2012年6月7日木曜日

2012.06.07 わが友に贈る

「異体同心なれば
万事を成し」
我ら地涌の団結に
破れぬ壁はない!
法華経の兵法で勝て!

上野殿後家尼御返事 P1504
夫れ浄土と云うも地獄と云うも外には候はずただ我等がむねの間にあり、これをさとるを仏といふこれにまよふを凡夫と云う

◇希望の明日へ
魂を込めた仕事は永遠に朽ちない。それは、時を超えて、魂が魂を揺さぶるからである。反対に、小才や手先の器用さで作り上げたものは、どれほど見栄えよく整っていても、深い感動を与えない。見る人が見れば、すぐにわかるものだ。人生という"作品"も、また同じである。
平2・11・7

☆我らの勝利の大道No.74 使命の大地 平和の島
「宝玉(たからだま)やてぃん/磨かにぱ錆す/朝夕(あさゆ)肝磨(ちむみが)ち/浮世(うちゆ)渡ら(宝石も磨かなくては錆びてしまう。朝晩心を磨いて、世の中を生きていこう)」
このほど、県民愛唱歌に制定された「てぃんさぐぬ花」(鳳仙花)の歌詞の一節である。
いい言葉である。まさに心を鍛え、心を磨き、心を込めて生きるのだ。
私の沖縄訪問は十七回を数える。沖縄での一日は「一年分」−−私は、常にこの思いで戦ってきた。
今を逃せば、いつ、また、来られるか分からない。いつ、会えるか分からない。
一瞬一瞬が「一期一会」である。だからこそ、徹して友と会い、友と語り、友と動いた。だからこそ、思い出は、交響曲のように胸中に響いている。

万里の波濤 乗り越えて
世界に挑む 雄叫びは
沖縄健児の 大使命

那覇市に建った沖縄本部の落成式(昭和三十七年七月)では、会場に入りきれなかった友のために、私が屋上に出て指揮を執り、「沖縄健児の歌」を一緒に歌った。
私が小説『人間革命』の執筆を開始(昭和三十九年十二月二日)したのも沖縄の中心地・那覇であった。
本土復帰の日が近づく、昭和四十七年の一月、私は沖縄で二番目の宝城となるコザ会館(現・中頭文化会館)の開館式に出席した。
当時、基地の街・コザ市(現・沖縄市)では、米兵による横暴な事件に市民の怒りが沸騰し、非常に緊迫した状況が続いていた。
そこに私は訪れた。人心が揺れている時なればこそ敢然と行った。友と記念のカメラに納まった写真は、宝の一葉となっている。
翌日には、古くから「てだご(太陽の子)」の街として名高い浦添市の同志たちとも、記念撮影を行った。
会場の正面に、約二千個の真心のフラワーペーパーで「沖縄は底抜けに明るく前進します」との文字が鮮やかに浮かんでいた。この言葉の通り、沖縄の友は、民衆の連戦連勝の叙事詩を、底抜けの明るさで勝ち綴ってくれている。
昭和四十九年には、念願の八重山・宮古を訪問し、共に語り、共に歌い、共に舞いながら、皆様方と生涯忘れ得ぬ交流を結んだ。
西暦二〇〇〇年には、「戦争の世紀」といわれた二十世紀にピリオドを打ち、沖縄から「平和の世紀」へと転換しゆく希望の祭典が行われた。宜野湾市の沖縄コンベンションセンターでの「世界青年平和大文化総会」である。
あの時、出演したメンバーの多くが、青年部の中核として、壮年・婦人部の若きリーダーとして活躍してくれている。青春の誓いに生き抜く闘争ほど、尊く偉大な勝利の人生はない。
昨年末には「響け! 太陽の島から平和の歌声!」をテーマに、沖縄の"青年平和大会"が楽しく賑やかに開催された。