「法華経の中には
女人成仏第一なり」
創価の女性の連帯こそ
人類照らす太陽だ。
母に感謝の「5・3」を!
如説修行抄 P504
『哀なるかな今日本国の万民日蓮並びに弟子檀那等が三類の強敵に責められ大苦に値うを見て悦んで笑ふとも昨日は人の上今日は身の上なれば日蓮並びに弟子檀那共に霜露の命の日影を待つ計りぞかし』
☆四季の語らい
民衆のために、死をも覚悟して行動を貫いた古今東西のリーダーたちには、不撓不屈の信念がある。そして、「革命」に人生を捧げた人たちには、深き哲学、理念がある。内から発光する"何か"を持っている。
☆女性に贈ることば 五月二日
人生にあって師をもてることは幸せであり、大きな喜びである。自らが決めた師弟の道を人生の誇りとして貫き通すところに、人間としての美しさ、尊さがある。
☆今日のことば365 五月二日
真実の幸福を願うものは、自らの幸福ばかりでなく、他の人の幸福のためにも働く人でなければならないと思う。その人こそ、真の平和を愛する人であり、また真実の幸福を与えきれる、偉大な力を持った人であると信じてよいであろう。
☆本紙創刊65周年 記念特集 池田SGI会長と聖教新聞�
◇編集スタッフを全力で育成
「聖教新聞を、日本中、世界中の人に読ませたい」——これが戸田第2代会長の熱願であった。
この心を胸に、SGI会長は、新聞の制作に携わる記者や職員の育成にも全力で取り組んできた。
小説『新・人間革命』第18巻「師子吼」の章には、1973年(昭和48年)、記者からの質問に答え、記事を書く際の精神について話す様子がつづられている。
「結論からいえば、私たちの"文"の根本は、折伏精神です。
権力の横暴など社会悪や、人間生命に巣くう魔性を、絶対に許さぬ心です。そして、断じて広宣流布し、人びとの幸福と平和の道を開き抜くぞという一念です。
この燃え上がるような学会魂をもってペンを握れば、たとえ表現は稚拙でも、それだけのものが必ず文に滲み出てくる。ちゃんと人の心を動かすものだよ。これが境涯で書くということです」
また時には若手の記者と懇談し、一人一人の生活や信心の状況にも心を配りながら、温かな励ましを送った。記事の内容や見出し、紙面のレイアウトについてアドバイスを送ることもあった。
ある時は、このように語っている。
「新聞は見出しで決まるといってよい。一本の見出しで鋭い刻印を押せないようでは、いかに記事がよくても80%勝って、最後に負けたのと同じです」
「見出しにしても、割り付け(紙面のレイアウト)にしても、現状で満足していたのでは読者に飽きられてしまう。もっと発想の転換をしていくんだ」
また、記者の心構えについても、具体的に教えている。
「創価学会は価値創造の団体なんだから、言葉にしても新しいもの、それでいて、読者の心の奥底に響いていくものを創造していかなくてはいけない。同じ言葉を何度も繰り返していたのでは、紙面はよくならない」
聖教は、正義と真実を叫びゆく民衆の「言論城」である。
ゆえにSGI会長は、世界一流の新聞たれ、とエールを送り続けている。
◇写真撮影へのアドバイスも
SGI会長は、聖教に掲載される写真についても、さまざまな観点から助言を送ってきた。
関西で行われた文化祭でのこと。聖教のカメラマンが撮影した写真は、生き生きとした参加者たちの表情を、アップで撮影したものが多かった。
SGI会長は、それらを見て、「いい写真なんだけどね。聖教には、できるだけたくさんの人を出してあげたいんだ」と。
同志が喜び、希望にあふれて前進できるようにと、常に心を配っていたのだ。
SGI会長の海外平和旅に同行してきたカメラマンは言う。
「池田先生は激務の中でも、私たちが撮った写真を毎日見てくださいました。その中で、撮影についてのアドバイスをいただくこともありました」
「"遠く離れた地で待つ会員・読者に、世界広布前進の息吹を届けたい。紙面を通して、皆に勇気と希望を送るのだ"との一念を強く感じました」
東西冷戦の最中の1974年(昭和49年)9月、SGI会長はソ連を訪問。ノーベル賞作家のショーロホフ氏と会談した。
同行したカメラマンは振り返る。
「氏のアパートに着き、池田先生は1階からスタッフの方と一緒にエレベーターに乗られました。私も乗ろうと思ったのですが、狭くて無理だと思い、階段に向かおうとしたのです。その時、先生が『乗りなさい!』と叫ばれました」
「4、5人乗りのエレベーターに肩をすぼめて乗り込みました。4階で扉が開くと、そこにショーロホフ氏が待っていたのです。
私は、お二人の一期一会の出会いの瞬間を、カメラに収めることができました。もし自分の判断で階段で駆け上がっていたら間に合わず、この瞬間を写真に残すことはできなかったと思います」
自らもカメラを握るSGI会長は語る。
「写真は戦いです。二度と来ないこの一瞬を、永遠にとどめる。これは戦いです」と。
その心は、聖教の紙面を飾る写真の中に脈打っている。
◇尊き配達員に最大の感謝
SGI会長は、広告や印刷、運搬の業務、また販売店など聖教に携わる、あらゆる人々のために心を砕いてきた。中でも配達員に対しては、「学会の宝」と心からたたえ、最大の感謝を表してきた。
「配達員・販売店制度」が発足したのは1955年(昭和30年)6月。配達員の手によって全国の隅々に聖教が届くようになった。
日刊化1周年の66年7月には、配達員の機関紙が発刊。SGI会長はその名前を「無冠」と命名した。それは「無冠の王」との言葉に由来し、「権力も、王冠も欲することなく、地涌の菩薩の誇りに燃え、言論城の王者として、民衆のために戦い走ろうとする」配達員の心意気を表したものだった。
SGI会長は、配達員のことを、深き敬意を込めて「無冠の友」と呼ぶ。
73年12月には、配達員の功労をたたえ、聖教本社で「広布使者の像」の除幕を。翌年1月の「無冠」の1面は"私の最も好きな像と共に"と、広布使者の像の肩を抱きかかえる会長の写真が飾った。
かつての「聖教グラフ」でカラーページを設ける際のこと。編集部では「海外の写真」や「美しい風景写真」を大きく掲載しようとの案が出された。しかし、SGI会長が真っ先に提案したのは、全国の「無冠の友」を紹介する企画だった。
また、ある年の4月の朝、突風が吹き荒れたことがあった。
配達員の苦労に思いをはせ、会長はすぐさま「春嵐の中、完璧に配達してくださった無冠の友に深く感謝。幸福勝利あれ」との言葉を贈った。
SGI会長はつづった。
「目が覚めると、最初に確認したくなるのは全国の天気模様。晴れならば一安心。雨や雪だと、聖教新聞の配達員さんのことを思い、胸が痛む」
また「私は聖教を手にすると、『新聞受け』のほうに向かって合掌しつつ、すべての『無冠の友』に、心からのお題目を送らせていただくのが、常であります」と。
その思いは、今も全く変わらない。