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南条殿御返事 P1530
『法華経を山中にして読みまいらせ候人をねんごろにやしなはせ給ふは、釈迦仏をやしなひまいらせ法華経の命をつぐにあらずや、妙荘厳王は三聖を山中にやしなひて沙羅樹王仏となり、檀王は阿私仙人を供養して釈迦仏とならせ給ふ、されば必ずよみかかねどもよみかく人を供養すれば仏になる事疑ひなかりけり』
【通解】
法華経を山中で読み修行する人を手厚く供養されるのは、釈迦仏を供養申し上げ、法華経の命をつぐことと同じではなかろうか。妙荘厳王は三人の修行者を山中にやしなった功徳により沙羅樹王仏となり、須頭檀王は阿私仙人を供養して釈迦仏となられた。とすれば法華経を読み書くことをしなくても、読み書く人を供養するならば成仏することは疑いない。
名字の言 "真の終戦"とは——青年部「戦争・被爆証言を聞く会」で考える 2020年8月21日
ある父は特攻隊員として出撃する前、5歳と3歳のわが子に手紙をつづった。<イツデモオマヘタチヲ見テイル>。漢字の読めない幼子を気遣い、カタカナで書いてある。<オトウサンハ「マサノリ」、「キヨコ」ノオウマニハナレマセン>▼"背中に乗せて、お馬さんごっこをしてやれない"。そう書き残し、米軍が上陸した沖縄へ向かい、命を落とした。享年29歳。子どもたちの悲しみは、どれほどであったか。戦争で失ったものはあまりにも大きい▼「まだ戦争は終わっていません」。過日、学会青年部の「戦争・被爆証言を聞く会(オンライン)」で、90歳の婦人部員が沖縄戦の体験を語った。当時15歳。米軍が迫る中、重傷の叔父を置いて逃げた。「戦争が終わったら迎えに来てくれよ」。その叔父の声が今も耳朶から離れないという▼婦人は「私の体験を次の人につなげてください。そのときが、私の終戦日です」と。終了後、各地の青年部員から「今日の"聞き手"は、明日の"語り部"だと学んだ」などの感想が届いた▼75回目の「終戦の日」を過ぎてなお、戦禍に苦しむ方々がいる。その声なき声に耳を傾け、代弁する。悲惨の二字をなくそうと、"次の人"が立ち上がってこそ、真の終戦は訪れる。自らが、その一人でありたい。(子)
寸鉄 2020年8月21日
「弟子のしらぬ事を教えたるが師」御書。求道心燃やし師弟道を堂々邁進
現実を理想に近づける力が大聖人の哲学だ—恩師着実な一歩前進を今日も
豪雨は温暖化の影響で更に増加—専門家。皆が当事者。心構えの刷新必須
コロナ禍で子の7割超にストレス反応。休み明けは要注意。変化見逃さず
ましい水の事故多し。"自分は大丈夫"—油断が命取りに。声掛け何度も
☆日蓮大聖人の慈愛の眼差し=完 池上兄弟 「賢者はよろこび愚者は退く」
◇2度の勘当に屈せず一家の宿命転換を成就 後世に輝く「難を乗り越える信心」の鑑
広宣流布とは、仏と魔との闘争である。
日蓮大聖人は大難にも一歩も退かず、渾身の激励を門下へ送られた。師の励ましを受け、門下たちは病苦や家族との死別、権力者からの迫害など障魔の嵐を乗り越えていった。
日蓮門下の人間群像は、「師弟の絆」こそ、一切の苦難に打ち勝つ力であることを示している。
企画「日蓮大聖人の慈愛の眼差し」の最終回は、師の御指導通りに三障四魔に屈せず、一家の宿命転換を成し遂げた「池上兄弟」を紹介する。
◇魔との闘争こそ成仏への直道
池上兄弟の兄は宗仲といい、弟は宗長と伝えられている。池上とは、武蔵国・千束郷池上(東京都大田区池上とその周辺)のことで、兄・宗仲は池上の地頭だったようだ。
兄は右衛門大夫志、弟は兵衛志という官職を持っており、日蓮大聖人はそれぞれの官職名で二人を呼ばれていた。康光(宗親とする説もある)と伝承される父と兄は鎌倉幕府に仕え、殿舎の造営や修理などの建築、土木に携わる大工(工匠)の棟梁に当たる立場にあったと考えられている。
池上兄弟が大聖人に帰依した時期は定かではないが、立宗宣言の数年後、四条金吾らと同時期といわれている。
入信から20年ほどたった頃、兄弟に大きな難が降りかかる<最近の研究では建治2年(1276年)と考えられている>。真言律宗の僧・極楽寺良観の熱心な信者だった父・康光が、兄弟に法華経の信仰を捨てるように迫り、兄・宗仲を勘当したのである。
当時、親から勘当された子は家督相続権や遺産相続権を失った。それは社会的な身分を剥奪されることでもあった。つまり、宗仲にとっての勘当は、経済的保証を奪われ、社会的に破滅することを意味した。
一方で弟・宗長は、父の意向に従って妙法の信仰をやめれば、兄に代わり家督を継ぐことになる。家督を継いで親に孝養を尽くすか信仰を選ぶか、悩ましい事態になった。
このように兄・宗仲の勘当は、兄弟の信心を破り、二人の仲を引き裂こうとする陰湿なものであった。
大聖人は、池上兄弟に長文のお手紙「兄弟抄」をしたためられ、兄弟が直面している難は法華経に説かれる通りであることを示される。その中で、未来に大地獄に堕ちるほどの報いがあるところを、正法を行じる功徳によって現世で少苦として受ける「転重軽受」であるとして、「各各・随分に法華経を信ぜられつる・ゆへに過去の重罪をせめいだし給いて候」(御書1083ページ)と激励。仏道修行を妨げようとする魔性と戦うことが成仏への道であることを教えられる。
大聖人の御指導通り、池上兄弟は夫妻ともども心を合わせて信心に励んだ。そして翌年までには宗仲の勘当が解かれるのである。
◇弟・宗長への厳愛の御指導
しかし、宗仲が再び勘当されてしまう。極楽寺良観が、自身の信奉者である父・康光をあおり立てたのだ。
1度目の勘当の時と同様、大聖人が特に気に掛けられたのは弟・宗長の信心であった。
本来、「信仰」と「孝養」は一方を選び取るようなものではなく、信仰を全うすることが真の孝養となる。しかし、宗長は選択を迫られているように感じたかもしれない。
宗長へのお手紙「兵衛志殿御返事(三障四魔事)」で大聖人は、宗長の迷いを振り払われるように、あえて厳しく戒められる。
まず、「師と主と親とに随っては悪いときに、これを諫めるならば、かえって孝養となる」(同1090ページ、通解)と確認される。
その上で、兄・宗仲は「今度、法華経の行者になるでしょう」(同1091ページ、通解)と仰せになる一方、宗長には「あなたは目先のことばかりを思って、親に随ってしまうでしょう。そして、物事の道理が分からない人々は、これを褒めるでしょう」(同ページ、通解)と心配される。
さらには、「今度は、あなたは必ず退転してしまうと思われます」(同ページ、通解)等と繰り返し仰せになる。
そして、「一筋に思い切って兄と同じように仏道を成じなさい」「『私は親を捨てて兄につきます。兄を勘当されるのならば、私も兄と同じと思ってください』と言い切りなさい」(同ページ、趣意)と、まるで肩を抱えて力強く揺さぶるかのように、何度も何度も宗長の勇気と覚悟の信心を奮い起こそうとされるのである。
"幸福への道を断じて踏み外させまい"との大聖人の厳愛に呼応するように、宗長の胸中には、兄と共に信心を貫く決意が固まっていったことだろう。
さらに大聖人は「潮の満ち引き、月の出入り、また季節の境目には、大きな変化があるのは自然の道理です。同じように、仏道修行が進んできて、凡夫がいよいよ仏になろうとするその境目には、必ずそれを妨げようとする大きな障害(三障四魔)が立ちはだかるのです」(同ページ、趣意)との原理を示される。
その上で、こう仰せである。
「賢者はよろこび愚者は退く」(同ページ)
"苦難は、いよいよ大きく境涯を開くチャンスだ"と、喜んで立ち向かう「賢者」であれと、信心の姿勢を教えられるのである。
池田先生は次のように講義されている。
「一見、障魔から攻め込まれているように思うことがあるかもしれない。しかし本質は逆です。私たちが自ら勇んで成仏の峰に挑んだがゆえに、障魔が競い起こったのです」「どこまでも、主体者は自分です。永遠の常楽我浄の幸福境涯を得るために避けて通ることのできない試練である——こう覚悟した者にとって、障魔と戦うことは最高の喜びとなるのです」
魔が競い起こるのは正法の実践が正しいことの証明であることを深く確信し、喜び勇んで立ち向かっていく。ここに、「創価の賢者」の生き方がある。
◇信仰を貫き通し、ついに父が入信
池上兄弟は、前回の勘当の時にも増して心を合わせて信心に励み、父親に極楽寺良観の誤りを粘り強く指摘し続けたことだろう。その陰に、妻たちの揺るぎない信心による励ましがあったことは間違いない。
その結果、ついに父・康光が法華経の信仰に帰依する時が来た。弘安元年(1278年)のことである。
その報告を聞かれた大聖人は心から喜ばれ、宗長に送られたお手紙の中で、兄弟の団結を称賛される。師の真心に、二人はさらに報恩の決意を固めたことだろう。
入信の翌年の弘安2年(1279年)、父・康光は安らかに息をひきとる。それを伝え聞かれた大聖人は、こう激励される。
「あなた(弟・宗長)と大夫志殿(兄・宗仲)は、末法の悪世に法華経の大法を信じてきたので、必ずや悪鬼が国主と父母等に入ってそれを妨げようとするであろうと思っていましたが、予想通り、2度にわたる勘当という難が競いました。しかし、勘当を許されて父を信心させたあなた方は真実の親孝行の子ではないでしょうか」(同1100ページ、趣意)
弘安2年といえば、大聖人は熱原の法難に臨んで、厳然と指揮を執られていた頃である。その一方で、こうして門下をたたえ、さらに不退転の人生を歩めるよう、こまやかな激励を重ねられていたのである。
弘安5年(1282年)9月18日、大聖人は常陸国(茨城県北部と福島県南東部)へ湯治に行かれる途中、宗仲の屋敷に立ち寄られる。そして10月13日、池上邸で御入滅される。
翌14日に営まれた御葬送の際には、四条金吾と共に幡を持つ宗仲と、太刀を奉持する宗長の姿があった。
池上兄弟と妻たちの「難を乗り越える信心」の戦いは、大聖人が仰せになった通り、「未来までの・ものがたり」(同1086ページ)として、700年以上を経た今も、私たち信仰者の鑑として不滅の輝きを放っている。