「火をきるに・
やすみぬれば火をえず」
苦難の時こそ
強盛な信心を貫け!
断じて最後に勝て!
佐渡御書 P957
『肉をほしがらざる時身を捨つ可きや紙なからん世には身の皮を紙とし筆なからん時は骨を筆とすべし』
◇希望の明日へ
徹して一人を守る"慈愛の精神"。正法を棍本に、その精神が脈動しているかぎり、学会は万年にわたって栄えゆくことは間違いない。何より、御本仏・日蓮大聖人が讃嘆され、守ってくださることを確信する。
平3・4・10
☆女性に贈ることば 九月十一日
遠く離れた他国の人も、身近の人も、同じ人間である。
他者の苦しみに胸を痛める、同苦の心。
他者の幸福を願う、やむにやまれぬ祈りの心。
この女性の心が、世界に友情を広げる「心の国際化」の扉を開く。
☆今日のことば 九月十一日
真実の友情は利己主義や、独善の支配している人間のなかには芽ばえない。たえず、自分を反省し、成長を図り、同時に、友を思い、ときには自分を犠牲にしても相手の幸福を願っていくところにこそ、真の友情はあるといえよう。
☆我らの勝利の大道No.113 平和の道友情の橋
◇「九月一日」に祈る
本年の九月一日(防災の日)は、「関東大震災」から九十年の節目にあたる。
一九二三年(大正十二年)のその日、午前十一時五十八分に相模湾北部で起こった大地震によって、神奈川、東京を中心に関東一帯は甚大な被害を受けた。
東京で最も痛ましい被害が出たのは、今は都立横網町公園(墨田区)となっている陸軍被服廠跡であった。
大地震の直後、この広大な跡地に、多数の被災者が布団や家財道具を持って避難していたところへ、折からの強風で周囲から飛び火し、大火炎に包まれてしまったのである。
こうした二次災害によって、この地だけで約三万八千人もの尊い命が失われた。関東大震災の死者・行方不明者の総数は約十万五千人といわれており、あまりにも悲惨な災難であった。
"民衆の都"の、ここ下町一帯は、後に東京大空襲でも甚大なる被害を蒙った。
私も、若き日から友と奔走した宿縁の地域である。近くの同志のお宅に伺った折には、一緒に勤行をさせていただき、大震災と大空襲の犠牲者の方々へ追善の題目を捧げ、国土の安穏と繁栄を深く祈念した。
「立正安国」の祈りをいやまして強めるとともに、防災の備えと安心・安全の人間のネットワークを一段と堅固に築いていきたい。
◇救援に走った真心
この関東大震災の急報に接し、海を隔てた中国で、多くの人びとが日本の救援に立ち上がられた。
上海では、震災の翌二日から、電光石火で義援金十八万五千元が集められ、白米五千九百五十包、麦粉二万包などの生活必需品が購入された。そして「新銘号」という汽船で日本へ送り出され、十二日には神戸港に到着したのである。
これが、海外から届いた救援物資の第一号であった。さらに十月にも、二度にわたり多数の救援物資が送られている。
日中友好の先達であり、大文豪・魯迅先生と深い親交を結んだ内山完造氏は、上海の地で中国の人びとの真心に触れ、「渡る世間に鬼はないということを、しみじみと味わうことが出来た」と回想している。
この上海における懸命な救援活動の先頭に立って尽力された人物が、著名な書画家・実業家であり、孫文先生の同志であられた王一亭先生である。
救世救民の熱誠に燃えておられた王一亭先生は、震災の犠牲者への鎮魂の願いを込め、梵鐘を鋳造し、日本に寄贈する活動にも従事されている。
中国の著名画家の協力を募り、上野での日中文化展覧会において書画の展示即売を行い、鐘楼建設を資金面でも支えられた。いわば、中国の「文化」「芸術」の力を、日本の復興支援に差し向けてくださったのだ。
あの凄惨な被災地となった被服廠跡に、震災の慰霊堂(当初は震災記念堂)とともに鐘楼が完成し、この梵鐘が打ち鳴らされたのは、大震災から七年後の一九三〇年(昭和五年)十月一日のことであった。
それは、生命尊厳の哲理を根底とし、平和と共生の社会の建設を展望した、わが創価学会創立の一ヵ月半前でもあった。
ともあれ、苦難の渦中に結ばれた友情−−その尊い歴史を忘れてはなるまい。
東日本大震災が起こった時に、真っ先に救援に駆けつけてくださった国の一つも、お隣の中国であった。歎難を共有し、乗り越えてきたとの思いが、新しき希望の未来を紡ぐのだ。