熱中症に注意!
決して無理はせず
十分な水分補給と休息
賢明な室温調整を!
健康が勝利の根本だ。
蓮盛抄 P153
『止観に云く「師に値わざれば邪慧日に増し生死月に甚し稠林に曲木を曵くが如く出づる期有こと無けん」云云』
◇希望の明日へ
子どもはよく見ている。明朗、向上心、思いやり、聡明、信頼、楽観主義の強さ。そんな母の後ろ姿を、大人が思っている以上に、敏感にとらえている。嘘はつけない。ごまかせない。父親の振る舞いも、同じであろう。
『主婦と生活』平4・1月号
☆女性に贈ることば 七月九日
目先のことばかりにとらわれて、あれこれと揺れ動く人生は、愚かである。
自分自身の胸中には、つねに充実という心の宮殿が輝いている--そんな、はつらつたる人生でありたい。
☆今日のことば 七月九日
僕は 僕らしい一生をはばたくために
悲しい日々も
決して 愚痴だけはいいたくない
☆学園抄第5回 自然の中で学ぶ
◇ここから人材が
小平市から南接する国分寺市にかけ、中学、高校、小学校が並ぶ東京・創価学園。高校校舎と第1グラウンドの間に、東西へ延びる水と緑の道を挟む。
江戸時代から東京を潤す玉川上水である。上水沿いの緑道は「哲学者の道」と呼ばれる通学路。
朝は爽やかな木漏れ日が差し、帰りはやわらかい夕日を浴びる。枝葉は突然の雨を弱めて学園生を守り、秋には色づいて道を飾る。
83年(同58年)1月16日。創立者は第1グラウンドでサッカー部を励まし、栄光寮で会食に臨んだ。
「なぜ、この小平の地に学園をつくったか」
創立時のことを語り始めた。師の言葉も思い返す。
「戸田先生から、教育の一つの条件として、環境のよいところが大事だとうかがっていた」
玉川上水の清流。武蔵野の緑。富士山が見える。都心から遠くない。小平に創立した理由を挙げる。
「皆さんが、できるかぎり立派な、偉大な社会のリーダーに成長していただきたい、との悲願でつくった」
−−60年(同35年)4月。学会の第3代会長就任に先んじて小平を訪れ、教育事業の手を打つ。4年後、建設予定地で開かれた学会の野外研修で構想を述べた。
「将来、学校をつくるんです。未来へ羽はたく人材が、ここから陸続と巣立っていきます!」
迎えた第1回入学式(68年4月)。玉川上水に架かる「栄光橋」で。
「彼方の山と川、武蔵野の平野と木々の緑に囲まれている。山は王者であり、川は純粋な精神である。武蔵野の平野は限りない希望を、そして、緑は潤いのある人生を表している。どうか、この栄光橋を渡る時、自分も栄光の人生を渡っているとの確信に燃え、進んでほしい」
折々に校内で、生徒たちと"緑陰懇談"を重ねてきた。
「哲学者の道」「栄光橋」から「おとぎの道」を歩いて通う東京小。「おとぎの森」などの自然に包まれて学ぶ。
79年(同54年)10月31日。創立者が「いもほり大会」に参加した。
「早く掘ろう!」
創立者の"いもほり初め"に続き、児童が掘り始めた。尻もちをつく子。友だちに手伝ってもらう子。自分の顔ほど大きなイモを手に喜ぶ子。土と格闘する一人一人に、創立者が声を掛けていく。
学会の会長辞任から半年。だが創立者は創立者。何も変わらない。学園生の輪に入り、触れ合う。励ます。原点をつくる。
「こういう教育が大事なんだよ」と教員に語る。
「教育には表と裏がある。教室の勉強は表。このようなことは裏だ。僕は裏をやるよ」
枚方の関西小でも環境に心を配ってきた。
開校前の81年(同56年)11月21日に視察。校内の一番奥、竹林まで行った。
「春になってタケノコが出るのが楽しみだね」
児童が駆け回る姿を思い
「平和竹林」と名付ける。後年、児童に呼び掛けた。
「この青竹のようにまっすぐに成長しながら、友情という根っこでがっちりとスクラムを組んで、お友だちと仲よく、勉強に運動に頑張ってください」
今、交野の関西校の「水蓮の池」で、あるスイレンが花開いている。
フランス印象派の巨匠モネの傑作「睡蓮」。そのモデルになったとされる、パリ郊外の旧宅から贈られた"モネの睡蓮"である。
約2000年の眠りから蘇った大賀ハスや、白万々ハス、紅万々ハスなども開花が近づく。蓮保存会が丹精して育てている。
花と緑とロマン薫るキャンパス。至るところを創立者が命名してきた。
万葉の池、天女の池、羽衣橋、春雨の庭、白銀の庭、乙女の坂、紳士の道、ミルキーウェイ……。
学園には、桂冠詩人の心の世界が広がっている。