人材こそ宝なり。
人材こそ力なり。
一人また一人と
新しい人を伸ばす。
ここに未来の希望が!
四条金吾殿御返事 P1151
『申すままにて候あいだいのり叶いたるやうにみえて候』
◇希望の明日へ
仏法の根本は慈悲である。慈悲があれば、戦争は起こらない。民衆一人一人への温かい共感と同苦の力、庶民の心を、つつみ込む豊かな慈愛の力−−。これこそ、あらゆる指導者にとっても、目標とすべき点であり、謙虚に身につけていくべき要件であろう。
平1・12・24
☆女性に贈ることば 九月十日
いかなる邸宅に住もうが、貧しい小さいあばら屋に住もうが、母は母である。
母の慈愛の大きさと力と行動が、真実の心の邸宅の大きさである。
☆今日のことば 九月十日
仕事に不満を持つ人は敗北者である。それは、環境に支配されきっているからだ。どんな環境にあっても、そこを楽しい世界にかえてゆく人こそ、人生の勝利者といい得るのである。
☆我らの勝利の大道No.113 平和の道友情の橋
青年が
立ちて平和の
城光る
その日、[九五七年(昭和三十二年)の九月八日は、台風一過の晴れわたる日曜日であった。
それは、恩師・戸田城聖先生が、横浜・三ツ沢の競技場に集った五万人の若人たちを前に、不滅の「原水爆禁止宣言」を発表された日である。
核兵器の本質を、人類の生存の権利を奪う魔性であると喝破され、この邪悪との大闘争を訴えられた戸田先生の師子吼は、今も我らの魂に轟いて離れない。
◇「日中提言」の熱願
あの日、先生は、「遺訓の第二として、この生命尊厳の平和思想を全世界に弘めることこそ、青年の使命であると強く叫ばれた。
「思想を弘める」とは、「対話を広げる」ことだ。魂から魂へと、深き共鳴を広げゆくことだ。
私にとって九月八日は、来る年来る年、弟子として決意も新たに、平和を祈り、平和への対話を起こす日となっていた。
だからこそ、私は、この日を選んで、「日中国交正常化宣言」(一九六八年)を発表したのである。
四十五年前、墨田区両国の日大講堂に、わが英知の学生部一万数千人が勇んで大結集した総会の席上、私は強く訴えた。
「諸君が、社会の中核となった時には、日本の青年も、中国の青年も、ともに手を取り合って、明るい世界の建設に、笑みを交わしながら働いていけるようでなくてはならない」
戦争と分断の悲劇の時代を生きてきた一人として、叫ばずにはいられない熱願であった。私は展望した。
「日本、中国を軸として、アジアのあらゆる民衆が互いに助け合い、守り合っていくようになった時こそ、今日のアジアを覆う戦争の残虐と貧困の暗雲が吹き払われ、希望と幸せの陽光が燦々と降り注ぐ時代である」と。
さらに国際社会の動向を見据えつつ、「核時代の今日、人類を破滅から救うか否かは、国境を超えた友情を確立できるか否かにかかっているといっても過言ではない」と論じていった。
私は、あえて「友情」と言った。国交といい、外交といっても、絶対に忘れてならないのは、根本の人間の交流であるからだ。民衆の連帯であるからだ。
その友情と信頼の絆を強固にしてこそ、国家間の諸関係も安定する。人類の生存の権利を脅かす魔性も打ち破っていける。
そして、青年こそ、この「友情」の中核となってもらいたいというのが、私の大いなる希望であった。
思えば、中国革命の父・孫文先生を支えた盟友であり、日中友好に尽力した九州出身の実業家・梅屋庄吉翁は語っている。
「如何なる時変あるも親友の間には最後なし」
「先ず無限に友を作れ」
この八月、中華全国青年連合会(全青連)の招聘をいただき、わが学会青年部の友好交流団が訪中した。北京、青海省、そして上海を訪れ、誠に意義深い友誼を結ぶことができた。
今回、交流団が初めて訪れた青海省は「三江源」ともいわれ、長江(揚子江)、黄河、そして瀾滄江(メコン川上流)の源流を擁しているという。
この地で少数民族の方々とも新たな友情を開いてきた青年たちの報告を聞きながら、私には天台大師が言われる「源遠流長」の意義が思い起こされた。
全青連と学会青年部との交流も、三十年近い黄金の歴史を刻んでいる。
時代、時代に、いかなる波浪があろうとも、原点とする「友好」「友情」の源流からは絶対に離れない。忘れない。死守し抜く。
この揺るがぬ信念がある限り、我らの友好の大河は万代までも滔々と流れ通っていくに違いない。