2012年6月5日火曜日

2012.06.05 わが友に贈る

友好の拡大こそ
仏法者の使命だ!
地域交流を大切にし
活気と希望を送ろう!
わが町の幸福責任者たれ。

檀越某御返事 P1295
『御みやづかいを法華経とをぼしめせ、「一切世間の治生産業は皆実相と相違背せず」とは此れなり』

◇希望の明日へ
いずれの立場、分野にも自身の力を発揮するチャンスは必ずある。また地道な努力の姿を、見る人は見ているものだ。人生というものは、どこでどう開けていくかわからない。いわんや強盛な信心を根本とした努力には、妙法の因果の理法は厳然である。供生神(人の行為の善悪を記し、間魔王に報告する神)が、そして何よりも御本仏が、すべてを御照覧くだきっていることは間違いないのである。
平2・6・26

☆我らの勝利の大道No.74 使命の大地 平和の島
墨田区両国の日大講堂は、私が「日中国交正常化提言」をはじめ、立正安国の祈りを込めて、幾度も社会への発信を行った殿堂である。
四十五年前の昭和四十二年には、沖縄の本土復帰を強く求めて提言した。
美しき海と豊かな文化の宝島・沖縄。残酷な戦争に蹂躙され、戦後は米国の施政権下、政治の矛盾に翻弄され続けてきた沖縄−−。
その苦悩の歴史に思いを馳せ、私は沖縄返還を叫ばずにいられなかったのだ。
民衆の苦渋と忍耐と苦闘の末に、遂に沖縄の本土復帰が実現したのは、五年後、昭和四十七年の五月十五日であった。
「沖縄よ/傷はひどく深いときいているのだが/元気になって帰って来ることだ」とは、返還の日を見ずに亡くなった沖縄出身の詩人・山之口貘氏の痛切なる願いであった。
悲願の返還より、今年で四十星霜−−。
わが胸に、沖縄の友と歩んできた平和の建設の日々が熱く蘇る。
「ようこそ 沖縄のみなさん」−−設営の同志の真心こもる巨大な横幕が千代田区の日本武道館に掲げられたのは、復帰から二週間後の五月三十日であった。
この日、沖縄の代表が遠路、参加して、本土復帰の記念の意義も込めて、本部幹部会が開催されたのだ。
席上、私は沖縄から勇み集った二十五人の同志や沖縄出身者の労苦を偲びつつ、皆の代表として、初代支部婦人部長と、病で亡くなった夫君の、あまりにも健気で尊い心を讃えた。
「沖縄の人びとを幸福にしたい、沖縄を永遠の平和の島にしたい」−−これが沖縄中を駆ける妻と見守り励ます夫が、生死を超えて共有した熱願であった。
私は、夫妻の崇高な軌跡を紹介しながら、共に広布の決意に燃えて戦う沖縄の同志にエールを贈った。
本土復帰の実現は、新たな出発なのだ。いよいよ、世界に輝く「幸福の島」の大建設が始まるのだ!と。

素晴らしき
 宝の島を
  つくらむと
 走りし日々は
  黄金の功徳と

私が返還前の沖縄への第一歩を印したのは、会長就任直後の昭和三十五年の七月十六日であった。
乱世に民衆が苦しむなか、日蓮大聖人が「立正安国論」を提出されて七百年という意義深き日である。
『汝須く一身の安堵を思わば先ず四表の静謐を(いの)らん者か』(P31)
大聖人は、この世に崩れざる平和と幸福を築くことを、根幹の祈りとされた。
蓮祖の民衆救済の御精神に照らして、私には一貫して変わらぬ信念がある。
それは「一番苦しんだところが、一番幸せになる権利がある」ということだ。
そして「一番苦労した人が、一番晴れがましく勝利することこそ、すべての人びとの希望となり、勇気となる」ということである。
妙法には、国境も障壁もない。わが沖縄の友が宿命の涙を拭って勝利しゆくことは、人類を救済する広宣流布の先駆なのだ。
到着の翌十七日、私は、那覇市内での支部結成大会に臨み、烈々と訴えた。
沖縄よ、広布先駆の息吹となりゆけ! 全学会の推進力と立ち上がれ!
夕立がさっと上がって日が差したように、日焼けした尊き友の笑顔、また笑顔が決意に弾けた。

沖縄に
 勝利輝く
  歴史あり
 巌の如き
  信念忘れず