◇今週のことば
先師・恩師の法難の月。
「師子王の如くなる心を
もてる者必ず仏になる」
創価の誉れの師子は
いかなる難も越えゆけ!
2020年7月6日
聖愚問答抄上 P494
『邪正肩を並べ大小先を争はん時は万事を閣いて謗法を責むべし是れ折伏の修行なり』
【通解】
邪と正が肩を並べて立ち、大乗と小乗が争う時には、万事をさしおいて、謗法を責めなさい。これが折伏の修行である。
名字の言 具体的に現実に心を尽くす——"原爆被害者の会"の壮年の奮闘 2020年7月6日
平和の心を継承するために設立されたNPO法人"原爆被害者の会"の理事長をしている壮年が語っていた。「コロナ感染を防ぐため、人と人との物理的距離を保つことは大切。でも、恐れるべき対象はウイルスのはず。その対象が、いつの間にか『隣人』にすり替わってしまうことは防ぎたい」▼壮年は、高齢化する被爆者やその家族へ一軒一軒電話し、声を聞き、相談に乗り、心の距離を縮めてきた。今、約300人の会員から寄せられる信頼は絶大だ。壮年は言う。「どんな時も具体的に、現実に心を尽くしていく。すべて学会で培った平和創造の精神です」▼山岡荘八の小説『高杉晋作』(講談社)にこうある。「どのように高遠な識見も、それが現実に根をおろして実行されないのでは一椀の汁にも劣る」。確かに、「世界平和」や「人類愛」などを一般論で語るだけでは、人の胸に響かない。社会は動かせない▼それに対し、ある時は医師にも見放された病気の友に寄り添い、ある時は経済苦で生きる力を失いかけた友を懸命に励まし、朝な夕な"具体的"に"現実"に、民衆の幸福に尽くし抜いてきたのが学会の歴史である▼創立90周年の11月18日へ、自他共の幸福を足元から広げる創価の友。この誉れ高き連帯に連なる人生を、誇りに思う。(誠)
寸鉄 2020年7月6日
人の為、世界の為に戦うのが大聖人門下だ—恩師立正安国の大道を勇んで
祈りは心の希望を新鮮にする—文豪。今日も朝の勤行から爽やかに開始!
梅雨前線が活発。河川の増水や土砂災害に警戒。防災地図を確認し備えを
図書館で電子書籍の貸し出しが急増。良書は精神の滋養。触れる機会賢く
「元気な高齢者は魅力的」9割と。青春の心意気で生き生き進む多宝会の姿
☆日蓮大聖人の慈愛の眼差し 大田乗明 壮年こそ安心と確信の柱 2020年6月29日
◇下総地域で富木常忍、曾谷教信らと共に奮闘 大聖人から重要な御抄を頂くなど信頼厚き門下
壮年には、社会の荒波をくぐり抜けてきた経験がある。度胸がある。風格がある。
一家も職場も地域も、重鎮たる壮年世代に覇気があれば、活気があふれ、隆々と発展していく。
日蓮大聖人の御在世当時、多くの男性門下が信心の歩みを重ね、「広布の黄金柱」の壮年として活躍した。その一人が大田乗明である。
大聖人の励ましを胸に、自らの苦難と立ち向かいながら、妙法流布に生き抜いた。大聖人のお手紙からは、その求道の姿勢に対する信頼や期待の大きさをうかがうことができる。
◇妻と共に真心の供養を行う
大田乗明は、下総国葛飾郡八幡荘中山(現在の千葉県市川市中山)に住んでいた門下である。生年は大聖人と同じ貞応元年(1222年)と考えられている。早い時期から大聖人に帰依したとされ、下総方面(現在の千葉県などの一部)の中心的門下だった富木常忍や曾谷教信らと支え合いながら、純真な信心に励んだ。
大聖人が乗明、教信ら3人の門下に宛てられた「転重軽受法門」の内容から、文永8年(1271年)の竜の口の法難の直後、相模国の依智(現在の神奈川県厚木市)に留め置かれた大聖人のもとに、お見舞いを申し上げていることが分かる。この時、3人一緒に大聖人を訪ねたのかどうかは定かではないが、師匠の最大の難にあっても信心を貫いたのである。
また、大聖人が身延に入山された翌年の同12年(1275年)3月、乗明は教信との連名でお手紙を頂いている(御執筆年を、これ以前とする説もある)。当時、あらゆる難との闘争の中で、大聖人が所持されていた聖教(経釈などの書籍)の多くが失われていた。大聖人は、こうした経典類の収集を二人に依頼された。
大聖人はその際、「両人共に大檀那為り」(御書1038ページ)と記されている。「檀那」とは、在家の有力な信仰者との意味で、仏教教団を経済的に支える人を指す。「大檀那」との仰せに、いかに大聖人が、この二人の門下を重んじられていたかを拝することができる。
そんな乗明に試練が襲い掛かったのは、同じ年の建治元年(1275年)11月頃。病気に悩まされていることを、大聖人に御報告している。これに対する御返事の中で大聖人は、乗明の病気は、今までの真言の信仰を悔い改める心を起こしたゆえに、未来世に受ける重い苦しみを今、軽く受けているのであり、病を治して長寿とならないことがあるだろうか(同1011ページ、趣旨)と、万感の励ましを送られている。
また、大聖人の身延入山後も、乗明は夫人と共に、米や銭、衣服などの御供養を続けている。大聖人は、そのたびに心からの感謝の念を表されるとともに、供養の功徳は、計り知れないほど偉大であることを教えられている。
例えば、建治3年(1277年)11月に、乗明の夫人が小袖(袖丈の短い衣服)を御供養した際には、その功徳により、後生(未来世)において極寒に責められるという苦しみを免れるだけでなく、今生には種々の大きな難を払い、男女の子どもたちにまでその功徳が及ぶ(同1013ページ、趣旨)と仰せになっている。
頂いたお手紙の内容から、乗明の夫人が、信心や法門の理解の上でも優れた女性であったことがうかがえる。真心の御供養をはじめ、師匠のために尽くし抜き、懸命に信心に励む功徳は、自らを包み守ることはもちろんのこと、子どもたちにまでも及んでいく——大聖人の確信の言葉に、夫人は夫と共に、偉大な師匠と最極の妙法を持つ人生の喜びを実感したに違いない。
◇師匠の精神を後世に伝える
大聖人は、求道心にあふれた乗明の信心の姿勢を、最大に称賛されている。弘安元年(1278年)4月に送られたお手紙で、次のように述べられている。
「あなた(乗明)が、私(大聖人)の教えを聞いてからは、それまで信仰していた真言宗への執着をきっぱり捨てて法華経に帰依し、ついには自己の身命よりも法華経を大事に思うほど、強盛な信心を確立するまでになった。これはまことに不思議なことである」(同1015ページ、趣旨)
このような仰せからも、乗明が確固たる信仰の基盤を築いていたことが分かる。他の御抄では、「聖人」や「上人」とまでたたえられている。
ところで、このお手紙を頂く前に、乗明は「自分は厄年に当たっており、そのためか、心身共に苦悩が多くなりました」(同1014ページ、趣旨)と、大聖人に報告したようだ。
これに対して大聖人は、「法華経を受持する者は教主釈尊の御子であるので、どうして梵天・帝釈・日月・星々も、昼夜に、朝夕に守らないことがあろうか。厄の年の災難を払う秘法として法華経に過ぎるものはない。まことに頼もしいことである」(同1017ページ、通解)と仰せになっている。
法華経を持つ者は、諸天善神に必ず守られる。いかなる難も法華経の信仰で免れることができる——師の励ましに、大きな勇気を得た乗明は、一層、信心を深めていっただろう。
その後、乗明は「三大秘法禀承事(三大秘法抄)」を与えられている。三大秘法とは、大聖人が明かされた前代未聞の三つの重要な法理であり、大聖人の仏法における根幹である。この重書を後世へと託されたこと自体が、乗明に対する大聖人の深い信頼の表れであるといえよう。
乗明は、大聖人が弘安5年(1282年)10月13日に御入滅になられた後、その翌年の同6年(1283年)4月26日に亡くなったとされている(他の説もある)。師匠から重要な御抄を頂くとともに、最期まで、それを後世に伝えゆく、使命の生涯を送ったのである。
池田先生は、下総地域で奮闘した三人の男性門下について、次のようにつづっている。
「下総方面の中心であった、富木常忍、大田乗明、曾谷教信も壮年である。(中略)この壮年たちが、今こそ立ち上がろうと、勇猛果敢に戦い、同志を励ましていったからこそ、大法難のなかでも確信の柱を得て、多くの人びとが、信仰を貫き通せたにちがいない。壮年がいれば、皆が安心する。壮年が立てば、皆が勇気を燃え上がらせる。壮年の存在は重い。その力はあまりにも大きい」
一人の壮年が揺るぎなき信心で立ち上がり、師匠のため、広布のために尽くす実践は、全てが福徳となり、自身のみならず、一家の勝利を開いていく。そして、周囲の人々にも励ましの輪を幾重にも広げていけるのである。