2016年5月14日土曜日

2016.05.14 わが友に贈る

信心とは勇気だ。
弱い自分に打ち勝ち
今日も挑戦の一歩を!
その実践の積み重ねが
偉大な境涯を開く。

開目抄下 P231
『順次生に必ず地獄に堕つべき者は重罪を造るとも現罰なし一闡提人これなり』

☆四季の語らい
どうすれば、皆が一番安心し、皆が一番伸び伸びと、希望に燃え、喜びに燃えて前進できるか。その一点を常に祈り、考え、全力で行動していく。それが人間主義のリーダーである。また陰で支えてくださる人を大切にし、配慮できる、こまやかさ、温かさ、責任感が真の指導者の要件である。

☆女性に贈ることば 五月十四日
叱るといっても、親が理由も言わずに、怒りにまかせて叱ってばかりいると、子どもがおびえます。そして、とにかく「慈られないように」「叱られないように」と、一種のずるさを身につけてしまうこともある。
そんなことを繰り返しているうちに、大事な時にも親の言うことに耳を傾けなくなってしまう。

☆今日のことば365 五月十四日
若い時代に、天下を取ったら、老人の意見を大事にしなければならぬ。逆に、老人となって、天下を動かすときは、必ず若い人の意見を聞いてやらねばならぬ。

☆5・3「創価学会の日」記念特集〈中〉 「母」の歌 誕生から40周年 2016年5月4日
本年、池田SGI会長が作詞した「母」の歌の誕生から40周年の佳節を迎える。「『母』の詩にメロディーをつけて、わが母を、婦人部員を、そして、世界のすべての母たちを讃えたかった」——SGI会長の願いは国境を越え、「母」は、世界13言語で愛唱されている。特集�では、5月3日「創価学会母の日」を記念し、「母」にまつわるドラマを紹介する。


 作詞 山本伸一
 作曲 松原真美・松本真理子

一、母よ あなたは
  なんと不思議な 豊富な力を
  もっているのか
  もしも この世に
  あなたがいなければ
  還るべき大地を失い
  かれらは永遠に 放浪う

二、母よ わが母
  風雪に耐え 悲しみの合掌を
  繰り返した 母よ
  あなたの願いが翼となって
  天空に舞いくる日まで
  達者にと 祈る

三、母よ あなたの
  思想と聡明さで 春を願う
  地球の上に
  平安の楽符を 奏でてほしい
  その時 あなたは
  人間世紀の母として 生きる

"庶民の母"たちを讃えて
「母」の歌——。それは1976年(昭和51年)8月5日、東京での婦人部研修会の席上、池田SGI会長から発表された。
歌詞は、71年にSGI会長が詠んだ長編詩「母」が基になっている。
その詩は、「母たちが人間革命し、さらに聡明になり、この母性の美質を、思想化していくなかに、確かなる平和の大道が開かれる」との、SGI会長の信念の結晶だった。
5年後の76年7月18日、SGI会長は、音楽大学出身の2人の女子部員に「母」の曲作りを依頼した。
"青春の思い出を歌った「森ケ崎海岸」のような曲調に"——SGI会長の要望に応え、2人は約18日間で、流麗なメロディーを紡ぎ出した。
「母」の歌が完成したのは、SGI会長の母・一さんが逝去する1カ月前のことであった。
曲を収めたテープを何度も聴いた一さんは、ほほ笑みを浮かべ、うれしそうにうなずいていたという。
戦中・戦後の苦難を勝ち越えた母へ。広布のために献身する全世界の婦人部員へ。平和を守り、未来を育む庶民の母たちへ——。
歌詞にあふれる感謝と称賛の心は、美しい「平安の楽符」と共に、不滅の輝きを放ち続ける。

歌い継がれる慈愛の心
 素晴らしく
  妙音の歌
   奏でたる
   何と偉大な
    平和の母らよ

これは、SGI会長が、婦人部の「白ゆり合唱団」に贈った和歌である。
結成54周年となる同合唱団。彼女たちが最も大切に歌い続ける曲。それが「母」だ。

♪母よ わが母
 風雪に耐え……

2番に入ると、その歌声には、一段と心がこもる。
生命を慈しみ、育み、守り抜く「母」への感謝。「母」を悲しませない心の広がりが、世界の平和に通じていくとの信念。
歌詞にあふれるSGI会長の真心を、一人でも多くの人に届けたい。日本語だけでなく、各国の言語で、「母」を歌い継いできた。
東京・信濃町の創価世界女性会館には、「母」の歌碑が設置され、SGI会長夫妻の碑文が刻まれている。
「おお 明るい母の声こそ勇気の響きなり。
母を思えば乗り越えられぬ試練はない」
師と共に、広布の草創を開いた幾多の無名の母たちに続き、宿命転換の実証を示す。その闘争の中でこそ、生命を揺さぶる歌声を響かせることができる。これが、白ゆり合唱団の魂である。
団長の佐藤みどりさん(婦人部副本部長)も、「母」を歌いながら、幾多の苦難をはね返してきた。
1999年7月の本部幹部会。佐藤さんは初めて、合唱の指揮を執った。歌声を聴いたSGI会長は、「日本一の合唱団です!」と、喝采を送った。
翌年、佐藤さんを試練が襲う。夫の省吾さんがステージ4の直腸がんと宣告されたのだ。さらに、夫婦で営む建築会社の業績が悪化し、倒産の危機に陥った。
しかし、母は屈しなかった。「池田先生、必ず勝ちます!」——歌声に師弟勝利の誓いを込めた。地区婦人部長(当時)としても、拡大に走り続けた。
その結果、医師も驚くほどの回復で、省吾さんは、がんを克服する。以来、10年以上、支部長を務め、夫婦で広布に奮闘してきた。
度重なる経済苦も勝ち越え、地元・千葉県野田市の自宅を広布の会場として提供している。4人の子も学会の庭で成長し、一家和楽を築いた。
誕生から40年。「母」は、全国の婦人部の合唱団をはじめ、壮年・青年・未来部など、各部・各地で愛唱されてきた。母の幸福と平和を願うSGI会長の心は、感動の涙、共感の拍手と共に広がっている。
◇ ◆ ◇
東京と千葉をつなぐ東西線。門前仲町・木場・東陽町の3駅区間と並行する永代通りでは毎日、公共のスピーカーから、「母」が流れている。
その慈愛と希望のメロディーに、多くの人々が勇気づけられ、人生を勝ち開いてきた。宮崎県西都市に住む松坂律子さん(白ゆり長)も、その一人。
9年前、中学2年の長男・幸太朗さんが突然、右足の痛みを訴えた。診断は「デスモイド腫瘍」。大腿部はこぶのように腫れ、歩行に障害が生じた。
福岡の病院に通っていたものの、2年後、"足の切断を覚悟してほしい"と告げられる。
切断を免れるわずかな可能性を信じ、松坂さん親子は上京。江東区の病院で手術に臨むことになった。
入院の間、松坂さんは門前仲町の宿舎に泊まり、毎日、幸太朗さんを見舞う。
あまりにも重い病状。慣れない東京での暮らし。不安を抱え、うつむきがちに横断歩道を渡っていた時、聴き慣れたメロディーを耳にした。「母」の曲だった。
松坂さんは語る。
「その瞬間、故郷に帰ってきたような気持ちになり、ほっと安心しました。"池田先生が私たち親子を見守ってくださっているのだ"と感じたのです。心が前向きになり、息子と一緒に病気と闘う元気が出ました」
その後、幸太朗さんは4回の手術を勝ち越えた。現在は、薬剤師を目指し、熊本大学で学ぶ。これまで3人の友人に弘教。熊本総県の学生部副書記長として、使命の道を歩む。
松坂さんは今年で入会40周年。くしくも、「母」の歌の軌跡と一致する。
これからも、親子の勝利劇は続く。麗しい「母」の旋律と共に——。

世界に広がるメロディー
昨年11月。48カ国・地域の女子部・婦人部のリーダーらが出席し、東京で第2回「世界女性平和会議」が開催された。
その折、日本の芸術部の代表が独唱したのは、英語版の「母」。場内は、大きな感動に包まれた。
オーストリアの元文部次官で、声楽家のユッタ・ウンカルト=サイフェルト博士は、次のように語る。
「『母』は、今や私の『十八番』です。日本以外でもよく歌ってきました」「歌い終えると、常に会場は満場の喝采に包まれます」
SGI会長と9度、会見した博士。1991年8月には、札幌での本部幹部会に来賓として出席し、「母」の歌を、ドイツ語と日本語で歌い上げた。
博士は言う。"「母」は、人々の心を和ませる曲です。全ての人に共通する希望のメロディーです"
アメリカ・エマソン協会元会長のサーラ・ワイダー博士もまた、「母」の歌を愛する一人である。
博士は、創価世界女性会館を訪れた際、白ゆり合唱団が歌った「母」に、深い感銘を受けたという。
「彼女たちの力強い歌声は、より深い理解に包まれた世界を創ろうと、ともに奮闘する女性たちの強さを示すものでした」と。
そして、こうした合唱や演奏の場にこそ、「"音楽を通じて、人間の持つ可能性を呼び覚ますことができる"との池田会長の信念が、見事に息づいています」と評価する。
母こそ、万物の「心の故郷」であり、生命を慈しむ「平和の体現者」である。
SGI会長の心は、世界へ、未来へと、永遠に伝わっていく