日蓮仏法は
世界最高の希望の哲学!
学び抜いた皆が英雄だ。
応援する同志にも
心から感謝!
顕謗法抄 P452
『後世を願はん人は一切の悪縁を恐るべし一切の悪縁よりは悪知識ををそるべしとみえたり』
◇希望の明日へ
南アフリカでは、長年、抑圧され、奴隷状態に置かれてきた黒人による「人権闘争」が続けられている。この炎は、激しく、とても消えそうにない。なぜか−−。それは「炎」を支える、十分すぎるほどの精神の「燃料」が、蓄えられているからだ。その「燃料」とは、単なる「憎しみ」ではない。「憎悪」だけで進んだのでは、「人格」は自壊へと向かう。「人格」が壊れれば、「人権闘争」の主柱を失うであろう。今、燃えているのは、「誇り」である。権力のかぎりを尽くす、悪しき「白人」を、むしろ"卑しき、ちっぽけな存在"として見おろしている−−いわば「黒人の尊厳」の自覚が燃えているのである。
平3・6・8
☆女性に贈ることば 九月二十九日
「自分なんかもうダメだ」と思うような瀬戸際の時がある。実はその時こそが、自身の新しい可能性を開くチャンスなのである。わが人生を敗北から勝利へ、不幸から幸福へと大転換しゆく分かれ目が、ここにある。
☆今日のことば 九月二十九日
まことの指導者は、一人が百歩前進することより、百人を一歩前進せしめることを常に考えているものだ。
☆我らの勝利の大道No.115 御書根本の勇将たれ
◇師子吼が「文字」に
本年は、大聖人が法本尊開顕の書である「観心本尊抄」を著されてより、七百四十周年にあたる。
竜の□の法難を経て佐渡に流罪されて三年目(文永十年=一二七三年)の御執筆であられた。
佐渡での大聖人の境遇は過酷なものであった。その身命を削られての御苦闘は今、青年たちが研鎖している「種種御振舞御書」にも克明に記されている。
佐渡で最初の冬を越されたのは、『天井は板間が合わず、四方の壁は破れて雪が降り積もって消えることがない』(P916、通解)ような、粗末な塚原の三昧堂であった。衣食にも事欠かれていた。
その厳しい冬を乗り越えられて、一谷に住まいを移されたが、念仏の強信者の監視下に置かれ、命を狙われることもあった。
しかし、大聖人は執筆の手を休められなかった。状況が厳しければ厳しいほど、徹して書き続けられた。
紙の調達も困難で、一枚も無駄にはできなかった。
例えば「観心本尊抄」は、十七枚の紙の表裏にぎっしりと書き込まれでいる。そのうち十二枚は普通の和紙だが、残りの五枚は、裏の字が透けるような、小さく薄い雁皮紙である。
その貴重な紙に綴られた終盤には、『天晴れぬれば地明かなり法華を識る者は世法を得可きか』(P254)等の御聖訓が、雄渾なる筆跡で記されている。
命に及ぶ迫害の只中にあって、不屈の魂で民衆の幸福のために言論闘争を貫かれた御生涯を拝する時、感涙を禁じ得ない。
『仏の御心はこの文字に備れり』(P1122)と仰せの如く、御書を開き拝せば、時空を超えて、大聖人の大師子吼が、烈々と生命に轟いてくるのだ。
現代にあって御書に直結し、大法弘通の実践を貫いている門下は、創価の師弟の他に絶対にない。
学会は、これまで、幾度となく、年間のテーマを「教学の年」と掲げ、大いなる前進を続けてきた。
最初の「教学の年」は、五十年前の昭和三十八年(一九六三年)であった。
恩師・戸田城聖先生に誓つた「三百万世帯の拡大」を達成して、意気軒昂に迎えた年である。
勝ち戦の時にこそ、永遠に絶対勝利の因をつくらなければならない。
年頭の一月二日、私はリーダー千二百人に自ら「法華初心成仏抄」を講義することから出発した。
続いて六日には、全国で任用試験が行われた。
年末年始、研鎖に励んでこられた尊き「庶民の博士」の方々を少しでも労いたいと、私は受験会場を何力所も回った。子連れの親御さんも多くおられた。
「一人も残らず未来の大指導者に」と、お子さん方を激励したことも懐かしい。
八日には羽田空港から、アメリカ、欧州、アジアと、約三週間で世界を一周する広布旅に飛び立った。
私は空港まで見送ってくれた友に語った。
−−世界の広宣流布のために、十年、三十年、百年先の布石をしてくるよ、と。
行く先々で、教学試験も行った。まだ海外の同志が少ない時代である。多くは宿舎にメンバーを招いての口頭試問であった。しかし、誰もが皆、真剣であった。
友の求道心に応えながら、私が心がけたことは、国情や文化、民族性などを進んで学び、深く理解することである。その国その地域に即し、仏法の人間主義を伝える方途を見極めていくことである。