2016年5月19日木曜日

2016.05.19 わが友に贈る

「病によりて道心は
をこり候なり」
苦難の時こそ
宿命転換の好機だ。
断じて病魔に打ち勝て!

開目抄上 P191
『外典三千余巻の所詮に二つあり所謂孝と忠となり忠も又孝の家よりいでたり、孝と申すは高なり天高けれども孝よりも高からず又孝とは厚なり地あつけれども孝よりは厚からず』

☆四季の語らい
一人の発心は、一人にとどまらない。一波が十波、百波となって広がっていくように、そこに連なる幾多の人間へと波動していく。一人を大切にし、一人を育てるところに、民衆運動の永遠不変の方程式があるといえよう。

☆女性に贈ることば 五月十九日
他人の畑に気を取られていては、どこまでいっても満足は得
られない。
自分の畑を耕さないかぎり、人生の真の実りは満喫できない。

☆今日のことば365 五月十九日
いつの世にも、なにより美しく、尊いものは、人の情愛である。
人間の真情は、ひとたび危急におちいったときにこそ、偽りのベールをはらって、本当の顔をあらわすものだ。

☆仏法の教え 師恩に報いる 2016年5月10日
『父母・主君なれども師匠なる事はなし』(P1350)。
自他共の幸福を実現する法理である仏法を教えてくれるのは、師匠をおいてほかにない。偉大な師匠に巡り合えた喜びを深く実感するほど、挑戦への勇気が湧き上がってくる。師匠の大恩に応えようと心を定めて行動した時、"不可能のカベ"を破ることができる。このことを私は何度も体験してきた。ここでは、「報恩抄」を拝しつつ、真の報恩が誓いの信心を貫く中にあることを確認したい。

◇旧師逝去の報を受け認められた「報恩抄」
建治2年(1276年)7月、旧師・道善房の逝去の報を聞かれた日蓮大聖人は「報恩抄」を認められた。その冒頭に、多くの同志が心に刻む次の一節がある。
『夫れ老狐は塚をあとにせず白亀は毛宝が恩をほうず畜生すらかくのごとしいわうや人倫をや』(P293)
『仏教をならはん者父母・師匠・国恩をわするべしや』(同P)
恩を知り、恩に報いることは、人間として自然な感情の発露である。ましてや仏法の実践者が師匠の大恩に報いていくべきことはいうまでもない。
「報恩抄」では続いて"釈尊が説いた一切経の中で、最高の真実を伝える経典は法華経である"ことを明かされ、これまで邪義を破折したために度重なる大難に遭われてきたことについて言及。御自身の闘争の目的について『ひとへに父母の恩・師匠の恩・三宝の恩・国恩をほうぜんがため』(P323)と述べられる。
そして法華経の肝心である南無妙法蓮華経こそ、一切衆生を救済する大法であることを宣言された上で、『此の功徳は故道善房の聖霊の御身にあつまるべし』(P329)と、妙法弘通の功徳は、全て旧師である道善房の身に集まっていくとの仰せで結ばれている。

安房国(現在の千葉県南部)の清澄寺の僧である道善房は、大聖人の修学時代の師匠ではあったが、大聖人が立宗を宣言した際、念仏者である地頭・東条景信の迫害を恐れ、大聖人を守ることができなかった。
後に少し信心を起こしたこともあったようだが、念仏への執着を断ち切れずに一生を終えた。
そんな臆病な人物であったにもかかわらず、大聖人は、仏教を教えてくれた「師恩」を深く感じて"妙法を弘める功徳は全て道善房に集まる"とまで綴られたのだ。このお言葉に、師恩に報ずる姿勢が、いかにあるべきかを拝することができる。

◇北海天地で示された「弟子の道」の模範
北海道は「難攻不落の三代城」との永遠の指針を示していただいて今年で25周年の佳節を迎える。創価の三代会長が青春勝利の歴史を残してくださったことは、私たち北海道の同志の何よりの誇りである。
池田先生が北海道を初めて訪問されたのは、1954年(昭和29年)8月10日。恩師・戸田先生と共にであった。
小説『新・人間革命』第18巻「師恩」の章に当時の情景が綴られている。
「伸一を連れて厚田村に帰った戸田は、海を見ながら伸一に言った。
『ぼくは、日本の広宣流布の盤石な礎をつくる。君は、世界の広宣流布の道を開くんだ!(中略)』
その師の言葉は、強く弟子の胸を打った。
翌朝、伸一は、ただ一人、厚田の港に立った。
そして、戸田の言葉を何度も反復しながら、込み上げる無量の思いを世界に放つように、海に向かって叫んだ。
『先生! 東洋広布は伸一がいたします。世界広布の金の橋を、必ず架けます!』」
さらにこの時、池田先生は、戸田先生の崇高な生涯を綴った小説『人間革命』の執筆を心に誓われている。
今やSGIのネットワークは192カ国・地域にまで広がり、既に世界広布の盤石な基盤が整った。
この"仏教史に輝く壮挙"も、戸田先生の誓願を自らの使命と定められた池田先生の死身弘法の闘争によって結実したものであることはいうまでもない。
学会の正義を満天下に轟かせた小樽問答、日本一の結果を示した札幌の夏季折伏、権力の魔性を打ち破った夕張炭労事件と、その後も池田先生は、北海道を舞台に見事な広布の金字塔を次々と打ち立てられた。先生が、仏法に説かれる「弟子の道」の模範を北海天地を舞台に示してくださったことに、あらためて身の引き締まる思いである。

◇自分の成長を待ってくれている人がいる
池田先生は、"地球上から悲惨の二字をなくしたい"との恩師の思いを胸に、会員一人一人を励まし続けてこられた。私もまた、池田先生から大恩を受けた一人である。
少年部時代から、池田先生に何度もお会いし、温かな励ましをいただいてきたが、中でも自分の信心の原点としているのが、74年8月に創価大学で行われた中等部の全国未来会である。
当時、中学3年生だった私は、だらしない生活を送っており、成績も悪く、志望する高校への進学もおぼつかない状況だった。そんな自分を変えたいと真剣な唱題に挑戦して臨んだ会合で、先生は、"君たちを大人と思って話します"と語られ、頑健、冷静、バイタリティー、決断、責任の5項目にわたって未来の指導者としての要件を教えてくださった。
「自分の全てを信じて、成長を待ってくれている人がいる!」。この時の感動は言葉では言い表せない。「先生の弟子として、広布のお役に立てる人材に成長しよう」と決めて勉学に励み、翌年、志望校に合格。その後も、父の事業の倒産等、さまざまな苦難に見舞われたが、そのたびに、この日の池田先生の姿をまぶたに浮かべ、乗り越えてきた。
師弟の関係は、血縁関係や利害関係を超えて、はるかに尊いものである。常に励ましを送り続けてくださる師匠の存在がどれほどありがたいか。
『設ひ父母・子をうみて眼耳有りとも物を教ゆる師なくば畜生の眼耳にてこそあらましか』(P1248)
私たちが持つ妙法には、偉大な功力がある。それは大前提として、信心の姿勢、学会活動の大切さ、御書の拝し方をはじめ、現実社会においてこの仏法をいかに実践していくべきかを教えてくれる師匠の存在があって、初めて人生を勝利で荘厳することができる。
「師弟とは、究極の人間の絆である。魂と魂の真の触発であり、交流だ。なかんずく、広宣流布の誓願を分かち合い、どんな困難があろうとも戦い抜く師弟の絆ほど、尊く、強いものはないと、私は自負するのだ」(「随筆 民衆凱歌の大行進」〈桜花に誓う〉)
師匠から受けた大恩に、いかに報いるべきか。この答えは、師匠の一念に自身の一念を合致させて、広宣流布に生き抜く不退の実践の中にしかない。
具体的には、常に"師匠であれば、どのように振る舞われるか"を真剣に考えながら、目の前の同志を励まし、周囲の友に仏縁を広げていく地道な実践の積み重ねである。
私も、広布の活動に徹することで師恩に報いようと、壮年部員の方々の家に伺い、相手の悩みに徹して耳を傾け、「一緒にお題目を唱えて乗り越えましょう」等、相手の心に届くよう訴え掛けている。

『我日本の柱とならむ我日本の眼目とならむ我日本の大船とならむ等とちかいし願やぶるべからず』(P232)との誓願のままに正法弘通の生涯を貫かれた大聖人。「開目抄」のこの一節は、私が心に刻む御聖訓である。
青年部時代に広宣流布を誓い、生涯にわたる師弟共戦を決意した。いかに年を重ねようと、いな、年を重ねるごとに、青春の誓いを思い起こし、師匠の大恩に感謝し、いよいよの決意で広布に邁進していきたい。「難攻不落の三代城」である北海道から、新たな広布拡大の潮流を起こす決意である。