言葉を断じて忘れてはならない。『悪口罵詈、猶多怨嫉の難は法華経の実践者の誉れなのである』と」
地域のため、社会のため、世界の平和のために、誰が本気になって尽くしているのか。それは、学会員です。
私たちは、無理解や偏見などから圧迫を受けたとしても、すべては法華経の行者の誉れと愉快に堂々と前進していけばいいのです。
「石に金を・かふるにあらずや」(御書891ページ)です。
苦難を越えて、信心を貫き、広宣流布に生き抜く人は、凡夫の身のままで、胸中に大聖人と同じ最極の生命を涌現することができる。戦えば戦うほど、自分自身の仏の力が引き出せる。信心は、その秘術です。
—◆—
現代において、経文通りの三類の強敵の迫害を乗り越え、世界広宣流布という御本仏の御遺命を実現したのは、創価三代の師弟であり、なかんずく池田先生にほかなりません。
1970年(昭和45年)の夏、高等部の代表として参加した野外研修に、池田先生が出席してくださいました。先生はその時、「スイカやトウモロコシを、どんどん食べなさい」と勧めてくださり、にぎやかにほおばる私たちに、大きな慈愛の眼差しを注ぎながら語り掛けてくださいました。「君たちはいいな。私はラーメン1杯食べるのも大変なんだよ」と。
当時は言論問題のさなかであり、学会への無理解からくる誹謗・中傷が社会に渦巻いていました。その中で体調を崩されていたにもかかわらず、私たち未来部のため、あえて灼熱の野外での研修に来てくださったのです。先生の額に浮かぶ玉のような汗と激励の一言一言は脳裏に焼き付いています。
そして、この時、「生涯、先生と共に戦おう」と決意したことが私の原点となっています。
かつて先生は語られました。「妙法の師弟に生き抜く生命には、何も恐れるものはない。三世永遠に、いかなる悪鬼も打ち破り、『常楽我浄』という最極の生命の歓喜と勝利の道を悠然と進むことができるのである」と。
偉大な師匠と共に戦える!——こう思うと、いかなる苦難も乗り越える勇気が湧いてきます。歓喜があふれます。私たちは、いやまして「師弟の誓い」をたぎらせ、力強く前進してまいりたいと思います。
4 宿命を使命に変える祈りを
■ 池田先生の講義
私たちには偉大な妙法がある。そして、人類の幸福のために、一人また一人と、平等大慧の仏法を弘めています。
世界広布の使命に生きゆく私たちは、御聖訓に照らし、いかなる苦難にも断じて負けるわけがありません。
難に直面しても、信心が破られない人は、仏の眼で見れば、「難即安楽」で、もう乗り越えているのです。仏法は勝負であるゆえに、信心を貫けば、必ず現実の一切を勝ち越えていけるのです。
—◆—
「難に直面しても、信心が破られない人は、仏の眼で見れば、『難即安楽』で、もう乗り越えているのです」との先生の言葉に、大きく境涯が開かれる思いがします。
「苦難」を文字通り「苦しみ」と捉えるのか、自分を高めゆく「試練」と捉えるのか——先生が教えられているのは、全ては私たちの「一念」で決まるということです。一切を「信心」で捉えた時、「宿命」は「使命」へと変わります。「悩み」は「闘志」を燃えたぎらせる薪となります。苦難にあった人ほど、乗り越えた時に大きな力が出ます。不幸にあえぐ人々の本当の味方となれるのです。その転換の力を生み出すエンジンが「唱題」です。
池田先生は講義の中で、「どんな悩みも、そのまま御本尊に祈っていけばいい。悩みを祈りに変えて、題目を唱えれば、わが生命に、勇気がみなぎり、希望が輝き始めるではありませんか。『難を乗り越える信心』とは、『難を乗り越える祈り』であり、『難を乗り越える唱題』の異名です」と語られています。
眼前の課題や、抱えている不安、人知れぬ悩みも、ありのままに御本尊にぶつけていくことです。前進の力が湧くまで祈り抜くことです。そして、広布のため、友のため、師匠のためにとの誓いを打ち立てていくことです。
時代は、確かな哲学を求めています。私たちの「難を乗り越える信心」の実践の姿こそが、社会に希望を送っていくのです。
■ 池田先生の講義
広布の師弟に生き抜く人は、一人残らず師子王です。人生を恐れなく楽しみ切っていける。社会を、世界を、希望の智慧で照らしていけるのです。
正しき信仰とは、永遠の「勇気の翼」であり、「幸福の翼」であり、「勝利の翼」です。
苦難の烈風があればあるほど、喜び挑んで悠々と飛翔し、境涯をどこまでも高めていけるのです。
さあ、胸を張り、頭を上げて、不撓不屈の誉れの「創価の翼」で、常勝の空へ晴れ晴れと舞いゆこうではありませんか!
さらなる研さんのために
本連載で学ぶ講義「世界を照らす太陽の仏法」は、『創価学会 永遠の五指針』に収められています。本社刊。713円(税込み)。全国の書店で発売中。コンビニ通販サイト「セブンネットショッピング」「HMV&BOOKS online」での注文、受け取りも可能。電子書籍でも好評発売中。