◇今週のことば
広布は正義の言論戦!
ひるまぬ勇気だ。
心を揺さぶる確信だ。
声を惜しまず
朗らかに語り切れ!
2016年05月23日
崇峻天皇御書 P1173
『返す返す今に忘れぬ事は頚切れんとせし時殿はともして馬の口に付きてなきかなしみ給いしをばいかなる世にか忘れなん、設い殿の罪ふかくして地獄に入り給はば日蓮をいかに仏になれと釈迦仏こしらへさせ給うとも用ひまいらせ候べからず同じく地獄なるべし』
☆四季の語らい
「心こそ大切」である。状況がどうであれ、自分自身の胸中に「戦う心」が燃えているかどうかである。何があろうと「戦う心」を燃やし続けた、その姿が人間の「勝利」である。一時の勝敗という次元ではなく、「戦い続けた」事実によって、人間として、また信仰者として、永遠性の次元での勝者となる。その人の歴史は、必ず後世まで輝いていくに違いない。
☆女性に贈ることば 五月二十三日
笑顔はいわば、ふくよかに香る心の花である。
☆今日のことば365 五月二十三日
漠然とした一日一日を私は避ける
短いこの世にあって 怠惰を乗り越え
人々に感銘を与えながら
この新たなる人生を終わりたい
☆池田華陽会御書30編に学ぶ 開目抄�
◇師弟不二の信心で真っすぐに成仏の道を
今月は、「開目抄」の後半を学びます。法華経の行者としての日蓮大聖人の大境涯を拝し、師弟不二の信心で前進していきましょう。(池田SGI会長による本抄の講義は、『開目抄講義』上下巻〈聖教新聞社〉に収録されています)
◇本抄について
本抄は、日蓮大聖人が佐渡に着いた直後から構想され、文永9年(1272年)2月に四条金吾を介して門下一同に与えられました。
題号の「開目」とは、文字通り「目を開く」ことであり、末法の一切衆生を救いゆく「大聖人に目を開け」との呼び掛けとも拝されます。本抄は、大聖人こそが末法の御本仏であることを明かされた「人本尊開顕の書」です。
当時、大聖人だけでなく、門下にも迫害が及び、弾圧を恐れた多くの門下が退転しました。
本抄では、当時、弟子たちが抱いていた"大聖人が法華経の行者であるならば、なぜ諸天の加護がないのか"等の疑問に対し、法華経を経文通りに実践すれば三類の強敵が競い起こることは必然であり、その通りの難に遭っている大聖人こそ真の法華経の行者であると示されています。
◇拝読範囲の大意
末法において妙法弘通を貫けば、三類の強敵が出来することは法華経に説かれる通りであり、その通りの難を受けている日蓮大聖人こそ真の法華経の行者であると示されています。
その上で、どのような難に遭おうと断固、末法広宣流布に進む覚悟を示され、自らの民衆救済の誓願を破ることはできないと述べられます。そして弟子たちに、諸難に遭っても疑う心なく信心を貫けば仏の境涯を開けることを教えられます。
最後に大聖人こそ、人々が尊敬すべき主師親の三徳を具えた末法の御本仏であることを示されています。
◇御文
『我並びに我が弟子・諸難ありとも疑う心なくば自然に仏界にいたるべし、天の加護なき事を疑はざれ現世の安穏ならざる事をなげかざれ、我が弟子に朝夕教えしかども・疑いを・をこして皆すてけんつたなき者のならひは約束せし事を・まことの時はわするるなるべし』(P234ページ7行目〜9行目)
◇通解
私も、そして私の弟子も、いかなる難があっても疑う心がなければ、必ず仏界に至るのである。天の加護がないからと信仰を疑ってはならない。現世が安穏ではないからと嘆いてはならない。私の弟子に朝に夕に教えてきたけれども、疑いを起こして、皆、法華経を捨ててしまったようだ。弱い者の常として、約束したことを大事な時に忘れてしまうものである。
◇解説 「まことの時」に不退の心で広布へ
日蓮大聖人は本抄で、"大聖人が法華経の行者なのかどうか"という、門下や世間の人々の疑いを取り上げられ、難と戦う御自身の振る舞いが法華経の経文に一致することを確認されて、大聖人こそが法華経の行者であることを明らかにされています。
そして、難を乗り越えて末法広宣流布に進む法華経の行者として、大聖人は「詮ずるところは天もすて給え諸難にもあえ身命を期とせん」(御書232ページ)と、不惜身命で広布に生き抜く覚悟を示されます。
万人成仏を説く法華経の心のままに、妙法弘通の実践を貫くのが法華経の行者です。この仰せには、妙法弘通を貫く中で大聖人が開かれた、何ものにも微動だにしない境涯が示されています。大聖人は、御自身の崇高な境涯を示すことで、門下に妙法への信を貫くことを教えられていると拝することができます。
大聖人が、御自身の振る舞いを通して示されたように、難に直面しても妙法への信を貫き広布に生き抜く中に成仏はあります。このことを教えているのが、今回の御文です。ここでは"弟子たちよ"と一方的に呼び掛けるのではなく、「我並びに我が弟子」と、大聖人御自身と門下を並べられています。ここに師弟不二の精神が拝されます。
この御文には、"わが弟子たちよ、私と共に不退の信心を貫け!"との大聖人の魂の叫びが込められているのです。
そして大聖人は、難に遭っても信心を貫く時、「自然に仏界にいたる」と仰せです。大事なことは、「諸難ありとも疑う心なくば」と仰せのように、どんな苦難に直面しても、疑いや嘆きの心にとらわれることなく不退の信心を貫くことです。
これまで大聖人は門下に繰り返し、法華経の行者に難が起こることは必然であり、難が起きた時こそ信心根本に戦い抜くことを教えてこられました。しかし当時、現実には多くの門下が疑いを起こして退転したのです。「つたなき者のならひは約束せし事を・まことの時はわするるなるべし」との仰せには、こうした背景があります。
苦難にぶつかった時こそ境涯を開く「まことの時」です。その時に、真剣な祈りを根本に、師弟の誓いのまま広布に邁進する中で勝利の道が開かれるのです。
池田SGI会長は、今この時を「『世界広布新時代』という、千載一遇ともいうべき『まことの時』」と述べています。今こそ、「華陽の誓い」を果たす時。勇気の対話で師弟勝利の門を開いていきましょう。
◇理解を深めよう 三類の強敵
本抄では、日蓮大聖人が末法の法華経の行者であることを明らかにするために、法華経勧持品の「二十行の偈」が引用されています。ここには、末法に法華経を弘通する人に「三類の強敵」が現れることが述べられています。これは具体的には、俗衆増上慢、道門増上慢、僭聖増上慢です。
第1の俗衆増上慢は、仏法に無智な衆生のことであり、言葉や暴力による迫害を加えます。
第2の道門増上慢は、法華経の行者を迫害する僧を指します。邪智で心が曲がっているために、仏法を究めていないにもかかわらず、自身への執着から迫害を加えます。
第3の僭聖増上慢とは、人々から聖者のように仰がれている高僧を指します。世間から離れたところに住み、自身の利益のみを貪り、悪心を抱いて、法華経の行者を陥れようとします。言葉巧みに権力者を動かして、法華経の行者に弾圧を加えるように仕向けるのです。最も見破りにくいのが僭聖増上慢です。
悪世末法において広宣流布を進める法華経の行者に、この三類の強敵が必ず出現します。裏返せば、妙法弘通を貫いて三類の強敵を呼び起こす人こそ法華経の行者であるといえるのです。
法華経に説かれる通りに三類の強敵を呼び起こされたのが大聖人です。こうして大聖人は御自身の振る舞いを通して法華経が真実であることを証明され、そして妙法弘通を貫く中に成仏があることを示されました。偉大な妙法への確信を胸に、不退の心で進んでいきましょう。
◇SGI会長の講義から
苦難は、人間を強くします。
大難は、信心を鍛えます。
難に挑戦して信心を鍛え抜けば、我が己心に「仏界」を現していくことができる。
大難が襲ってきても「師子王の心」で戦い続ける人は、必ず「仏」になれる。
◇ ◆ ◇
「大聖人とともに」と、師と同じ決意で立ち上がり、広宣流布に邁進してこそ真の弟子です。誰人であろうと、大聖人と同じ心に立ち「日蓮が一門」(御書1360ページ)となった時、実は、すでに成仏への道は広々と開かれているのです。後は、その大道を歩み通せば、「自然に」成仏に至るのです。
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何があっても疑わない。何が起ころうとも嘆かない。その強靱な魂を持った人は、何も恐れるものはない。(中略)
「まことの時」に戦う信心にこそ「仏界」が輝くことを、断じて忘れてはならない。これが本抄の一つの結論であると拝することができます。(『開目抄講義』下巻)