2011年11月30日水曜日

2011.11.30 わが友に贈る

新入会の友を大切に!
悩みや意見や要望を
じっくりと聴くことだ。
一人に心を砕いてこそ
広布の未来は開かれる。

妙一尼御前御消息 P1252
譬えば一人にして七子有り是の七子の中に一子病に遇えり、父母の心平等ならざるには非ず、然れども病子に於ては心則ち偏に重きが如し

◇希望の明日へ
日蓮大聖人の仏法では"死んで仏になる"のではない。これがもっとも大事な点である。"生きているうちに仏になる"。その"一生成仏"のための信心である。"死後の幸福"を強調する念仏などとは、根本的に違う。"生きているうちに"絶対の幸福境涯を築き、固める。今世で最高にすばらしい人生を満喫する。そのための仏道修行なのである。

☆豊島、台東、墨田、目黒区合同総会「真の人間組織こそ宗教の基盤」S62.12.12
◇納得、対話の「和合」の絆を
また、仏法には「和合僧」という言葉がある。この「和合僧」、また「僧」については、多くの海外の会員や知識階屑の方々から深い関心が寄せられている。いつの日か、詳細に論じさせていただくつもりであるが、本日は「組織」に関連して、少々ふれておきたい。
「和合僧」とは、「和合衆」ともいい、出家して仏道修行に励む比丘および比丘尼の集まりのことをいう。
もともと「僧」は、「僧伽(そうぎゃ=サンガ)」の略で、「衆」「和合衆」等と漢訳され、それ自体、団体を意味している。後世、中国や日本では、仏門に入った個々の人をいうようになったが、本来は、四人以上(三人または五人以上との説もある)の比丘が一緒に集って修行する団体のことをいったのである。
竜樹はその著『大智度論』で、「僧伽」について次のように述べている。
讐えば大樹の叢聚(そうじゅ)するに、これを名づけて林(りん)と為す。一一(いちいち)の樹は名づけても林とは為さず。一一の樹、除いては亦(また)林も無きが如し。かくの如く、一一の比丘、名づけて僧とは為さず。一一の比丘、除いては亦僧もなし。諸の比丘、和合するの故に、僧の名は生ず
すなわち、たとえていえば大きな樹が群生していれば、林と呼んでいる。一本一本の木のみでは林とは呼ばない。ただし、一本一本の木を除いてしまうと、林として成立はしない。同様に、一人一人の比丘は僧とは呼ばない。また、一人一人の比丘を除いても僧は存在しえない。多勢の比丘が集まり、和合しているがゆえに僧の名が生じるのである。
これに関連して日亨上人は「一人を僧といはず四人已上の共行集団を僧といひ和合を僧といふ定義なれば、其共心同行の団体中に自ら異義を唱えて退くも不可なり、況んや他を教唆して同心共行を破するに於いてをや、提婆達多が釈迦牟尼仏に反抗する為に・仏弟子の一部を誘拐して新教団を組織したるは・提婆の破和合僧罪とて・其罪の尤(もっとも)なるものなり、現代に於いては破和合僧又破和合講に通用すべし」(富要一巻)と述べている。
一人を僧といわないで、四人以上の行を共にする集団を僧といい、和合を僧というのが定義であるから、その心を共にして行を同じくする団体の中にあって、自分勝手に異義を唱え、退転することは許されない。ましてや、他の人をそそのかして、同心共行(同し心で行を共にすること)を破ることはあってはならない。提婆達多が釈尊に反抗するために、仏弟子の一部を誘拐して新教団を組織したことは、破和合僧罪のもっとも大なるものである。現代においては、「破和合僧」、また「破和合講」も、その罪にあたるといえよう──と。
広くいえば、仏道修行に励み、妙法広布に進みゆく地涌の友の集いである学会も、「和合僧」の団体である。その団結を乱すことは「破和合僧」に通じるといえる。
この「破和合僧」は、五逆罪、三逆罪の一つにあげられており、その罪はもっとも重く、深い。その因果は厳しく、必ず堕地獄となるのである。

2011年11月29日火曜日

2011.11.29 わが友に贈る

正義の学会は
世界に大発展!
破邪顕正の言論光る
教宣部の検討に喝采!
御本仏が御賞讃だ。

兄弟抄 P1082
設ひ等覚の菩薩なれども元品の無明と申す大悪鬼身に入つて法華経と申す妙覚の功徳を障へ候なり

◇希望の明日へ
現実の人生は、悩みの連続である。婆婆世界とは、そうした苦悩を耐えていく世界という意味である。この悩みの世界にあって、すべての悩みを喜びに変え、いっさいを楽しみ、悠々と生き抜いていく−−それが成仏という常楽我浄の境涯である。

☆豊島、台東、墨田、目黒区合同総会「真の人間組織こそ宗教の基盤」S62.12.12
◇社会は「心」のネットワークを志向
さて、近年における社会の変貌の一側面として、従来のいわゆる「大衆社会」の崩壊が指摘されている。つまり、均質的・画一的な「大衆」が姿を消して、より個性的で多様な志向性をもつ個別の集団が生まれてきた。
こうした現象をいちはやく「分割された大衆」、すなわち「分衆」ととらえて話題を呼んだのが『「分衆」の誕生』(博報堂生活総合研究所編、日本経済新聞社)である。同じような意味で、大衆ならぬ「少衆」、さらには「微衆」「超微衆」「孤衆」なる言葉まで生みだされている。これらは、主として商品市場への企業戦略の立場から考案された用語であり、主に商品のニーズ(需要)に基準をおいた分析であるゆえに、社会の全体を総合的にとらえたものではないことも事実である。
それはともかく、人々の「心」の動向を知ることは、組織というものを考えるうえでも大切な点であろう。
ちなみにこの本では、「分衆」の背景として、戦後社会の人々の志向が、復興期の「量的満足の志向」から、高度成長期の質的満足の志向」へ、そして現在の「感性満足の志向」へと変化してきたとみている。
これを「人並み」志向から「自分並み」志向への変化として、他の人と共通の価値観に従うよりも、自分の感性、あるいは、わが家の感性にあった暮らし方をしたいと願う人々が増加しているというわけである。
このように、大衆社会が「バラバラになった生き方、暮らし方を志向し始めている」一方で、組織への「帰属意識の希薄化」が進んでおり、組織に所属はしていても、構成員としての自覚は、きわめて薄いのである。積極的に何かをしようということも少なく、とくに青年屑にその特徴が強く見られる。したがって、号令や、人々の帰属意識に訴えるかたちで、多数の人を動員することは、多くの組織において困難になってきている。これは先進諸国を中心とした世界的傾向であり、そうした組織のあり方の変化は、象徴的に、ピラミッド型の「ヒエラルキー(上下の秩序)」から、横のつながりを中心とする「ネットワーク」への変動にあらわれているとも指摘している。
それではどうするか。これが問題であるが、ともすると、自由な創造性を抑圧しがちであった上意下達のピラミッド型の組織にかわって、おたがいの打ち合いのなかで、各人が創造性を発揮していけるような小集団が、職場や地域で重視されるのも、その一つのあらわれである。大学では、気軽な同好会が人気の主流となってきているという。また、他のさまざまな人材のグループと幅広く交流し、人格を磨いていこうとする動きもある。
「ネットワーク」をはじめ、「創造性」「小グループ」「交流」と続くと、なんだか聞きなれた言葉ばかりである。まさに私どもがかねてより主張し、実践してきた組織の方向性が、どれほど時代を先取りしているかの一例といえよう。いいかえれば、いよいよ私どもの時代であり、たくわえた力を大きく社会に輝かせていく時代に入ったと申し上げておきたい。
そのうえで私は、もっとも大切な一つは「対話」であると強調しておきたい。もはや命令や"ねばならぬ"式の訴えで、人が動く時代ではない。
心から納得しなければ、だれも行動しない時代である。また逆に、自分が納得すれば、思いもよらぬすばらしい力を発揮する可能性も大きい。ゆえに、充実した「協議会」が、いよいよ大切であり、一対一の「対話」が限りなく重要となる。
かつての大組織の多くが停滞と行き詰まりに苦しむなかで、学会が青年をはじめ多くの人々をひきつけ、発展している要因の一つがここにある。また、この実践は未来も変わらず重要な原則である。
「分衆」「少衆」といった分析は、当然、恒久的なものではない。今後も、刻々と変化していくにちがいないし、現に、現代社会はむしろ管理化が進行し、価値観そのものも物質中心のものに、ますます両一化してきているとする論者もいる。
これもまた別の観点から、社会の一面をとらえているといえよう。そうした強まる管理社会の圧迫のなかから、「分衆」等が誕生してきた一背景をみることもできるかもしれない。
見のがしてならないことは、社会を分散化・個性化とみるにせよ、管理化・画一化とみるにせよ、どちらの観点からも求められているのは、個性豊かな「人間中心の社会」であり、創造性を存分に発揮できる「人問中心の組織」にあるという一点である。

かつてトインビー博士と対談した折も、現代における「組織」のあり方が話題になった。
私は、組織の時代といわれる現代にあって、問題の核心は"組織が主であって、人間は従である"という観念にあると主張した。そして「常に組織は個人から出発し、個人に帰着する、そして個人を守るという原点に立ちもどることだ」「(組織は)高度な有機的生命体と見るべきである」、「個人は組織の部分でありながら、組織全体よりも尊い。個は全体のなかにあり、全体は個のなかにおさまる」と述べたものである。
そのときトインビー博士が、「イエス、イエス」と大きくうなずいておられた姿が忘れられない。とりわけ、組織の変革というより、人間の心の内面からの精神革命による以外に、現代社会の病根、社会的病弊は治せない、と語っておられたことが心に残っている。
ともあれ、この対談もまた、未来のために、未来を見すえてのものであったが、そこで論じた「一人を徹底して大切にする人間組織」の方向性を求めて、時代は刻々と動いていると確信する。また、そうした方向へとリードしていくことが、私どもの使命である。その先駆の存在こそ学会の広布の組織であり、なかでも、とりわけ模範となる組織を、わが地域に見事に築ききっていただきたい。

2011年11月28日月曜日

2011.11.28 わが友に贈る

スピードが勝負だ。
連絡・報告には
直ちに対応を!
迅速な行動こそ
信頼と勝利の力なり!


内房女房御返事 P1423
過去の慈父尊霊は存生に南無妙法蓮華経と唱へしかば即身成仏の人なり

◇今週のことば
「百千万億倍・
御用心あるべし」
絶対に無事故であれ!
健康第一の前進で
大勝利の総仕上げを!

2011年11月28日

◇希望の明日へ
大聖人の御本尊は「観心の本尊」である。「観心(心を観ずる)」とは、端的にいえば、"わが心を、ありのままに観ること""自己を知ること"であり、その目的は"自分自身が仏である"と自覚することである。"自分自身が仏である"と自覚するための御本尊であり、信心である。

☆豊島、台東、墨田、目黒区合同総会「真の人間組織こそ宗教の基盤」S62.12.12
◇たがいに尊敬し仲良く前進
戸田先生はつねづね「創価学会の組織は戸田のいのちよりも大事だ」とまで言われていた。学会は善知識の集いである。信行を増進し、広布を伸展させる団体である。世界の民衆を正法に導き、成仏への道を歩ませる重要な使命がある。
本年四月、総本山の御霊宝虫払大法会の折、日顕法主は「信心の血脈」について述べている。
そのさい、「信解抜群にして宗祖二祖の信心の血脈を疑わず、勇猛精進するところ」に広くその信心の血脈を伝えつつ、衆生を利益することができるとし、「その一大実証は、近年、正法の日本ないし世界広布の礎を開かれた、創価学会における初代、二代、三代等の会長の方々における信心の血脈の伝承であります」と話している。これは皆さまがご承知のとおりである。
日蓮大聖人から日興上人へと相伝された「生死一大事の血脈」は、総じて信心の一念によって学会には厳として流れ、脈打っていると断言している。

私どもはたがいに善知識である。また、そうあらねばならない。そのために、重要なことの一つには、相手を大きく包容していく広々とした心である。
「陰徳陽報御書」には、『又此の法門の一行いかなる本意なき事ありとも・みずきかず・いわずして・むつばせ給へ、大人には・いのりなしまいらせ候べし』(P1178)との一節がある。
この御書が全体のごく一部しか残っていないので、断定はできないが、"この法門の人々とは、たとえどんな不本意なことがあっても、見ず、聞かず、言わずして、仲良くしていきなさい。おだやかにして、祈っていきなさい"と拝せられる。
当然、根本である信心の大綱は、きちんと指導していかなければならない。そのうえで、私的なことについては、いちいちこまかく指摘したり、非難しあったりすることは賢明ではない。人それぞれに個性があり、生き方がある。生活環境も違う。たがいに尊重しあい、仲良くしていくことこそが大事である。
たがいに、凡夫の集いである。当然、不本意で、気にいらないこともあるにちがいない。疲れて休んでいるときに、夜中に電話で起こされる。せっかく部屋の片づけも終わり、ゆっくりしようかと思ったとたん、突然、ドカドカと押しかけてきて、ぜひうかがいたいことがあると、相談にくる。そのほか、決して常識豊かな人ばかりとはいえないのも、一つの現実である。
これは少々、飛躍するが、御書には『日蓮は此の法門を申し候へば他人にはにず多くの人に見(まみえ)て候へども・いとをしと申す人は千人に一人もありがたし』(P1418)とある。
"この法門を弘めるゆえに、他の人とはくらべられないほど多くの人々に会った"──広宣流布のために、多くの人々に会ったと述べられている。私もじつに大勢の方々にお会いした。皆さまもまた、広布の活動ゆえに多くの人々と会われている。"しかしそのなかで、真にいとおしいと思った人は、千人に一人もなかった"──大聖人が、一切衆生への大慈大悲に立たれていることはいうまでもない。そのうえで、人柄のよい本当に立派な人というのは、なかなかいるものではない、との言と拝せよう。
この御述懐も、私どもの立場からも、まことにそのとおりであると納得できる。皆、未完成の人間である。当然、一人一人がそれぞれ自分を立派に完成させていかなければならないが、その途上にあっては、さまざまな欠点もある。また人間同士、ある程度、好き嫌いがあることも、いたしかたない面もあろう。
かといって、自分の気にそまぬことをいちいち指摘しあったり、たがいのあら探しばかりしていたのでは、裁判所ではあるまいし、とてもやりきれない。まして、そうした低次元のいさかいから、感情的なもつれができ、もっとも大切な信心まで破るにいたっては、本末転倒である。
ゆえに、たとえ不本意なことがあっても、広々とした心で、忍耐強く、大きく包容し、より強盛な信心に立てるよう激励していくことである。また大きな立場から、成長を祈ってあげることである。そうしていけば、本人の信心の深化とともに、しだいに人間的にも成長をめざしていくにちがいない。
人類五十億。私どもは、その先覚者である。妙法を弘め、すべての人々の善知識となって救済していかねばならない。その意味において、現在の学会員は一人一人が、限りなく尊き使命の人である。ゆえにたがいに尊敬しあい、励ましあって、仲の良い前進をお願いしたい。

組織は硬直した死せる機械ではない。生きた有機体であり、一つの生命体である。ゆえに時代とともに、時代を呼吸しながら、成長し、進歩し、発展していくのが正しいあり方である。
そのカギは組織を構成する、一人一人の成長にある。なかんずく、指導者自身の時代を先取りした先見と、みずからのカラを破りつづける成長いかんが、組織の消長を決定する。
ゆえにリーダーは、決して時代に鈍感であってはならない。現状に満足し停滞してはならない。あらゆる勉強をし、人とも会い、鋭敏に社会の変化、人々の心の要求を感じとっていく努力が必要である。とくに青年部の諸君には、このことを強く申し上げておきたい。
学会のこれまでの発展も、その陰には、つねに時代の変化に先がけて、先手、先手を打ちつづけてきた戦いがあった。
現在も私は、日々、青年をはじめとする多様な人々と語り、手紙に託された多くの声に耳を傾け、社会のあらゆる情報にアンテナを張りめぐらしながら、いかに誤りなき広布のカジを取るか、ひとり心を砕いている。そこに指導者としての厳しい使命と責任があるからだ。

2011年11月27日日曜日

2011.11.27 わが友に贈る

新しい扉を開くのは
いつも青年!
若き命よ燃え上がれ!
今から、ここから
不屈の師弟の勝利舞を。

立正安国論 P24
如かず彼の万祈を修せんよりは此の一凶を禁ぜんには

◇希望の明日へ
人間としてもっとも尊貴な人生とは、何か−−。大聖人は、仏に成ることこそが、永遠の幸福であり最高の人生と仰せである。"妙法の当体"たる自分自身を輝かせていく生活である。華やかではなくとも、まじめに信心に励んだ人、真剣に広宣流布に励んだ人、不滅の大法とともに生き抜いた人こそが、真の勝利者であり勝利王なのである。

☆豊島、台東、墨田、目黒区合同総会「真の人間組織こそ宗教の基盤」S62.12.12
日蓮大聖人の御在世当時には、信心の大きな組織はなかったと思われる。信徒の数も限られており、本格的な意味での「組織」は必要なかったのであろう。
しかし、大聖人は、今日の組織のあり方、意義等を照らしだすような御文を、随所で述べられている。
たとえば「寺泊御書」には、『心ざしあらん諸人は一処にあつまりて御聴聞あるべし』(P951)との有名な一節がある。──妙法を信じ、広宣流布への"志"をいだいて進む人たちは、一処に集まって、法義を聴聞しなさい──と。
広布への尊い"志"も、なかなか一人で堅持していくことはむずかしい。そこで、皆で集まって、仏法を研鎖し、励ましあうことが大切となる。きょうもこうして、妙法流布をめざす使命の人々が"一処"に集い、たがいに信心の決意を固めあっている。大聖人がお示しのとおりの正しい姿であると確信してやまない。

学会の組織は、どこまでも広宣流布の推進のためにある。また一人一人の信心の"成長"と"成仏"への軌道をささえ、守りあっていくためにある。その意味で、広布の組織とは数限りない「善知識」の集いであるといってよい。
大聖人は「三三蔵祈雨事」P1468)で、冒頭から「善知識」の必要性を強調しておられる。
夫(そ)れ木をうえ候には大風吹き候へどもつよきすけ(扶)をかひ(介)ぬれば・たうれず、本(もと)より生(お)いて候木なれども根の弱きは・たうれぬ』──木を植えた場合、たとえ大風が吹いたとしても、強い支柱で介添えすれば倒れない。反対に、もともと生えている木であっても、根が弱いものは倒れてしまう──。
甲斐無き者なれども・たすくる者強ければたうれず、すこし健(けなげ)の者も独(ひとり)なれば悪しきみちには・たうれぬ』──人間においても同じである。力弱くふがいない者であっても、助ける者が強ければ倒れない。逆に、少々壮健な者でも独りであれば、悪い道では倒れてしまう──。
これらは道理である。だれ人も異論はないにちがいない。仏法の教えはつねに、こうした万人が納得せざるをえない"道理"の延長線上に説かれている。このことをあらためて確認しておきたい。
すなわち成仏の道においても、たとえ最初は信心弱き者であっても、強いささえを得れば倒れない。反対に、なまじっか自分は信心が強いと思っていても、三障四魔の吹き荒れる悪路を一人で歩みとおすことは容易ではない。そのために、どうしても同志が必要である。善知識が必要であり、信心の組織が必要となる。
もちろん成仏は一人一人の修行であり、努力による。他のだれをも頼らず一人立って歩みきる覚悟が必要である。組織や同志は、その個人の修行を励まし、啓発しあうという意義をもつ。あくまでも個人の成仏の完成を助ける補助の役割である。そしてまさに、この補助の役割であるがゆえに重要なのである。
さらに『されば仏になるみちは善知識にはすぎず、わが智慧なににかせん、ただあつ(温)きつめ(寒)たきばかりの智慧だにも候ならば善知識たいせち(大切)なり』──ゆえに仏になる道は善知識にまさるものはない。わが智慧が何の役に立とうか。ただ暑さと寒さを知るだけの智慧だけでもあるならば、善知識を求めて近づくことが大切である──と。
仏の道は甚深であり、その智慧ははかりがたい。それにくらべれば、どんなに賢く見えても凡夫の智慧など、わずかなものである。ゆえに成仏する道は正しき善知識につく以外にない。そうすれば、善知識の力で、誤りなき成仏への軌道を進んでいけるのである。
大聖人が『わが智慧なににかせん』と仰せのごとく、いかなる大学者であっても、仏法のことは仏法者に学ぶ以外にない。どんな大科学者、大医学者も、自分の生命、人生を解決できる智慧があるわけではない。また、大政治家、大富豪であるといっても、絶対的な幸福への法則を知っているわけではない。
にもかかわらず、皆、わずかばかりの「わが智慧」をたのみ、謙虚な求道の心を見失う。ここに不幸の因がある。
知識イコール幸福ではなく、富イコール幸福でもない。また地位や名声イコール幸福でもない。わかりきっているようにみえて、この厳粛な事実に深く鋭く目をこらす人は少ない。しかし、この一点にこそ、だれもが人間の報復の精髄を明かした仏法を、真摯に求めていかねばならない電要なゆえんがある。
そして仏法を求めるとは、具体的にはすぐれた善知識を求めることとも言えよう。大聖人が『仏になるみちは善知識にはすぎず』と断じておられるとおりである。

「善知識」とは、本来、人を仏道に導き入れる"善因縁の知識"をいう。知識とは知人、友人の意味である。仏、菩薩、二乗、人天を問わず、人を善に導き、仏道修行を行わせる、正直にして偽りなき"有徳"の者が善知識である。当然、人界の私どももまた、立派な善知識の働きとなる。
善知識の働きには、修行者を守って安穏に修行させ(外護)、またたがいに切磋琢磨しあい(同行)、さらに仏法の正義を教えて善行へ向かわせること(教授)などがある。
すなわち「勤行をしましよう」「会合に行きましょう」「御書を拝読しましょう」等々、広宣流布のほうへ、御本尊のほうへ、妙法と成仏のほうへと"指し導く"指導者の皆さま方こそ、尊き「有徳」の善知識なのである。
その反対が「悪知識」である。本日はそのくわしい意義は略させていただくが、一つだけ申し上げれば、たとえ信心している幹部であっても悪知識となる場合がある。
つまり、指導者が仏子を見くだしていばったり、ふざけ半分であったり、責任感がなく、いいかげんであったり、成長が止まっていたりしたら、そのもとにある人々の信心の成長をもじゃましてしまう。純粋な後輩が伸び伸びと活躍し成長することもできない。それでは、あまりに無慈悲であり、かわいそうである。
こういう指導者の本質として、たとえ言葉はたくみであり、表面を飾ろうとも、心は保身と驕慢である。その魂胆は、人々に自分を尊敬させ、人々の心を自分へと向かわせるところにある。
すなわち善知識が、友を「妙法」の方向へ向かわせるのとは対照的に、黒く卑しき心の悪知識は「自分」へと向かわしめるだけなのである。「法」が中心ではなく、自分のずるがしこい「エゴ」が中心となる。この一点を鋭く見きわめていかねばならない。悪知識に紛動されれば、悪道へとおもむかざるをえないからだ。
また、こうした"虚飾の仮面"をかぶった信心なきリーダーは、時とともに、いつか広布の大道から逸脱し、姿を消していくものだ。これが大聖人御在世の時代以来、変わらざる方軌であり、私の四十年間の経験的事実でもある。

2011年11月26日土曜日

2011.11.26 わが友に贈る

多忙の時だからこそ
まず心を落ち着かせ
戸締り、火の元を点検。
交通事故に注意せよ。
油断を排し魔を破れ!

阿仏房御書 P1305
末法に入つて法華経を持つ男女のすがたより外には宝塔なきなり、若し然れば貴賎上下をえらばず南無妙法蓮華経ととなうるものは我が身宝塔にして我が身又多宝如来なり、妙法蓮華経より外に宝塔なきなり、法華経の題目宝塔なり宝塔又南無妙法蓮華経なり

◇希望の明日へ
師子王の子は師子王となる。法王の御子は法王となる。学会員は御本仏の仏子である。仏となることは約束されでいる。それは三世水遠にわたって、無量の福徳に包まれゆく王者である。ゆえに学会員は、真っすぐに大聖人との"父子の誓い""師弟の道"に生き抜けばよいのである。

☆豊島、台東、墨田、目黒区合同総会「真の人間組織こそ宗教の基盤」S62.12.12
さて、本日は、若き諸君が二十一世紀の立派な指導者と育ちゆくために、広布の「組織」について、種々論じておきたい。
皆さま方は、私のスピーチというと、すぐナポレオンやソクラテスといった話を期待するかもしれない。しかし、将来のためには、たとえ地味であっても、信心の確実な軌道について、きちんと話しておくことも不可欠である。話は少々むずかしくなるかもしれない。眠い方は眠っていただいてもけっこうである。が、私は、後世のために、言うべきことを、きちんと話し、残しておきたいと思う。
まず、「組織」の字義について、確認しておきたい。(以下、主に『大漢和辞典』『広辞苑』等を参照)
「組織」の「組」の字は、もともとは、糸をよりあわせて作った綬(くみひも)を意味したようだ。その原義から、ひもをくむ、組みあわせる「組み立て、組織する」「仲間を作る」こと、また「ひとそろい」「仲間」等々の意味が派生していく。「組」の字の”つくり”にあたる「且」は、「かつ、その上、さらに」の意をもつように、「積み重ねる」という意味をもつともいわれる。また「組」の古い形には、「手」の字が添えられており、こうしたことから「組」の字には”手作りの作業を積み重ねて、なにごとかを作りあげていく”との意味あいもあるように感じられる。一方、「織」は「はたおり」のことであり、ひいては「組みあわせ、組み立てる」ことを意味している。
こうした元来の字義から「組織」とは、「糸を組み、機を織ること」の意味をもつが、現在ではそれに加え、「順を追ってしだいに立派に作りあげること」「秩序をつけて組み立て、作ること」「団体または社会を構成する各要素が、統合して有機的な働きを有する統一体となること。また、その構成の仕方など」の意味がある。
今述べたなかで「有機的」とは、「多くの部分が強く結びついて全体を形作り、おたがいが密接に関連しあって働くようす」をさす。たとえば、動植物など生命体の働きは、まさしく「有機的」である。「組織」は、英語では「オーガニゼーション」というが、その動詞「オーガナイズ」も元来は「有機的構造を与える」「生命体化する」の意味である。そこから「組織化する」「系統だてる」「整然とまとめる」「気持ちを整える」などの意が生まれた。
さらに、「組織」について、現代的な意味あいも含めて、次のように解説しているものもある。
「企業体、学校、労働組合などのように、二人以上の人々が共通の目標達成をめざしながら分化した役割を担い、統一的な意志のもとに継続している協働行為の体系と定義することができる。すなわち、分化した機能をもつ複数の要素が、一定の原理や秩序のもとに一つの有意義な全体となっているものの意であるから、広義には、動物や植物の場合にもひとつひとつの細胞が集まって成り立つ場合、綱胞組織とか人体組織というように用いられる。組織は個人なしには存在しえず、単なる個人の総和以上のものである」(『世界大百科事典16』平凡社)と。
未来の広布の細織を抑う青年たちに、何らかの示唆ともなれば、と思い、「組織」について、いくつかの角度から紹介させていただいた。どうかご了解願いたい。

2011年11月25日金曜日

2011.11.25 わが友に贈る

「一の師子王吼れば
百子力を得て」
青年の師子吼こそ
時代を創る活力だ。
堂々と正義を叫べ!

経王殿御返事 P1124
法華経の剣は信心のけなげなる人こそ用る事なれ鬼にかなぼうたるべし

◇希望の明日へ
大聖人の仰せ通り、御本尊を信じ、唱題し、身命を惜しまず折伏・弘教に励む−−その学会員は必ず仏となる。その大確信で進んでいただきたい。そして、悠々と、御本仏の弟子としての偉大な力を発揮していただきたい。

☆豊島、台東、墨田、目黒区合同総会「真の人間組織こそ宗教の基盤」S62.12.12
◇生死の姿に信仰の証
寒いところ、また遠いところ、このようにご参集いただき、まず心から「ご苦労さま」と申し上げる。きょうは、戸田先生ともゆかりの深い豊島が中心となっての合同総会である。謹んでお祝い申し上げたい。
現在、豊島は、確実な「信心即生活」の前進がなされている。まことに慶賀にたえない。
私のもとには、毎日、数多くの手紙が寄せられる。内容はさまざまであるが、総じてそれらは、率直な会員の"声"であり、一通たりとも決してムダにしてはいけないと思っている。民衆の"眼"は鋭い。幹部の言動を、じつにこまかく観察し、とらえている。
きょうは、台東、墨田、目黒の代表、そしてドクター部のメンバーも集っておられる。いずれのりーダーもまた、すばらしい方々であると確信する。(拍手)

人間の「生」と「死」は、一つのドラマである。
過日、草創以来の功労者で、静岡の圏副指導長の片平繁一さんが亡くなった。片平さんは、昭和二十九年(一九五四年)に入会。三十一年には清水で初の男子部・隊長に就くなど、地域広布の発展に見事な足跡を残された。私にとっても忘れられない同志の一人である。
草創期に青年部員として、ともに活躍された大勢の方々を、私は今もって覚えている。かりに名前は思い出せなくとも、会えばそくざに"一緒に戦ったあの人だ"と、脳裏によみがえってくる。片平さんの訃報に接したときも、"あっ、あのまじめな方が……"と、瞬間的に思い起こした。子息は、たしか市議会議員をされていたと思う。
片平さんは、昭和五十七年、肝硬変で倒れた。手術で牌臓も摘出し、医師からは「あと一年もてば、幸運です」と言われたという。その後、九回もの入退院を繰り返すが、とうてい、それから五年も生きるとは想像できなかったようだ。
そうしたなか、片平さんは退院すると、必ず座談会などの会合に出席し、個人指導にも足しげく通った。入院中は「元気になりたい。座談会に出たい。退院して個人指導にあたりたい。眠っている人を奮い起こしたい」というのが口ぐせだったという。
"眠っている人"とは、たんに睡眠をとっている人ではない。信心が休みになっている人のことである。
つねづね申し上げていることだが、人は年とともに老い、徐々に病を患うようにもなる。若いうちに、また健康なうちに、思う存分、広布のために働き、永遠の福徳を築けることほど幸せはない。青春を無為に過ごし、あとで悔やみ、苦しむのは、自分自身である。
尊い一生である。未来に悔いを残し、後悔するような人生であっては、決してならないと申し上げておきたい。

片平さんの死去は、去る五日のことであった。その前日、長男の博文さんを枕もとに呼び、「これだけは、言い残しておきたい」と、次のように遺言した。
「(池田)先生に伝言をたのむ。こんど生まれてくるときは、各国語をマスターして、広宣流布に役立つ人間として生まれてきます。先生、三十三年間、ありがとうございました」
──そう語ると、眠るように目を閉じ、深夜、夫人に見守られ、従容と息をひきとったという。享年六十四歳であった。
まことに立派な人生のドラマである。いかなる高位高官、また著名人であれ、このような安らかな臨終を迎えられるかどうか──ここに、人生の最重要の課題が残されている。
この「生死」の問題に光をあて、解明しきった大法が妙法である。片平さんの安祥たる死の姿こそ、真実の信仰をたもった証とはいえまいか。
私は訃報を聞き、衷心から追善の唱題をするとともに、和歌を詠み、贈らせていただいた。また、先ほどスピーチに先立ち、唱題したのも、あらためて学会本部で追善したいとの思いからであった。

2011年11月24日木曜日

2011.11.24 わが友に贈る

副役職の友こそ
広布発展の原動力!
学会は全員が主役だ。
皆で讃え励まし合い
異体同心の大前進を!

一生成仏抄 P384
衆生の心けがるれば土もけがれ心清ければ土も清しとて浄土と云ひ穢土と云うも土に二の隔なし只我等が心の善悪によると見えたり

◇希望の明日へ
成仏は、どこまでも自身の正しき信心、正しき仏道修行によって決まるのである。もちろん、追善供養の意義からいえば、自らが強盛に信心に励むことによって、亡くなった方をも仏界に導くことができる。しかし、あくまで信心が根本である。まして"僧侶に拝んでもらわなければ成仏できない"などという教えは、御書にも六巻抄にもいっさいない。大聖人、日興上人等の教えに反した葬式仏教の邪義である。

▽「新聞長」の奮闘に感謝!勇気と信念の論陣を社会へ。皆様こそ真の言論人
▽苦しい事があっても明朗たれ−恩師。我らは地涌の菩薩。破れぬ壁はない
▽悪いものは読めないよ。頭が腐るから−武者小路、青年よ古今の名著に挑め

2011年11月23日水曜日

2011.11.23 わが友に贈る

多宝会・宝寿会
錦宝会の友ありて
学会は大発展!
広布の大功労に感謝。
健康・長寿を祈る!


法華経題目抄 P947
妙とは蘇生の義なり蘇生と申すはよみがへる義なり

◇希望の明日へ
末法において、民衆を救い、世界に正法を弘め、広宣流布していく−−その仏とは日蓮大聖人であり、大聖人直結の民衆自身である。"民衆こそ仏"なのである。大聖人の仏法を口にしながら、その本義と正反対の民衆抑圧を繰り返す人間には、大聖人の仏法の根本がわからない。根本が狂っている。それに対し、大聖人の仰せ通りに進む学会員は、必ずや金剛不滅の仏身であり、広布への行動は、そのまま尊貴なる仏の振る舞いである。

☆戸田城聖 質問会
質問:入信して以来、平和な家庭生活ができますように、また折伏ができますようにと、毎日五千べんの題目をあげてきたのですが、最近、会社の上役を折伏したのがもとで圧迫され、生活に困るのですが、その理由についておうかがいします。

それは、あなたの折伏の目的が間違っているのです。折伏というものは、自分が幸福になりたいからやるというのではなく、御本尊様の功徳に歓喜し、相手の境遇に同情して、慈悲の心をもって折伏するのが、ほんとうの折伏する者の態度です。
利己的な動機で折伏しても、結果はでません。折伏はうれしさのあまり行ずるところに、しぜんと功徳があふれてくるのです。

2011年11月22日火曜日

2011.11.22 わが友に贈る

社会の荒波と戦う
壮年部の労苦に感謝!
青年学会建設へ
皆に安心を与える
頼もしき黄金柱たれ!

上野殿御返事 P1561
願くは我が弟子等大願ををこせ

◇希望の明日へ
何によって仏になれるか。「妙法蓮華経の五字」によってである。妙法を強く信じ、唱える信心によってである。僧侶のおかげでもなければ、形式によってでもない。成仏とは、自分自身が獲得する境涯であり、"自分の宝"にはかならない。絶対に、他から"与えられるもの"ではない。

☆折々の指導No.16 会館は民衆の幸福の城〈会館の防災についての報告に対して〉
しっかり頼む。無事故・安全を勝ち取るうえで、労を惜しんではいけないよ。
学会の会館は、民衆の『幸福の城』だ。
平和と文化を広げる『外交の城』だ。
勝利へ打って出る『攻めの城』である。
歴史をつくる戦いは全部、城が中心だ。
会館を守り、運営に携わる創価班、牙城会、白蓮グループの皆さん。壮年部の王城会、婦人部の香城会、会館守る会の皆さんなど、広布を支えてくださる全ての方々に、心からの感謝を捧げたい。
自宅を広布の会場として提供してくださっている皆様方にも、深く御礼申し上げたい。
この方々こそ、学会の宝だ。生々世々、わが生命に幸福の大宮殿を開きゆくことは、御書に照らして絶対に間違いありません。 私は、毎日、一生懸命、全同志の健康と無事故を、そして大福運に包まれるよう、朝晩、ご祈念しています。これが私の使命であり、根本的精神です」

2011年11月21日月曜日

2011.11.21 わが友に贈る

朝の深き祈りから
勝利の一日を出発!
一行でも御書を拝し
希望に燃えて進もう!
創価とは価値創造の道。

崇峻天皇御書 P1173
人身は受けがたし爪の上の土人身は持ちがたし草の上の露

◇今週のことば
時代を変える
創価青年大会、万歳!
新たな拡大の潮流だ。
若き地涌の熱と力で
地域のルネサンスを!

2011年11月21日

◇希望の明日へ
成仏は、あくまでも自身の正しき信心、正しき仏道修行によって決まる。葬儀等によって決まるのではない。

☆質問14 困っている友人に、声をかけられませんでした。

勇気という「エンジン」で前へ前へ!
まず一歩を踏み出せ! 行動すれば必ず開ける

心の中に、すばらしい考えや、計画、思いやりをもっていたとしても、それを「実行」する勇気がなければ、現実には、何も実を結ばない。結局、心に何もなかったことと同じになってしまう。
だから、「勇気」は人間にとっての「原動力」であり「エンジン」なのです。
勇気がある人は力強く、前へ前へ進んでいける。自分が描いていた「山」を登り、「谷」を下り、自分のめさす理想へ、希望へと向かっていける。まさに「勇気」の二字が「力」となっていく。勇気をもっていない人は、堕落、敗北、横道にそれてしまう。苦しいことから逃げて、楽をしようとする。
だから勇気のない人は、人のために尽くせない。自分を向上させられない。立派な仕事をなしとげられない。ちょうど、「壊れたエンジン」をもっているようなものです。

詩人であったドイツのシラー
一人立てる時に強き者は、真正の勇者なり」と。
青春時代から、私が大事にしてきた言葉です。
反対に、付和雷同は「悪」です。みんながこうしようと言うから、何となく、ついていく。みんながこれでいいんだという堕落の方向に行ってしまう。これがこわい。これが日本人の最大の欠点の一つでもある。

題目は「勇気」の原動力です。勇気のエンジンに「火」をつけるのが題目です。その題目をあげるのも、また勇気なのです。
ともあれ、勇気は、人間が正しく生きぬき、正道を歩む「力」です。
たとえば、人類・国家のために、「どうすればいちばん平和になるか」を考え、行動する。そういう信念の勇気もある。
社会のため、多くの人の人生のために、「どうすれば皆が幸せになれるか」を考え、行動する。そういう人間愛の勇気もある。
また、いちばん身近な生活のなかで、「子どもたちのために」という母親とか学校の先生の思い。「友人のために」という友情。そういう地道な日常での勇気もある。
「大きな勇気」も、「小さな勇気」も、勇気には変わりがない。「人のため」という崇高な心に変わりはない。

信念のためには、いかなる迫害にも屈しない。それを「勇気」と言う。
正しい信仰をもち、その信念のために行動する人が勇者なのです。自身の胸中に、大宇宙の根本のリズムを保っている「勇者のなかの勇者」です。
その「一人」がいれば、「太陽」が昇るのです。
自分の生活に。
自分の家庭に。
自分のクラスに。
自分の社会に、国に、世界に。
だから諸君は、自分のなすべき課題に向かって、「まず一歩を踏み出せ!」と私は言いたいのです。
(『青春対話1』から)

2011年11月20日日曜日

2011.11.20 わが友に贈る

躍動の青年大会。
新しい人材が
立ち上がる時だ!
わが使命の舞台で
勝利の旗を振れ!

開目抄下 P232
善に付け悪につけ法華経をすつるは地獄の業なるべし

◇希望の明日へ
学会員は成仏という"絶対の幸福への軌道"を進んでいる。この軌道を狂わせ、軌道から脱落させようとするのが悪知識、悪友である。言葉たくみに近づき、美しき仏子の世界を壊そうとする。こうした悪人は、断固として寄せつけてはならないのである。善知識、善友となる学会の前進に、いよいよ"親しみ近づいていく"−−そこに、「幸福への軌道」は、より盤石になり、加速度もついてくることを確信していただきたい。

☆折々の指導No.015 誠実で光るリーダーたれ(各部の代表に)
「すべて、何をやるにしても、大事なことは、折伏精神だよ。
その点をはずしたら、人は育たない」

「学会は、真面目で、真剣で、皆の幸せを願う世界だ。皆のことを心配し、皆のために苦労・努力する。それが創価学会だ」
「幹部になればなるほど、誠実にいきなさい。
口だけ上手、それではいけない。真実の行動、懸命な行動がなければいけないよ。
そして、ひとたび広宣流布の戦いに挑んだならば、『仏法は勝負』だ。
同志の皆さんのことを思えば、負けるわけにはいかないじやないか。
断じて勝つために、どうすればいいのか──皆で題目をあげ、団結をして、智慧を出すのだ。
今こそ、広宣流布の基盤を盤石にしていくことだ」
「戸田先生にお応えしようと、私も広布の道を開くために、苦労したよ。真剣だった。
真剣な人には、誰もかなわない。誠実な人には、必ず結果が出る。
その人によって学会は支えられてきたし、学会はまた、築かれていくんだよ」

2011年11月19日土曜日

2011.11.19 わが友に贈る

貴女の朗らかな声が
皆に希望を広げる!
創価の女性に最敬礼!
婦人部・女子部ありて
民衆の幸の城は磐石!

富木殿御返事 P962
但生涯本より思い切て候今に飜返ること無く其の上又遺恨無し諸の悪人は又善知識なり

◇希望の明日へ
仏法では「不改本位の成仏」と説く。これは九界の凡夫が、それぞれの本来の位を改めることなく、そのまま即身成仏するとの教えである。各人が生活しているその場所で、そのままの姿で、生きていること自体が楽しいという絶対的幸福境涯を開くことができるのである。だれ人をうらやむ必要もない。何を嘆く必要もない。「足下を謝れ、そこに泉あり」との言葉があるが、御本尊を持ち、広布に進む、ほかならぬわが地域が、わが家庭、わが人生の舞台が、そのまま常寂光土(永遠の仏の国土)と輝いていくからである。このことを確信し、堂々と、朗らかに、自分自身の所願満足の歴史を刻んでいっていただきたい。

☆我らの勝利の大道No.63 東北は人類の希望の光(5/5)
「学会は、人材をもって城となすのだ」とは、懐かしき仙台の青葉城址で恩師が叫ばれた遺訓である。
この師子吼を、胸に響かせながら私は詠んだ。

人材の
 城を築けと
  決意ます
 恩師の去りし
  青葉に立つれば

一城築けば、次の一城ヘ──私は、まっしぐらに走った。守りに入れば停滞を生むだけだ。
我らの城は、何よりも「攻めの城」である。
月月・日日につよ(強)り給へ」(P1190)、
今一重強盛に御志あるべし」(P1220)と仰せ通りに、いよいよ「決意ます」前進あるのみだ。
「新世紀の歌」と共に、東北と私を結ぶ歌が「青葉の誓い」である。
師の遺言の通り、千代に、いな万代までも崩れぬ、永遠不滅の「人材の城」を築く誓いを託したのだ。
東北の友は、今日という一日も勇んで、使命の最前線に躍り出る。その誓いの行進は、必ずや創価の新世紀を開きゆくに違いない。
牧口先生の友人でもあった、東北の偉人の新渡戸稲造博士は語った。
「一日の業は百年の基礎をも作るべし」
東北の勝利こそ、日本の勇気の泉である! 人類の希望の光である!
東北が晴れ晴れと栄えゆくことこそが、未来に「福光」の輝きを放ちゆく人間勝利の大道なのだ!

忍耐と
 最後の勝利は
  必ずや
 われの心に
  東北健児に

──冬を迎えます。風邪などひかれませんよう、大切な大切な全同志の健康と無事故、そして御多幸を、妻と共にいやまして祈ってまいります。合掌

2011年11月18日金曜日

2011.11.18 わが友に贈る

「悪は多けれども
一善にかつ事なし」
全同志の奮闘に感謝!
広宣流布の大願へ
青年を先頭に大行進を!

持妙法華問答抄 P466
命已に一念にすぎざれば仏は一念随喜の功徳と説き給へり

◇希望の明日へ
各人の生命には、仏界という金剛不壊の生命の境界がある。それは、いわば、まばゆいばかりの無量の"財宝"で飾られた、永遠不滅の幸福の宮殿である。信心をし、題目を唱えることによって、その生命の宮殿に入っていくことができる。つまり、自分自身の生命の宮殿を、燦然と輝かせていくことができると大聖人は仰せである。

▽栄光の創立記念日、万歳。後継が躍動する100周年へ師と共に晴れ晴れと船出

☆我らの勝利の大道No.63 東北は人類の希望の光(4/5)
東北が生んだ近代日本を代表する思想家・吉野作造は、「活動力の本源は何処までも之を宗教的信仰に求めねばならない」と喝破した。
今、東北創価学会が、信仰の活力と団結力をもって、社会に貢献を重ねていることに、どれほど多くの方々が共鳴と信頼を寄せてくださっていることか。
私のところには、自らが被災され、試練の生活を続けるなかにあって、生命を奮い立たせ、友のもとへ足を運ばれる報告も、一つまた一つと寄せられている。
先日も、ある県の支部長会の模様を伺った。
その集いで、一人の女子部リーダーの発言に、会場は感動に包まれたという。震災でお父様を亡くされた、この乙女は語った。 「苦しいのは、私だけではありません。もっともっと大変な方々がおられる。父は、私にそのことを教えてくれたのです」
この華陽の友は、悲しみを乗り越え、同世代の友を入会に導いた。
何と崇高な「福光」の拡大であろうか。

亡くなられたお父様も、きっと笑顔で見守っておられるに違いない。
仏法では、親子の「同時の成仏」が厳然と明かされている(P746)。
戸田先生も、しみじみと言われていた。
「最愛の人間の死という悲しみに直面した時の決意は、最も強く、最も尊く、最も大きい力がある」と。
大聖人は、若くして父を亡くした南条時光に対し、「いよいよ強盛なるべし。さるほどならば聖霊・仏になり給うべし、成り給うならば来りてまほ(守)り給うべし」(P1512)と仰せになられた。
どんなに苦しい難があっても、いよいよ強盛な信心に立って、広宣流布のため、人びとのため、社会のために戦い続ける。それが、亡き家族への最高の供養ともなる。
そこに、生死を超えて家族が一体となり、永遠に福徳に包まれ進みゆく常楽我浄の道が開かれる──。
これが、御本仏の絶対のお約束である。

東北出身の作家・志賀直哉が、何よりも大事にしていたもの──。それは「ファイティング・スピリット」であった。
すなわち、これから為すべきことに、断じて挑み、断固として勝ってみせるという「戦う精神」である。
わが東北の草創の父母たちは、どんなに悪口罵詈されようと、「新世紀の歌」を歌い合いながら、戦う精神の究極である「師子王の心」を取り出して、激戦に立ち向かってきたのだ。
師弟の「破邪顕正」の闘魂は、今、青年学会の後継の陣列に意気高く受け継がれている。私は嬉しい。

2011年11月17日木曜日

2011.11.17 わが友に贈る

寒さ対策を万全に!
風邪をひかぬよう
手洗い・うがいなど
賢明な体調管理を。
どうか健康第一で!

二乗作仏事 P594
師子身中の虫の自ら師子を食うが如し、外道には非ず多く我が仏法を壊りて大罪過を得ん

◇希望の明日へ
仏法では、人生の目的を成仏にあると説いている。生命論的に言えば、"成"とは「開く」という意義である。自己の生命にもともと備わっているもっとも尊厳な"仏"の生命を開く−−もっとも尊極な生命、大歓喜の生命、大いなる知恵の生命を輝かしていくことが大事である。よく世間一般で、死んだ人を"成仏"したなどというが、大きな間違いである。

☆我らの勝利の大道No.63 東北は人類の希望の光(3/5)
東北の誇り高さ要衝の地・福島を舞台に、私は『新・人間革命』「福光」の章を懸命に綴ってきた。
お陰様で、そのなかで『新・人間革命』の新聞連載も、大きな節目を刻ませていただいた。読者の皆様方のご支援に心から感謝申し上げたい。<十一月三日付で通算四千七百二十六回となり、山岡荘八氏の『徳川家康』の四千七百二十五回(余話含む)を超え、日本一の連載回数となった>
連載は、新たに「共戦」の章に入る。創価の師弟が共に心を合わせ、共に戦いを起こすのだ。
無名にして偉大な同志だち、苦楽を分かち合う真正の弟子たちの大闘争を、永遠に語り継ぐための民衆の叙事詩である。
それを思えば、一回一回の執筆にも渾身の力が宿るのだ。
いかなる苦難に遭おうと、人間の無限の可能性の炎は、断じて消えない。
最も苦しんだ人が、最も幸福になる!
最も苦労した人が、最も偉大な勝利者と輝く!

これが日蓮仏法の心だ。
私か対談した、中国の「国学大師」と仰がれる饒宗頤先生が語っておられた。
「蓮華は泥中にあっても、それに染まらず、美しい花を咲かせるという『如蓮華在水』は、法華経における主要な正義であり、教育といえましょう」と。
東北のわが同志は、この仏法の本源的にして根本の法理を体現されている。
かの釈尊が「法華経」を説き顕したのは、古代インド・マガダ国の都の「東北」に位置した霊鷲山であった。そのインドから見て「東北」に位置するのが、日本である。
御書には、「法華経は東北の国に縁ふかし」(一三〇九ページ)と記されている。
この法華経に有縁の日本の東北の同志が、いかなる逆境も勝ち越えて、広宣流布の総仕上げの使命を果たしゆくことは、仏眼に照らして、必然といっても決して過言ではあるまい。
私は、ひたぶるに祈る。
仏天から最大に信頼されゆく東北よ、寿量品に説かれるままの「我此土安穏」の天地たれ!
未来永劫に希望の旭日を昇らせゆく民衆の天地よ、皆が幸福を勝ち開く「衆生所遊楽」の宝土たれ!

2011年11月16日水曜日

2011.11.16 わが友に贈る

仏法は道理だ。
「信心即生活」の
賢明なリズムこそ
人生勝利の直道!
強き祈りで進め!

閻浮提中御書 P1589
仏法を信じて今度生死をはなるる人のすこし心のゆるなるをすすめむがために疫病を仏のあたへ給うはげます心なりすすむる心なり

◇希望の明日へ
大聖人と釈尊の仏法の違いは、あえて、たとえれば、釈尊の仏法では、ロッキー山脈の高峰をめざすように仏界の高みへ一歩一歩登っていく。特別に優れた人が仮にたどりついたとしても、それだけで人生が終わってしまい、他の人を救うこと、社会への貢献などは難しくなってしまう。大聖人の仏法は、足元のわが身、わが生命の大地を開拓して仏界の宝を掘り出していく。仏界の"宝の蔵"を開いていく。そのカギが題目であり、信心の一念である。また山でいえば、ただちにヘリコプター等で山頂に到着し、そこから悠々と下界を見下ろしながら、仏界の風を社会に送っていくのが、大聖人の仏法であるとたとえられるであろう。

☆我らの勝利の大道No.63 東北は人類の希望の光(2/5)
東北には、創価学会の折伏精神の源流がある。
東北には、三代の師弟が築いた人材の城がある。

愛する大東北よ!
宮城、岩手、青森、秋田、山形、そして、福島の誉れの友よ!
あの東日本大震災から八ヵ月……。
わが東北の同志は、いずこにあっても、信心という「心の財」を抱きしめ、生きて生きて、生き抜いてくださっている。
一人の友のため、地域のため、郷土のため、未来のために、戦って戦って、戦い抜いてくださっている。

大難に負けない東北の「勇気の人びと」「不屈の人びと」を仰ぎ見よと、世界中が感嘆している。
東北の「負げでたまっか!」は、関西の「負けたらあかん!」と共に、世界の同志の共通語となった。
まさに「試練の中で人間は断固と立ち上がる」という希望の法則を、人類史に実証されているのが、尊き東北の皆様方である。

なかんずく、東北の健気な母たちのご苦労が偲ばれてならない。私の胸には、日蓮大聖人の御賞讃の仰せが迫ってくる。
「大風が草をなびかし、雷が人を驚かすような世の中にあって、貴女が今まで信仰を貫き通されてきたことは、不思議なことです。
根が深ければ葉は枯れず、泉に玉があれば水が絶えないというように、貴女の信心の根が深く、いさぎよき玉が心に輝いておられるからでしょう。何と尊いことでしょうか」(御書一四七九ページ、通解)
この御文さながらの東北の母たち、女性たちの深く強く清らかな信心を、蓮祖が御照覧であられることは、絶対に間違いない。
留学中の仙台で、生涯の宝とする師弟の出会いを刻んだ中国の文豪・魯迅は、「深くねばり強い戦いに勝るものはありません」と語っていた。
仙台での魯迅の記念碑設置に際し、足を運んだ許広平夫人も述懐している。
「世の中に難しいことなどありません。それは人間の心が堅忍か否かにかかっているのです」と。
その「粘り強さ」と「人間の心の堅忍さ」を、我らの東北の友は、何と神々しく発揮されていることか。
東北だからこそ、耐え抜くことができた。
そして東北だからこそ、勝ち抜くことができる。

後世の歴史に、必ずや希望の鑑として刻印されるであろう。
「人々が重大な難問に立ち向かう決意を固めると、最大の歴史形成力が始動する」──これが、英国の慧眼の歴史家トインビー博士の洞察であった。
ゆえに私は信ずる。
前代未聞の試練に屈せず、雄々しく応戦する大東北から、新しき偉大な民衆世紀が開かれゆくことを!

2011年11月15日火曜日

2011.11.15 わが友に贈る

リーダーは
共戦の同志を
仏の如く大切に!
感謝と賞讃の心こそ
偉大なる前進の力!


御義口伝巻上 P737
今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は与如来共宿の者なり、傅大士の釈に云く「朝朝仏と共に起き夕夕仏と共に臥し時時に成道し時時に顕本す」と云云

◇希望の明日へ
成仏こそ、真実の成功であり、それが永遠の長者なのである。仏という長者の持つ財とは何か。それは"法財"である。あらゆる"善法"を身に備えている。あらゆる"万徳"を具足している。いっさいの障魔を倒し、いっさいの知恵に達し、心は大海のごとく広く永遠に自在の境涯を楽しんでいる。要するに「生命の大力」に満ちた存在−−それが出世間の長者、仏である。

☆我らの勝利の大道No.63 東北は人類の希望の光(1/5)
民衆の
 歌声とどろく
  その中を
 馬上もゆたかに
  法旗かかげて


杜の都・仙台に生まれ育った大詩人の土井晩翠翁は、青年たちのために多くの歌を作り、贈った。
「いざゆけ若人明朗と」
「いざゆけ若人敢然と」
「青春盛りの歓喜に満ちて 無限の希望に溢れて行かん」

若き魂の歌声があるところ、佗しい落胆などない。常に新たな開拓が始まる。
今、全国各地の創価青年大会でも、若人の弾ける命の合唱が躍動している。これほど力強く頼もしい、青春の凱歌があろうか。
思えば、五十年前(昭和三十六年)の十一月、私は大好きな東北の同志と、大空に届け、未来へ響けと、声高らかに歌を歌った。

♪ひらけゆく大空に
  舞う若鷲
 日本の柱 師のもとに
 苦悩にあえぐ
  ともどちを
 救わん 地涌の誇りもて


私の提案に応えて、真剣にして誠実な東北青年部が作成してくれた歌である。
「東北健児の歌」という題であった歌に、私は加筆し、「新世紀の歌」と命名させていただいた。
そこから、新世紀を開きゆく民衆の歌声と足音が、東北発で日本全国に轟きわたっていったのである。
あの日、あの時、「広宣流布の総仕上げは我らの手で!」と、わが東北の友は誇りも高く叫んだ。その人間王者の師子吼は、二十一世紀の今こそ、勇気凛々と高鳴っているのだ。

2011年11月14日月曜日

2011.11.14 わが友に贈る

新聞休刊日

諸法実相抄 P1360
日蓮一人はじめは南無妙法蓮華経と唱へしが、二人三人百人と次第に唱へつたふるなり、未来も又しかるべし

◇希望の明日へ
人生には、さまざまな花がある。富の花や、名声の花に酔いしれる人も多い。権勢の花や、安逸の花に溺れる人も少なくない。しかし、それらの花は、無常の移ろいを免れることはできない。また、自己満足の閉ざされた喜びのみで消え去ってしまう場合も多い。いくら華やかであっても、虚飾に彩られたものは、決して長続きはしない。また、人生の深き価値の結実もありえない。だが、たとえ地味であっても、正しき信仰に徹していくなかで咲かせた、わが生命の花は、何物にも侵されることはない。永遠にして尊極なる成仏の境界へと、必ず実を結んでいく。三世永遠の幸福の実をつけることができる。それは、自分のみにとどまることなく、民衆の大地に、蘇生と歓喜と希望の種子を、かぎりなく蒔き、広げていくことができるのである。

2011.11.13 わが友に贈る

語った分だけ
仏縁が広がる!
動いた分だけ
功徳が積まれる!
共に勝利の一日を。

上野殿御返事 P1544
今の時法華経を信ずる人あり或は火のごとく信ずる人もあり或は水のごとく信ずる人もあり、聴聞する時はもへたつばかりをもへどもとをざかりぬればすつる心あり、水のごとくと申すはいつもたいせず信ずるなり

◇今週のことば
誉れの「創立の日」を
全世界の友と祝賀!
師弟の魂は無敵なり。
創価の大城を
永遠に勝ち護れ!

2011年11月13日

◇希望の明日へ
悪世にあっては、正しきものには妨害があり、進むものには抵抗がある。当然の道理である。像法時代の天台ですら、あれだけの風雨を受けた−。仏法の目的は成仏にある。そして大聖人は、身命を捨てるほどの難との戦いがあってこそ成仏できると仰せである。難ありて、初めて成仏がある。悪口されればされるほど、仏の境界に近づける。これほど、ありがたいことはない。その意味で、むしろ苦難があればあるほど、心から喜び勇んでいく。その心が、まことの信心である。

2011.11.12 わが友に贈る

さあ 対話拡大の時!
いよいよの精神で
大生命力を奮い起こせ!
粘り強く朗らかに
偉大な勝利劇を!

御義口伝巻下 P784
桜梅桃李の己己の当体を改めずして無作三身と開見すれば是れ即ち量の義なり

◇希望の明日へ
師弟の道を全うし、自身も成仏の大道を進む。他の人も成仏という歓喜の大道に導いていく。これが仏法を奉じた人の根本の目的である。この目的が定まっているか否か−。目的への一念が、はっきりと定まっている人は強い。何があろうとも、すべてが成長への糧となる。その人には、動揺もなければ、愚痴もない。ふざけや要領が自らの損失であることが明らかに見えてくる。そして、苦しみは勇気を、悩みは知恵を、友の嘆きはかぎりなき慈愛を、わが胸中に開いてくれる。

2011年11月11日金曜日

2011.11.11 わが友に贈る

学会の会館は
地域の安心と幸福の城。
宝城を守る友に感謝!
火災・戸締りに注意し
絶対無事故の日々を!

開目抄下 P235
我が弟子に朝夕教えしかども疑いををこして皆すてけんつたなき者のならひは約束せし事をまことの時はわするるなるべし

◇希望の明日へ
成仏は、いかなる緑をもつかで決まってしまう。"一乗を説く"ことの大事な所以がここにあるのであり、同時にこれを説く人の存在が大事になってくる。ゆえに、善緑をもつか、悪縁に触れるかが、信心修行における幸、不幸への分岐点となる。

▽不可能とは臆病者の言い訳−英雄ナポレオン。偉大な歴史を残せ!信心は勇気の異名

☆折々の指導No.015 誠実で光るリーダーたれ(各部の代表に)
すべて、何をやるにしても、大事なことは、折伏精神だよ。
その点をはずしたら、人は育たない」
学会は、真面目で、真剣で、皆の幸せを願う世界だ。皆のことを心配し、皆のために苦労・努力する。それが創価学会だ
「幹部になればなるほど、誠実にいきなさい。
口だけ上手、それではいけない。真実の行動、懸命な行動がなければいけないよ。
そして、ひとたび広宣流布の戦いに挑んだならば、『仏法は勝負』だ。
同志の皆さんのことを思えば、負けるわけにはいかないじやないか。
断じて勝つために、どうすればいいのか──皆で題目をあげ、団結をして、智慧を出すのだ。
今こそ、広宣流布の基盤を盤石にしていくことだ」
「戸田先生にお応えしようと、私も広布の道を開くために、苦労したよ。真剣だった。
真剣な人には、誰もかなわない。誠実な人には、必ず結果が出る。
その人によって学会は支えられてきたし、学会はまた、築かれていくんだよ

2011年11月10日木曜日

2011.11.10 わが友に贈る

男女学生部の友よ!
知識は世界に求め
実践は足元から!
勇気と慈悲の剣もち
大指導者と羽ばたけ!

四条金吾殿御返事 P1122
法華経の文字を拝見せさせ給うは生身の釈迦如来にあひ進らせたりとおぼしめすべし

◇希望の明日へ
御本仏の門下である学会員は、妙法の宇宙大の力用を、信心によって、各人の人生の上に無限に顕現し証明していくことができる。仏界という、くめどもつきぬ大歓喜の境界に住しつつ、スケールの大きな自在の人生を開ききっていけるのである。御本尊を持った以上、何物も恐れる必要はない。何物をも嘆く必要はない。要は、何があろうとも、妙法を信じ、妙法を唱え、"わが身が南無妙法蓮華経の当体である"との大確信を貫いていくことである。"われ、仏子なり"との誇りを胸中に掲げきっていくことである。

▽外交を一生の地盤とせよ−恩師。人と会い、語れ!固く結んだ友情こそ財産

☆新時代第53回本部幹部会、SGI総会へのメッセージ(4/4)
古代ローマの哲人は、人知れず後輩に尽くす気高き高齢の友、まさしく多宝の父母のことを、「次の世代に役立つようにと木を植える」人と讃えました(キケロー著『老年について』)。
わがSGIは、「自分自身が花を咲かせようという気持ちでなくして、全世界に妙法という平和の種を蒔いて、尊い一生を生き抜こう」との心で出発しました。
大聖人が仰せの如く『いまだこりず候』(P1056)との不屈の大精神で、幸福勝利の種を、いよいよ喜び勇んで蒔いていくことを、深く決意し合って、私のメッセージといたします。
皆様、どうか、お元気で!

2011年11月9日水曜日

2011.11.09 わが友に贈る

創価班、牙城会
白蓮グループこそ
青年学会の主役!
若き熱と力で
広布の未来を開け!

高橋殿御返事 P1467
其の国の仏法は貴辺にまかせたてまつり候ぞ、仏種は縁に従つて起る是の故に一乗を説くなるべし

◇希望の明日へ
どのような富と力で築いた栄華であっても、仏界という全宇宙にも広がり、三世永遠に通じる大境界からみれば、それは一時の幻のごときものにすぎない。崩れざる絶対的幸福境涯は、成仏という二字で、わが生命を染め抜く以外にないのである。

☆新時代第53回本部幹部会、SGI総会へのメッセージ(3/4)
不二の弟子である私は、あのベルリンの壁に象徴される東西冷戦の真っ只中、師匠の理想のままに、平和と文化と教育の対話を、皆様方とともに、世界へ繰り広げてきました。
そして、50年──。いかなる苦難にも絶対に揺らぐことのない人間主義の信頼と友情の大連帯は、ヨーロッパをはじめ、全地球を包んでおります。
何ものをも恐れぬ、この人間と人間の強く美しき生命の結合にこそ、三代の師弟の魂は未来永遠に脈動していくのであります。
今、日本中、世界中で、若き地涌の友が、『二陣三陣つづきて』(P911)歓喜踊躍し、登場してくれております。
21世紀の創価の青年群が決然と立ち上がった。ゆえに新たな妙法の大興隆の時が来たと、私は誇り高く宣言したいのであります。
御聖訓には、『真実に一切衆生の色心の難を止める秘術は、ただ南無妙法蓮華経である』(P1170通解)と断言されております。
人類が渇仰してやまない、この妙法を、私たちは、さらに生き生きと、さらに勇気凛々と唱え、弘め抜いてまいりたい。

2011年11月8日火曜日

2011.11.08 わが友に贈る

真剣な「決意」を!
強盛な「祈り」を!
果敢な「行動」を!
この無敵のリズムで
すべてに勝ちゆけ!

諸法実相抄 P1359
能く竊かに一人の為めに法華経の乃至一句を説かば当に知るべし是の人は則ち如来の使如来の所遣として如来の事を行ずるなり

◇希望の明日へ
正しい信仰は、盲信や迷信ではない。道理のうえから納得でき、しかも事実の生活の中で体験し、実証するものである。御書をしっかり学ぶとともに、体験によって、確信を深めながら、法の正しさを訴えていってこそ、いかなる環境のなかでも、正法は流布していくのである。

☆新時代第53回本部幹部会、SGI総会へのメッセージ(2/4)
つい先日、人類の人口は、70億人を突破しました。
近年、大規模な自然災害が多発するとともに、国際政治においても、世界経済においても、科学技術においても、大きな変動期に直面していることは、論を待ちません。
この、今という激動の「時」を、どう捉えるのか。
日蓮大聖人は『仏の眼(経文)を借りて時を考えよ。仏の光(智慧)を用いて国土を照らしてみよ』(P258趣意)と教えてくださっております。
たとえ、どんな災難や国難が起こったとしても、苦悩に喘ぐ民衆のため、「妙法が興隆する大瑞相」へと、転じていかねばならない。また、必ず大悪を大善に変えて、平和と繁栄の楽土を築いていくことができる。
そのために、地涌の菩薩が断固として躍り出て、立正安国、広宣流布に打って出るのだと師子吼されているのであります。
大聖人が示された「妙法が興隆する世界」とは、「異体同心」という究極の人間共和の世界であります。戸田先生は、分かりやすく端的に、「楽しく清く、晴れ晴れとした、みな仲の良い友の世界」と表現されました。
これが、創価学会です。これが「戸田の命よりも大切」と叫ばれた学会の組織です。

2011年11月7日月曜日

2011.11.07 わが友に贈る

同志と仲良く!
地域と仲良く!
その心に福運が咲く。
励まし合って進めば
力は2倍3倍に!

可延定業書 P986
命と申す物は一身第一の珍宝なり一日なりともこれを延るならば千万両の金にもすぎたり

◇今週のことば
苦難に挑む友へ
希望の励ましを送れ!
変毒為薬の妙法だ。
悩みは必ず打開できる。
共々に勇躍の前進を!
2011年11月07日

◇希望の明日へ
病気も、苦難も、何も恐れることはない。末法の人々のための大良薬である妙法の力を、自らの信心によって、自身の生活の中で、人生の中で、厳然と証明していけばよいのである。

◇新時代第53回本部幹部会、SGI総会へのメッセージ(1/4)
日本の創価学会も、世界のSGI(創価学会インタナショナル)も、「大勝利の万万歳」で、「創立の月」を堂々と迎えることができました。
これもすべて、私と同じ心に立って、広宣流布の最前線で戦ってくださる、最も偉大な同志のお陰であります。尊き全同志に、私は心からの感謝を申し上げます。
世界60力国・地域から出席されたSGIのリーダーの皆様方も、本当によくお集まりくださいました。
なかんずく、タイ王国の皆様方、長引く洪水の被害に、心よりお見舞いを申し上げます。
法華経には、『閻浮提に広宣流布して断絶せしむること無けん』(P505)と遺命されております。
その通りに、私たちの広宣流布の舞台は、世界全体に、いやまして大きく広がってきました。
新時代を展望しながら、いっそう心を合わせて、前進していかねばならない段階に入りました。
その意味において、日本の全方面、世界の全大陸の同志が、たゆみなく永続して進んでいけるように、私は祈り、心を砕き、指揮を執っております。

2011年11月6日日曜日

2011.11.06 わが友に贈る

今こそ
地涌の菩薩の
使命を果たす時!
断じて勝つと
強き一念で進め!

日興遺誡置文 P1618
未だ広宣流布せざる間は身命を捨て随力弘通を致す可き事

◇希望の明日へ
仏法も人生も、大切なのは事実である。現実の証拠である。道理証文よりも現証にはすぎず』(P1468)−−(仏法では、道理(理証)と証文(文証)が大切である。そのうえで)道理や証文よりも現証が第一である−−と大聖人は仰せである。どんなに立派なことを言っても、またすばらしい話を闘いたとしても、自分自身が現実に満足と勝利の実証を示さなければ、意味がない。観念論、抽象論になってしまう。それでは、仏法ではないし、実像の人生でもない。

☆人間革命 第1巻より
──獅子は伴侶を求めず
──これまで、彼を襲った異様な孤独感は、暗々裡に伴侶を求めていたことから来ている。彼の弱い心の仕業であったかも知れぬ。獅子は、伴侶を求めず、伴侶を心待ちにした時、百獣の王、獅子は失格する。
獅子には、絶対、孤独感はない。伴侶は求めずして、ついて来るものだ。広宣流布の実践は、獅子の仕事である。自分が、獅子でなければならぬなら、伴侶は断じて求むべきではない。自分が真の獅子ならば、伴侶はみずから求めて、自分の後に蹤(つ)いて来るに違いない。
要は、自分が真の獅子であるかどうかにかかっている。まことの地涌の菩薩であるか、否かだ。
──俺は、獅子でなければならない。獅子だ。百獣はいくらでもいる。

2011年11月5日土曜日

2011.11.05 わが友に贈る

青年には
偉大な力がある。
さあ大確信で語れ!
栄冠は諦めない人に。
不屈の挑戦王と輝け!

開目抄上 P200
いはずば今生は事なくとも後生は必ず無間地獄に堕べし、いうならば三障四魔必ず競い起るべしとしりぬ、二辺の中にはいうべし

◇希望の明日へ
実証といっても、決して背伸びをする必要はない。生活の上に、人格の上に、また、家族の中で、職場・地域のなかで、自分らしく着実な向上の姿を示していきたい。
"あの人はいつも、はつらつとしている"
"あの人には希望と信念を感じる"
"あの人の顔を見ると、ほっとする"
"あの人のようになってみたい"
−−自然のうちに、周囲の人が、そう思えるような、自分らしい人間革命に、挑戦していけばよい。それ自体が、無言のうちに、弘教の土壌をつくっていることになる。

☆人間革命 第1巻より
よき種は、よき苗となり、よき花が咲こう。よき少年は、よき青年となる。よき青年は、よき社会の指導者と育とう。

何んであろうと、信じたものが間違っていた場合、人は極端に不幸になる。いや、人ばかりでは決してない。集団も、社会も、国家も変わりはない。
この世で、最も忌むべきことは、誤ったものを正しいと、信ずることだ。
自己が、たとえどんな善意に満ちていたとしても、また、どれ程努力を尽くしたとしても、そんなことは関係ない。信じたものが非科学的であり、誤っている場合、人は不幸を招かざるを得ない。これは疑いようのない事実である。

一人の新たなる真の同士をつくる。それから一人、また一人とつくってゆく。これがとりもなおさず、時を作ることになる。
いま、一人の真の同士をつくることの困難は、やがて時来たり、百万の同士を育てることよりも難しいかも知れない。焦ってはならぬ。

2011年11月4日金曜日

2011.11.04 わが友に贈る

広宣の若き勇者
ヤング男子部が活躍!
青春の労苦こそ宝だ。
一歩前進の積み重ねで
大きな自分をつくれ!

富木入道殿御返事 P956
命限り有り惜む可からず遂に願う可きは仏国也

◇希望の明日へ
真に"新しいもの"−−それは、旧来の理論ではとらえきれない。実験証明を通して、初めて、その価値がわかる。それ以外にないともいえる。ゆえに、後輩など人を見るにも、安易な"きめつけ"は禁物である。自分の知らない"新しい可能性"をもった人材かもしれない。長い目で、事実を見なければわからない。そして、人類がいまだ知らない大宗教を、他の人に先駆けて持った学会員は、そのすばらしさを示していくためにも、何より、人生と生活の上の実証が大切である。人々は、それを見て初めて"この仏法は、これまでの宗教とは違う"と、その偉大さ、新しさを知っていくのである。

▽何事も貫き通す強い巌の精神でいけ−恩師。青年は職場の第一人者たれ!

☆大白蓮華 巻頭言「新しき地涌の宝友と朗らかに!」(平成23年11月号)
わが人生
 広宣流布に
  立ちにけり
 悔いなく無上の
  三世の喜び

「哲学は人を晴れやかにし、肉体がどんな状態にあっても人を強くし、かつ喜ばしく」するとは、古代ローマの哲人セネカの言である。
偉大な哲学に生きることは、どんな財宝を持つよりも富める人生だ。
なかんずく、「生老病死」という根源の苦を打開できる生命哲学が、「常楽我浄」の大仏法である。
御義口伝には、「南無妙法蓮華経と唱え奉る即ち自在なり」(P789)と断言されている。
妙法は大宇宙の根本の法則である。ゆえに、一度、受持したならば、苦悩の渦巻く娑婆世界にあろうと、何ものにも左右されぬ、自在の幸福境涯を心広々と開いていけるのだ。
創立の父・牧口常三郎先生が妙法の信仰を始められたのは、昭和三年(一九二八年)、五十七歳であった。
先生は晴れ晴れと語られている。
「この信仰は、何か狭い世界に人るんじゃない。自在の福徳の世界に出るんだよ!」
今、喜ばしいことに、新たな青年学会の拡大のうねりの中で、新入会の宝の友が続々と誕生している。
諸法実相抄には、「皆地涌の菩薩の出現に非ずんば唱へがたき題目なり」(P1360)と示される。
仏法の眼から見れば、勇んで広宣流布の陣列に連なる友が、どれほど深い宿縁と使命を帯びた方々であるか。皆、久遠からの誓願の同志だ。
大聖人は「名字即の位より即身成仏す」(P566)と甚深の仰せである。「名字即」とは初めて妙法を信受した境地だ。その初信の息吹で法のために戦う人が、尊極の仏なのである。
十九歳で入信した私も、当初は家族も反対で、戸惑うことも多かった。
だが、戸田城聖先生は言われた。
「信心は、年数ではない。役職でもない。勇気だよ。勇気ある信心が、自分を変え、現実を変え、未来を変えていくのだ」と。
だからこそ、新入会の友を励ましながら、一緒に勇気ある信心を奮い起こし、折伏行に打って出るのだ。
まず共に実践である。人のために、祈り、動き、語る。この菩薩行の中で、言い知れぬ充実と歓喜を味わい、確信をつかみとる。これが、人材を育てる学会の誉れの伝統である。
昭和三十一年の秋、山口開拓闘争の折に入会した萩の母は、自らも直ちに布教を開始された。弘教は百世帯を超える。心がけてきたのは、折伏した人を励まし続けることだ。
「新しい同志は自分の何倍も幸福になり、何十倍も立派な人材に育ってほしい。これが私の戦いです!」
折伏した方のお子さんやお孫さんからも、「貴女のおかげで、わが家はこんなに幸せになりました」という感謝の声が尽きることはない。
一人から一人ヘ──。この触発の限りない連鎖が、世界一九二力国・地域の平和の大連帯となったのだ。
懐かしい大科学者ポーリング博士の持論は、"大学で最大に力を入れて育成すべきは新入生"であった。
いずこの世界でも、フレッシュマンこそ発展の原動力だ。一人の新入会の友を「一騎当千」の人材へ薫陶することは、千人の拡大にも等しい。
新しき地涌の宝友と共に朗らかに、青年学会の拡大を加速しよう!

大福運
 積みゆく広布の
  青春は
 来る日も来る日も
  晴れの舞台と

2011年11月3日木曜日

2011.11.03 わが友に贈る

「さいわいは心より
いでて我をかざる」
人生の豊かさは
友に尽くす心にある。
誠実一路の道を!

兵衛志殿御返事 P1108
恐れ候へども日蓮をたいとしとをもひあわせ給へ、もし中不和にならせ給うならば二人の冥加いかんがあるべかるらめと思しめせ

◇希望の明日へ
信心を根本に社会的にも立派な仕事を成し遂げる人。現実の自分の姿を通して、人々に納得と信頼を広げる人。このような人がいれば、広宣流布の歩みはいや増して速まる。妙法を持った一人一人の実証が、どれほど尊い広布伸展の"推進力"となるか。その意味で、各人が、それぞれの立場で堂々たる凱歌の実証を示しきっていただきたい。

☆ジャズと人生と仏法を語る 第14回「地球と人間の律動」
一番苦労した人が、一番幸福にならねばならない──これが仏法の精神です。

「忍耐の人に不幸はない」──これは、南アフリカのマンデラ元大統領の故郷の格言です。
氏は、それまでのアパルトヘイト政府に従事した白人職員を排除するのではなく、移行策への力添えとして、彼らの多くをそのまま採用しました。全く予想外のことでした。氏は、そのようなビジョンをもって、いかにすれば国を堅持して崩壊を防ぐことができるかを考えながら決断を下していったのです。それは見事に成功しました。
マンデラ氏の大きさ、深さが、人種を超え、一人一人に脈打つ人間の善性を引き出し、開花させ、解き放っていったのです。偉大な人間教育者でもありました。

人間には「生命」という共通の大地があります。その生命の大地から、人類は、まだまだ尽きることのない創造のエネルギー、発展の智慧を湧き上がらせていくことができます。
法華経に説かれる「地涌の菩薩」とは、濁世の真っ只中で民衆の幸福のために、無限にして永遠なる大生命力を発揮して戦う勇者です。

◎きょう誕生日のすべての方へ、「おめでとう!」

2011年11月2日水曜日

2011.11.02 わが友に贈る

順調な時ほど
決して油断するな!
心の隅に魔は競う。
慢心・惰性を拝し
絶対無事故の前進を!

松野殿御返事 P1382
忘れても法華経を持つ者をば互に毀るべからざるか、其故は法華経を持つ者は必ず皆仏なり仏を毀りては罪を得るなり

◇希望の明日へ
世間は表面のみの"評判"で動いていく。そんな浮薄な現象につねに動かされていく自分であれば、まことの信心ではない。まことの仏法者ではない。また国法を犯せば、罰せられる。しかし、その法も時とともに変わり、法の解釈も場合によって違う。仏法は、これらに比べて根本的な次元の法である。永遠の大法を基準にして、現実のうえに、人生と社会で勝利するか否か、また成仏したかどうかを問題にする。否、絶対の法が基準であるゆえに、信心の一念が強く正しきかぎり、勝利できないはずがない。勝利こそ正しき実践の証明である。

▽きょう創価班の日。結成から35周年。師弟の大城守る誉れの後継の君らよ
▽「生涯本(もと)より思い切て候」御書。勇敢に正義を叫べ。確信の声は友の心に響く

2011年11月1日火曜日

2011.11.01 わが友に贈る

我ら青年学会こそ
希望の柱なり!
正義の眼目なり!
幸福の大船なり!
栄光輝く11月を飾れ。

四条金吾殿御返事 P1192
夫れ運きはまりぬれば兵法もいらず果報つきぬれば所従もしたがはず

◇希望の明日へ
信心は、即生活であり、仏法は、即社会である。信心していながら、生活のリズムを乱し、職場に悪影響を及ぼすようであれば、それは、仏法者としてあるまじき姿である。それは、信心に対する誤った不信を与えてしまうことになるからだ。社会にあって一人一人が、仏法のすばらしさを証明し、信頼を広げゆく一人一人でなくてはならない。"さすが、信心している人は違うな。立派だな"と言われる、揺るぎない"信頼の人"であってこそ、信仰者といえる。

▽広宣流布は私がやる!この確信で折伏せよ−恩師。必死の一人に周囲は続く