2011年9月17日土曜日

2011.09.17 わが友に贈る

焦点は青年!
若き人材の活躍を
皆で応援しよう!
その心があるところ
広布は勢いよく加速!


遠藤左衛門尉御書 P1336
左衛門殿は梵天釈天の御使にてましますか、霊山えの契約に此の判を参せ候、一流は未来え持せ給え霊山に於て日蓮日蓮と呼び給え、其の時御迎えに罷り出ず可く候

◇希望の明日へ
悪は善の敵となり、善は悪に攻撃される。これは永遠に仕方のないことである。その意味で、人生は覚悟する以外ない。「愚人にほめられ、大聖に叱られる道をとるか」「愚人に迫害され、大聖にほめられる人生を選ぶか」−−中間はない。また善をなす勇気がなければ、悪を助長し、結局は悪に通じよう。釈尊も、天台も伝教も、そして御本仏・日蓮大聖人も、あれほどの攻撃を受けられた。それは"何か悪い点があったから"であろうか。断じて、そうではない。反対に、絶対に"正しいからこそ"悪に迫害されたのである。この道理が腹に入れば、何も恐れる必要はない。いっさいは霧が晴れたように、明瞭に見えてくる。また向かい風すら、心地よいそよ風に、そして成仏と広宣流布への追い風にと変えていけるのでおる。

☆随筆 我らの勝利の大道No.60 信心練磨の教学
すりはむどく(須梨槃特)は三箇年に十四字を暗にせざりしかども仏に成りぬ提婆は六万蔵を暗にして無間に堕ちぬ』(P1472)と、御書には峻厳に警告されている。愚鈍といわれた須梨槃特は弟子の道を貫いて成仏し、膨大な経を知っていた提婆達多は仏に背き、無間地獄に堕ちた。
要するに、教学ができるから偉いのではない。よく知っているというだけなら、世間の知識とどこが違うのか。
教学ができることと、信心があることとは、そのままイコールではない。これまでも教学を得意にふりかざしながら、退転したり、反逆した愚かな増上慢が出たではないか。
我らの人生の根本目的は、一生成仏であり、広宣流布である。それは「法華経の兵法」をもって、信心一筋で怒濤の中を戦い抜いていくしかないのだ。
偉大な信心の行者、信行の勇者に成長するための教学である。ここをはき違えては、絶対にならない。
戸田先生は、「学問的な研究の教学」と「信心で掘り下げていく教学」があると言われたことがある。
不二の師弟として、戸田先生も私も、「信心で掘り下げていく教学」で戦ってきた。だから学会は勝った。実践のなかで教学を学んだ学会員が堂々と勝ってきたのだ。

先日も、九十五歳の多宝のお母様が、慈愛と大確信で仏法を語り、八十四歳の後輩の方を折伏されたという報告を伺った。このお母様は、幼い頃から奉公働きの毎日で、十分に学校に通う機会もなかった。
しかし、学会という民衆大学で、実践の教学を身につけてこられた。
だから強い。
お子さんやお孫さん方も皆、世界広布、地域広布の立派なリーダーに育っておられる。
「諸法実相抄」は、有名な御文で締め括られている。
行学の二道をはげみ候べし、行学たへなば仏法はあるべからず、我もいたし人をも教化候へ、行学は信心よりをこるべく候、力あらは一文一旬なりともかたらせ給うべし』(P1361)
この精神に徹しゆくなかにこそ、学会の未来永劫にわたる勝利はあるのだ。