局地的な豪雨による
河川の増水・氾濫や
土砂災害に厳重警戒!
配達員の皆様も
安全・無事故第一で!
月水御書 P1199
『法華経は一日の所作に一部八巻二十八品或は一巻或は一品一偈一句一字或は題目ばかりを南無妙法蓮華経と只一遍となへ或は又一期の間に只一度となへ或は又一期の間にただ一遍唱うるを聞いて随喜し或は又随喜する声を聞いて随喜し是体に五十展転して末になりなば志もうすくなり随喜の心の弱き事二三歳の幼穉の者のはかなきが如く牛馬なんどの前後を弁へざるが如くなりとも、他経を学する人の利根にして智慧かしこく舎利弗目連文殊弥勒の如くなる人の諸経を胸の内にうかべて御坐まさん人人の御功徳よりも勝れたる事百千万億倍なるべきよし経文並に天台妙楽の六十巻の中に見え侍り』
【通解】
法華経は一日のつとめに一部八巻二十八品、あるいは一巻、あるいは一品・一偈・一句・一字、あるいは題目ばかりを南無妙法蓮華経とただ一遍唱え、あるいは一生の間にただ一度唱え、あるいはまた一生の間にただ一遍唱えるのを聞いて隨喜し、あるいはまた、その隨喜する声を聞いて隨喜し、このように五十展転して、おわりになれば志も薄くなり、隨喜の心の弱いことは、二・三歳の幼子がはかないように、牛馬などが前後をわきまえないのと同じようにはかなくなっても、他の経を修学する人で、利根の智慧も深く、舎利弗・目連・文殊・弥勒のような、諸経の胸中に浮かべておられる人々の御功徳よりも、勝れていることは百千万億倍であると、法華経や天台・妙楽の著した六十巻の書物の中に明かされている。
名字の言 傘寿を迎える壮年が語った師弟の原点 2020年7月24日
池田先生の会長就任60周年を記念して発刊された年譜『栄光の共戦譜』。世界192カ国・地域に広がった広宣流布の軌跡がつづられている▼「私の入会は、池田先生が第3代会長に就任された1960年の5月。先生の会長就任60年の歩みは、そのまま、自分の入会60年の歩みと重なります」。間もなく傘寿(80歳)を迎える壮年が誇らしく話し始めた▼壮年の原点は、入会2年目に訪れた池田先生との出会い。"私は、何があっても諸君の屋根になる。土台となる"との先生の師子吼と振る舞いに全身に電流が走り、人生が百八十度変わったという。「この時、"この方に本気になって付いていく"と誓ったのです」▼学会活動を本格的に始めてからも、経済苦、家族との突然の別れをはじめ、宿命の嵐は猛然と吹き荒れた。それでも原点が揺らぐことはなかった。「私の場合、創価学会の世界の素晴らしさを心の底から実感できるまで50年、60年かかりました。何事もそうですが、自分が本気になって取り組まないと分かりません」▼御義口伝に「共の一字は日蓮に共する時は宝処に至る可し」(御書734ページ)と。どんな時も師匠と共に! 偉大な学会と共に!——これこそ、我らの原点であり、永遠に忘れてはならない学会精神である。(側)
寸鉄 2020年7月24日
世界青年部総会へ出発!誓いは一つ。"未来までの広布の物語"綴る挑戦を
信心で苦難に向かえば、仏の力が出る—戸田先生祈りが根本。さあ勇躍!
「父母の恩を報ぜよ」御書感謝の心を持つ人は負けない。自身が成長し輝く
炎天下でのマスク着用は熱中症に注意。自覚ないまま進行も。水分忘れず
飛び交う感染情報、不安吐露する人増加と。正確な情報確認し賢明に行動
☆新時代を築く 常勝の連帯の光を世界へ 2020年7月17日
7月17日は「大阪の日」。苦楽を分かち合ってきた関西家族は、生死を超えて、私の胸奥から離れることはない。
大阪大会の当時、戸田先生が深く偲ばれたことがある。
それは、文応元年(1260年)7月16日、日蓮大聖人が「立正安国論」で国主諫暁し、その後、松葉ケ谷の法難に遭われ、翌年には伊豆へ流罪された歴史である。
先生は「立正安国」の大精神を貫くからこそ難が競い起こることを示し、大聖人の仰せのまま一歩も退かない創価の師弟の覚悟を語られたのだ。
「この世の悲惨をなくし、不幸をなくし、人権を、人間の尊厳を守り、平和な社会を築いていくなかにこそ仏法の実践がある」と。
そして先生は、私と一緒に戦い抜いた関西の同志を最大に讃嘆され、何ものも恐れぬ「立正安国」の民衆の陣列が築き上げられたことを、何よりの誇りとされたのである。
昭和32年のあの日あの時、中之島の大阪市中央公会堂で、私は関西の誓いの友と"最後は、信心しきったものが、また、正しい仏法が、必ず勝つ"と宣言した。今や、この「負けたらあかん」の常勝の連帯は、若き地涌の世界市民に継承されている。
* * *
愛する九州をはじめ各地の甚大な豪雨被害に、重ねて心からお見舞い申し上げます。被災された方々の健康と無事安穏、一日も早い復旧・復興を懸命に祈っております。
「わざはひも転じて幸となるべし」(御書1124ページ)
「しばらくの苦こそ候とも・ついには・たのしかるべし」(同1565ページ)
御本仏の約束通り、絶対に変毒為薬できる信心です。必ず宿命転換できる仏法です。頼もしき青年部の「かたし隊」はじめ不撓不屈の創価の絆で、断じて苦難の坂を越えていかれるよう、ひたぶるに題目を送っていきます。
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信心しているのに、なぜ、さまざまな重苦に遭うのか。
大聖人は、竜の口の法難の直後、「転重軽受(重きを転じて軽く受く)」という法門を明かされた(同1000ページ)。「地獄の苦み」さえも、今生で「ぱっと」消し去ることができる。全ては、未来永遠に崩れざる成仏の幸福境涯を開きゆくためなのだ。
この御書を連名で頂いた3人の門下は、兄弟一体の仏弟子「修利槃特」のごとく、不二の団結で怯まず進んでいくように激励された。
厳しいコロナ禍にあっても、全世界の宝友たちは、まさに「自他彼此の心なく」励まし合い、社会へ希望と勇気と友情の光を送っている。
今、大きく変容する世界で「四表の静謐」への祈りこそ、人類を結び、高める力となる。
笑顔を湛えて皆を包容しゆく「立正安国」の対話こそ、いかなる試練も前進の活力に転じ、あらゆる存在を味方に変えるのだ。
異体を同心とする桜梅桃李のチームワークで、地球社会の明日へ平和と安穏を!
☆日蓮大聖人の慈愛の眼差し 光日尼 仏法は生死を超えた希望の道
◇息子を失った悲哀を乗り越え、一途に信心を貫いた安房の門下
日蓮大聖人の御生涯は、門下への励ましに次ぐ励ましであられた。
まして、息子を失い、悲しみに沈む母・光日尼への励ましは、凍てつく大地を解かす、春の陽光のようであった。
大聖人の深き慈愛に包まれ、光日尼は生きる希望を見いだし、絶望の淵から蘇生していったのである。
光日尼は、安房国東条郡天津(千葉県鴨川市天津)在住の門下で、夫に先立たれた女性である。息子の弥四郎は武士であり、「容貌も立派で、素直な感じ」(御書928ページ、趣意)であった。
光日尼が大聖人に帰依したきっかけや時期は、はっきりしないが、弥四郎は幼い頃から母・光日尼と共に大聖人のことを尊敬申し上げていた。
◇息子・弥四郎の苦悩と願い
弥四郎は、仕えている主君から、何らかの戦に参加するよう命じられていたようである。ある時、苦悩した彼は、大聖人に御指導を受けようと思い立つ。
弥四郎は大聖人の法華経の講義に出席した。大聖人の佐渡流罪以前のことと思われる。その場には知らない人も多くいたため、弥四郎は大聖人に声を掛けることはせず、後に使いの者に手紙を持たせて御指導を申し込んだ。
弥四郎は、大聖人からすぐに招かれた。大聖人と直接ご対面したのはこれが初めてだったかもしれない。これまでの経緯を詳しく述べた後、必死に訴える。
「世間は無常です。自分はいつ死ぬのか分かりません。しかも私は、武士として主君にお仕えしている身です。その上、言い渡されたことは逃れることができません。それにつけても後生を思えば恐ろしくて仕方ありません。どうかお助けください」(同929ページ、通解)と。
生命の尊厳を説く仏教を信仰していながら、生業として武器を手に取らざるを得ない。人を殺めれば地獄に堕ちてしまう——こうした葛藤は、鎌倉時代の武士が抱え込まざるを得なかった不条理であったろう。
全てを聞かれた後、大聖人は経文を引いて激励される。その御指導を受けた弥四郎は申し上げた。
「夫のいない母を差し置いて自分が先に死んでしまえば、これほどの親不孝はありません。自分にもしやのことがあったならば、母のことをよろしくとお弟子にお伝えください」(同ページ、通解)
弥四郎が孝行息子で、信心も堅固であったことがうかがえる。そして、弥四郎は、この問題を無事に乗り越えることができた。
◇訃報伝える手紙 師の渾身の激励
それから時は過ぎ、建治2年(1276年)、光日尼からの手紙が、身延の大聖人のもとへ届く。息子・弥四郎の訃報だった。
そこには、大聖人が身延に入山されて間もない文永11年(1274年)6月8日、弥四郎が若くして亡くなったと書かれていた。
この時、光日尼が深い悲しみに沈んでいたことは想像に難くない。しかも、何らかの事情があったのか、光日尼はわが子の死を大聖人に2年間、報告できないでいたのである。その間の母の苦悩はいかばかりであっただろうか。
息子の訃報を記した手紙の中で、光日尼は大聖人に質問した。
「弥四郎の後生はどのようなところに生まれるでしょうか。教えを頂きたい」(同930ページ、趣意)
生前に弥四郎が述べていた不安と重なるものがある。大聖人は返書(「光日房御書」)をしたためられる。
「届いたお手紙を開かないでいたうちはうれしかったが、今この訃報を読んだ後には、どうしてこのように急いで開いてしまったのだろうか、まるで浦島太郎の玉手箱のようであった。開けたことを悔いたものである」(同928ページ、通解)
母の苦しみに分け入り、希望の灯をともしていく。その同苦の息遣いは、まるで目の前で語り掛けているようである。
先に述べた生前の弥四郎と大聖人とのやりとりも、この返書に記されていることである。
お手紙を手にした光日尼は、息子がいかに日頃から親思いであったかを知り、胸が熱くなったに違いない。この中で、大聖人は次のように教えられている。
「たとえ大きな罪であっても、悔い改めて妙法を行ずるなら、その罪は消える」(同930ページ、通解)
「故・弥四郎殿が『悪人』と呼ばれてしまう人であったとしても、生みの母が釈迦仏の御宝前で昼夜に嘆き、追善を行えば、どうして弥四郎殿が成仏できないことがあるでしょうか。ましてや、法華経を信じていたのですから、親を導く身となられているでしょう」(同931ページ、趣意)
大聖人がどこまでも、亡き息子の確固たる信心を大切にされていることがうかがえる。そして、亡くなった弥四郎こそが、生死を超え、善知識となって、母を成仏に導いてくれるというのである。
その上でお手紙の結びで、悪知識にくれぐれも用心していくよう忠告される。また、地域の責任者である弟子と連携を取り、彼らと会うたびに、このお手紙を読んでもらうよう指示されている。
◇慈悲と勇気こそ「励まし」の根底
大聖人の大確信に触れ、光日尼の心には生きる希望が湧いてきたことだろう。光日尼は一途に信心を貫いた。数年後には、悲哀を乗り越えていった自らの信仰体験を大聖人に報告申し上げている。
大聖人はご返事を送られ、母の信心を最大限にたたえられた。「心の月くもりなく身のあかきへはてぬ、即身の仏なり」(同934ページ)と。
光日尼が信心で得た晴れやかな境涯である。それは、生死を超えて、わが子から生きる力をもらったという確かな実感でもあったろう。
大聖人の渾身の励ましによって、一人の"嘆きの母"が蘇生し、宿命転換していったのである。
後に送られたお手紙で、大聖人は、こう約束されている。
「今、光日上人は、わが子を思うあまり法華経の行者となられました。母と子は必ず共に霊山浄土に参ることができるでしょう。その時のご対面はどんなにかうれしいことでしょう」(同ページ、通解)
大聖人は「光日上人」とまで仰せである。「上人」とは当時の高僧に対する尊称だが、大聖人はそれを無名の一女性門下に贈られたのである。
生死の苦悩からの解放という仏教の根本目的から見ても、光日尼にこそ、ふさわしい呼び名であると拝される。
池田先生は、「光日房御書」の講義で述べている。
「指導は策や方法では生まれません。その人の幸福を願って徹して祈る。その心自体が自身の『仏性』を強く深く涌現させます。仏法の励ましは、その仏の智慧から生ずる励ましであり、根底は慈悲です。そして、勇気です。共に『勝利を創る』——その日まで、励まし抜くしかありません」
「励まし」の本質は、相手への同苦である。友の苦しみをわが苦しみとして、勝利の日まで共に歩み抜いていくことである。
あまりに絶望する友に、掛ける言葉が見つからなくても、すぐに悲しみを吐露してくれなくても、私たちは祈っていくことができる。静かに、力強く寄り添っていくことができる。
そして、こうした励まし合いの中で、私たちは必ずや宿命転換を成し遂げ、蘇生することができる。
いかなる状況にあっても希望を失わない、仏法者の確固たる生き方を、御本仏は示されている。