全世界の希望!
試練に立ち向かう
不屈の「みちのくの魂」に
勝利と栄光あれ!
光日上人御返事 P934
『何に況や今の光日上人は子を思うあまりに法華経の行者と成り給ふ、母と子と倶に霊山浄土へ参り給うべし、其の時御対面いかにうれしかるべきいかにうれしかるべき』
◇希望の明日へ
当然のことながら、御本仏が受難されるのと、凡夫が難を受けるのとでは、次元が異なる。しかし門下にとっても、難に耐え、難と戦うなかに信心の深化と開花があり、広布への前進があることは変わらない。仏意仏勅の団体である創価学会の歴史にあっても、大難にあうごとに、成長の節を刻み、発展してきたことは事実である。
★質問007 自分は頭がよくないから、将来は知れています
自分で自分をあきらめてはいけない
今は一生涯にわたる「学び」のエネルギーを蓄える時!
私が戸田先生に、頭のよいのと悪いのと、どのくらいの差があるのかと、うかがったことがある。
戸田先生は、そこにあった筆に墨をつけ、半紙にサッと一本の横線を書かれ、「この線の上と下くらいの差しかないよ」と、おっしゃった。
皆、同じように脳を持っている。差など、ほとんどない。どのくらい「努力」をしたか。この二字によって決まる、と。
今もって、その言葉が忘れられません。
ともあれ、自分で自分を悪く決めつけてはいけない。人間の可能性というのは不思議なもので、自分は頭が悪いんだと決めつけると、本当に頭が動かなくなってしまう。
「自分の頭脳は、ほとんど使っていないんだ。眠っているんだ。だから、努力すれば、いくらだって自分はできるんだ」と確信することです。事実、そうなのだから。
頭は使えば使うほどよくなる。いわんや、お題目をあげて、努力しぬいていけば、青年に不可能はないのです。
「何のために学ぶのか」
いい学校へ、いい会社へと、先へ先へ追いかけていっても、それだけでは「幸福」はない。
ただ安楽に暮らすためだけなら、必ずしもそんな苦労をする必要はない。
しかし本当は、勉強は、有名な大学に行くためにあるのではありません。
自分自身の頭脳と心を耕すためにある。自分自身が豊かな人間になって、「生きた証」を、この世に刻みつけるためにある。
自分でしかできない自分の使命を果たすのです。不幸な人のために働くのです。そのためには「力」がいる。「人格」がいる。
だから「努力したほうが得だよ」と言うのです。
「学ばずは卑し」という言葉があるが、人間の人間らしさというものは、「学ぶ」ところにある。
しかも今は高度な情報社会です。一生涯、つねに学んでいかなければ、すぐに遅れてしまう。
一生涯、勉強。一生涯、学ぶ。これが、これからの指導者の要件です。
今の世の中の行き詰まりは、じつは指導者自身の行き詰まりにある。「学ばない」からです。
たとえば、若い世代の意見を、じっくり聞いて学ぶ。学んだら実行する。そういうゆとりというか、幅というか、人間としての度量がなくなっている。
10代の今こそ、一生涯にわたる「学び」のエネルギーを蓄える時です。頭脳の鍛錬の土台づくりである。だから「人と比べてどうかではない。自分らしく、精いっぱいに、学びに学べ」「バカにされても、悔しい思いをしても、へこたれないで進め」と重ねて言っておきたい。
そういう「心」のある人は、もう半分、勝っているのです。
(『青春対話1』から)
☆随筆 我らの勝利の大道No.57 8月24日の誓い
「如説修行抄」には、
『此の経を聴聞し始めん日より思い定むべし』(P501)と厳しく戒められた箇所がある。
それは、『真実の法華経の如説修行の行者の師弟檀那とならんには三類の敵人決定せり』(P501)という大難への覚悟である。
戦時中の法難で投獄された牧口常三郎先生に、愛弟子である戸田先生は最大の感謝をもってお供された。
そのあまりにも崇高にして峻厳な師弟に、命を賭して続くのだ──こう私は、決心していた。
ゆえに戸田先生の事業が最悪の苦境に陥り、他の弟子たちが悉く逃げ去ろうと、私の心にはいささかの迷いもなかった。
私の入信満三年の日となる昭和二十五年の八月二十四日、戸田先生は学会の理事長を辞任する意向を発表された。悔しさに歯を食いしぼり、私は巌窟王の如く誓った。
──このどん底を何としても打開して、絶対に先生に第二代の会長に就任していただくのだ、と。
聖教新聞の創刊の構想を先生と二人で語り合ったのも、同じ八月二十四日であった。広宣流布の未来を開く言論城、聖教の「創刊原点の日」だ。
ともあれ、最も苦難の時にこそ、最も偉大な勝利の因が刻まれる。これが、変毒為薬の妙法である。
この因果の理法に照らして、今、復興に向かって懸命に戦い続けておられる東北の被災地の同志に、必ず必ず大勝利の時が来ないわけがない。
私も、小説『新・人間革命』の「福光」の章を書き進めながら、妻と共に、さらに強盛に祈り、題目を送り続ける日々である。