堅塁城・大中部よ!
日本の中心から
歴史を開く大攻勢を!
誓いの「この道」を
断固と走り抜け!
佐渡御書 P958
『心は法華経を信ずる故に梵天帝釈をも猶恐しと思はず』
◇希望の明日へ
手本といっても、決して特別のことではない。ただ、自分が夢を失っていて、子どもに夢を抱けといっても、むなしく響くだけであろう。押しつけにさえなりかねない。その意味で、親子ともに夢という太陽に顔を向けて生きる、太陽に向かって伸び続ける、そんなヒマワリ畑のような「成長家族」こそ、子どものすばらしい可能性をはぐくむ大地となるのではないだろうか。
『主婦の友』平5・1月号
☆女性に贈ることば 七月十日
自らが決めた道を歩めること自体、幸福なのである。ゆえに、健康な時に労を惜しまず、働くことである。努力することである。前進することである。
☆今日のことば 七月十日
私は バラ色の人生を欲しない
真の頂上という人間の限界に
挑戦しゆくところに
処女峰が見いだせることを
知ったからだ
☆我らの勝利の大道No.108 七月に翻る正義の旗
◇一人立つ勇者の団結で進め
忘れまじ
あの日覚悟の
法難に
蓮祖の如く
厳たる先師を
日蓮大聖人は、悠然と仰せになられた。
『幸いなるかな我が身「数数見損出」の文に当ること悦ばしいかな悦ばしいかな』(P963)
文永十年(一二七三年)の七月六日に、佐渡の地で認められた御聖訓である。法華経に説かれる通りに、二度の流罪に遭われたことを「幸い」とされ「悦び」とされている。
この巌の如き御本仏の御境涯を拝しながら、忍難弘通の道を現代に示されたのが、牧口常三郎先生であり、戸田城聖先生である。
本年、七月六日は、両先生の法難から七十年である。
戦時の日本は、国家主義による思想統制を目論み、推し進めていた。
信教の自由を護らんと、断固これを拒否した両先生は、軍部政府によって投獄されたのである。
しかし、恐れや悲壮感など、微塵もなかった。
牧口先生か、獄中からご家族に送られた書簡には、「大聖人様の佐渡の御苦しみをしのぶと何でもありません」等と記されている。
過酷な尋問さえも、弘教の場となった。
戦乱や天災地変の国難にあって、どうすれば、一人ひとりに安穏な幸福が到来するか。理想社会の建設のためには、正しい生命尊厳の哲理が必要である──。
宗教の正邪を論じ、「立正安国」の法義を譚々と語っていかれた。
当時の看守など関係者の中には、両先生の信念の師子吼が種となって、後に入会した人もいる。
いずこであれ、いかなる境遇であれ、そこで師子吼する。正義の旗を掲げ、戦い抜いていく──ここに、学会精神の真髄がある。
我らが妙法を唱え、広宣流布のために、決然と対話に打って出ることは、日蓮大聖人に直結し、創価の師父である両先生の如く戦うことだ。
「師子王の心」が脈打ってこないわけがない。
御聖訓には、『願くは我が弟子等は師子王の子となりて群狐に笑わるる事なかれ』(P1589)と厳命されている。
「師子王の子」すなわち一人立つ勇者の結合こそ、創価のスクラムである。
両先生の法難七十年──師弟の魂を燃え上がらせ、威風も堂々、「立正安国」の対話を広げる時は来た。
◇麗しき人間の絆を
アメリカの思想家エマソンの著名な研究者であるワイダー博士と、私がお会いしたのは、七年前の七月であった。快活にして聡明な詩人である博士の笑顔とともに、語らいは始まった。
博士は強調されていた。
「エマソンは、互いに『真に人間的な絆』を結ぼうと、私たちに呼びかけました。二十一世紀においては、これこそが私たちが取り組むべき最大の挑戦ではないでしょうか」
その通りだ。人間と人間の麗しき絆を結びゆく挑戦の対話を、今日から明日へ、いやまして朗らかに、我らは続けていきたい。
一つの対話から、さらに次の対話が生まれ広がる。
これが「立正安国論」に示されている、対話を機軸とした、「人間革命」から平和創出への希望の連動なのである。
ワイダー博士は、東日本大震災の被災地に足を運ばれ、励ましの詩心薫る東北家族とも、生命の共鳴の対話を重ねられた。
その東北は「七月三日」を方面の日として、勢いよく前進している。
二十年前(一九九三年七月)の北海道南西沖地震から不屈の復興を果たされた奥尻島の同志も先日、誓い光る集いを開催された。
わが同志が社会の安穏を願って奔走される姿は、なんと誇り高いことか。
私が平和への祈りを込めて、初めて沖縄の那覇を訪問したのは、昭和三十五年(一九六〇年)の七月十六日。大聖人が「立正安国論」を提出されてから七百年の日であった。
炎暑の沖縄で、誉れの賢者たちは、広布の理想郷の建設に、喜び勇んで黄金の汗を流してくれている。