2011年9月27日火曜日

2011.09.27 わが友に贈る

副役職の同志が
元気な組織は強い。
中心者は積極的に
意見や応援を求めよ。
総合力で勝て!

法華証明抄 P1586
いかなる過去の宿習にてかかる身とは生るらむと悦びまいらせ候上の経文は過去に十万億の仏にあいまいらせて供養をなしまいらせて候いける者が法華経計りをば用いまいらせず候いけれども仏くやうの功徳莫大なりければ謗法の罪に依りて貧賎の身とは生れて候へども又此の経を信ずる人となれりと見へて候

◇希望の明日へ
広宣流布の険難の道にあって、臆病にも信心を捨て、卑しき"奴隷の道"を選ぶか。それとも勇気をもって、誇り高き"王者の道"をゆくか−−。その一点で"大聖人直系"の信心か、否かの命脈が、決するのである。

☆質問12 毎日、学校やクラブ、塾で忙しく、自由がありません

「力」をつけずして、本当の自由はない
自由とは、遊ぶことではない。浪費することではない

自由といっても、自分が心の底から「何を」したいと願っているのか。
自由とは、遊ぶことではない。浪費することではない。時間があることではない。休日が多いことではない。気分のまま、気ままに生きるのは「放縦」であって「自由」ではない。
自由とは、いかに、自分自身を高揚させていくか、自分自身の目的に向かっていくか──そのなかにこそ、黄金のような「自由」がちりばめられ、光っているのです。

じつは、自由があるからこそ、勉強できる。自由があるからこそ、学校へも行ける。
自由があるからこそ、勤行もできるし、高等部の活動もできるのです。

それを不自由ととらえるところに、人生の大きな錯覚がある。
学校に行くのを、権利ととるか、義務ととるか。自由か、不自由なのか──自分自身の哲学、智慧をもっているかどうかで、すべてが変わってくる。
「受け身」になったら、どんなに自由な環境であっても「不自由」な自分になる。「攻め」の一念になれば、どんなに不自由な環境であっても、「自由」な自分になれる。
病気の人は、学校に行けない。戦争中の国の子どもも、学校に行けない。
行ける人は、行ける自由がわからない。行けることは最大の自由なんです。勘違いしてはいけない。

自由とは「自律」のなかにある。
現実の社会・生活は、何かに縛られている。放縦ではない。無軌道ではない。
太陽も、朝出て、夕方には沈む。星も夜だけ輝く。皆、それぞれの役目をもっている。それぞれの軌道にのっとって、運行している。その意味では自由ではない。
朝起きて学校に行ったり、高等部の活動をすることは、今の諸君たちが歩むべき「軌道」なのです。絶対に、すべきだと思う。
それをやらずして本当の自由はない。「力」をつけずして、強くならずして、本当の自由はない。
知力、体力、精神力、生活力、経済力──力があれば「自由」になれる。その最高の力が「精神の境涯」なのです。

自由とは、自分の生きる価値で決まる。自分の心・境涯で決まる。
そこに自由があるのに、自分はそれをわからずに、不自由と思っている場合もあるだろう。
同じ場所にいる人が、大いなる自由を感じている場合もあるだろう。
同じ「自由」を、立派に価値創造に使う人もいれば、気ままに浪費して不価値・反価値にしてしまう人もいる。自由の名を叫びながら、自由を破壊する人もいる。"自由"のなかに、価値と不価値を含んでいる。
結論は、自分自身を支配できた人こそが、本当の自由なのです。
(『青春対話2』から)